八百十二 浄土真宗に関心のある理由(その一)

平成二十八年丙申
二月十一日(木) 増上寺と築地本願寺に参拝する理由
最近、芝増上寺と築地本願寺に参拝することが多い。これは定期券でどちらも行けるといふ単純な理由が一つある。川崎大師も定期券で行けるのだが、それほど行事が多い訳ではないので回数が少ない。もう一つ、昨年各本山を廻つて浄土系、天台系、真言系を勉強しようといふ気持ちが生じた。だから浅草寺の末寺の聖天にも何回か参拝した。
私はこれまで上座部、僧X、禅は学んだので、この際、浄土、天台、真言を勉強し、更には他の宗教とも連携して地球温暖化を停止させようといふ次第だ。

二月十三日(土) 浄土真宗はなぜ門徒が多いか
浄土真宗に関心のある理由は、なぜ門徒が多いか。この一言に尽きる。予め結論は考へた。予めの結論は結果において正反対になることも多い。その結論とは「世襲のため欲が生まれ、その拡大或いは維持のため布教が拡大した」といふものだ。
この時点で別の解釈もある。出家するには生涯独身など、かなりの決断が要る。非僧非俗の親鸞門下はその点、気楽だ。江戸幕府による寺請け制度の確立のときに急増したのではないか。さういふ仮説も持ちながら、今回の調査に至つた。

二月十四日(日) 山折哲雄氏「人間蓮如」
親鸞の廟所が作られた後に、まづ後継者争ひが起きた。廟所を本願寺にするときも争ひが起きた。世襲が欲を生み、それがよい方向に作用して門徒拡大に繋がつたのではと推定した。しかし加賀の一向一揆では高田派と戦火を交へ、それは悪い方向に向かつた事例だ。
良い方向と悪い方向の一番大きな流れが蓮如の時代だらう。浅草の東本願寺の法主台下の御講話が蓮如だつたといふことでまづ、山折哲雄氏「人間蓮如」を読んだ。前半は高田派を悪く書き、蓮如の信仰を正しいとし過ぎたように思ふ。蓮如も世襲による血脈だから、純粋な仏教から見れば同じではないのか。それは
蓮如(中略)は、高田派内における善知識信仰をはじめとする呪術的な入信儀礼にたいして秘事法門の烙印を押し、「唯授一人口訣、入親鸞位」のごとき怪しげな教理的デマゴギーにたいしても、疲れを知らぬ攻撃をかけた。

その一方で後半は蓮如の俗人性を、そこまで強調しなくてもいいのにと思ふ記述が多くなる。私が浄土真宗に価値を認める理由は、多数の門徒が現在まで続いたといふ事実に対してだ。意図的な圧力なしに事実が長く続くことこそ伝統だ。決して一番初めが正しいのではない。それだと原理主義になる。その伝統とは何かを探りたい。私は声明、節談など庶民の娯楽を兼ねた説法ではないかと、現時点では一つの仮説を立ててゐる。

二月十九日(金) 今井雅晴氏「親鸞と蓮如の世界」
次に今井雅晴氏の「親鸞と蓮如の世界」を読んだ。第一節「世捨て人の恋-法然・親鸞・一遍・一休-」を読んだとき、たいした内容ではないと感じた。しかし第二節「歴史の中の親鸞」で、親鸞が八十四歳のときに嫡子善鸞を勘当したことについて

今まで、敵対者として善鸞と争った関東の弟子たちは(中略)正しく親鸞の教えを受け継いでいると思われてきました。しかし、どうもそういうことではないようです。
でこの図書への評価が一転する。更に

釈迦が結婚を禁止して、それを千何百年来守ってきたことについては、当然ながら理由があるのです。どうしても守れないような、あるいはむちゃな戒律でしたら、西域・中国から朝鮮半島・日本に至るまで、千何百年来守られるわけはありません。
私も今井氏と同じ意見を持つ。僧侶妻帯の一番の弊害は弟子より子を可愛がる、或いは弟子を取らない、或いは弟子は師匠と同じ思想だが子は親と同じ思想とは限らないことだが、今井氏も

千何百年来禁止されていた結婚に踏み切ったシッペ返しを、親鸞は八十四歳のときに受けたということになります。
と書く。この本はこれ以降、客観的に書かれたよい内容なので、奥付けを見ると今井氏は、筑波大学歴史・人類学系教授とある。

二月二十一日(日) 続、今井雅晴氏「親鸞と蓮如の世界」
浄土真宗が法然の弟子の立場を超えたのは蓮如の時代とする本が多い。そのような中で今井氏は

念仏だけに注目すると、呪術の念仏->専修念仏->報謝の念仏という道順になる。この道順がわかりやすかったことは、今日に至るまでの関東のかなりの浄土真宗の寺院で法然が崇敬されていることでも創造される。
当初、覚如も右のような傾向に乗る形で布教活動を行なっていた。しかししだいにその方針を変更して、法然を排除した親鸞至上主義を取るに至った。
次に横曽根門徒について

性信没後も横曾根門徒は発展を続けた。その最盛期は、鎌倉時代後期から南北朝時代である。戦国時代において戦乱に巻き込まれ、法恩寺は焼失した。
江戸時代初期、徳川家康の招きにより、江戸浅草に法恩寺は再建された。(中略)江戸時代後期から今日の東京都台東区東上野の地に落ち着いた。
この本であと重要なところは上記二箇所と見た。

三月二日(水) 山折哲雄氏「蓮如と信長」第一章、第二章
山折哲雄氏の「蓮如と信長」は本質を論じた本ではない。その理由はある雑誌に掲載されたものを一冊にまとめたためだ。第一章の冒頭は悪人成仏で始まるが、悪人の解釈は当時と現代で異なる。また阿弥陀仏は聖道門で救はれない人を救ふと解釈すれば済む。親鸞が悪人成仏を四六時中云つた訳ではなく歎異抄にあるだけだ。そんなに騒ぐ必要はない。
第二章の法然や親鸞、道元や僧Xの宗教運動が、すなわちわが国における宗教改革を告げるのろしであったとする(中略)常識はおかしいのではないかと思うようになった。の部分は同感だ。まづ宗教改革なる西洋の言葉を無理に当てはめるから変になる。
しかし山折氏と同感なのはここまでで、私は末法思想の影響、当時の戦災飢饉疫病の世の中、堕落した既成仏教を考へるべきだと思ふ。山折氏は法然や親鸞、道元や僧Xの思想は、(中略)民衆に受け入れられることがなかった。(中略)大教団としての発展が可能となったのは、先祖供養を中心とする土着の民衆宗教がそれを支えたからである。先祖供養になつたのは江戸時代の寺請け制度で寺院が激増したからではないのか。或いは宗門改めで各宗派の特長が消失したからではないのか。
これで終つたら山折氏の説は何の価値もなくなつてしまふが、第二章の後半で山折氏も江戸幕藩体制の葬式仏教に言及する。そして織田信長こそ宗教改革の唯一の担い手だつたとする。

三月五日(土) 山折哲雄氏「蓮如と信長」第三章
第三章では「日本教」の開祖・不干斎ハビヤンをまづ紹介する。この男は禅僧だつたがXX教に入信し三年後にイエズス会士になる。仏教、儒教、神道をはげしく批判し、天草のコレジョの日本語教師になり、平家物語を口訳。10年後に林羅山と論争。このとき家康の時代に移り、まもなく棄教。幕府のキリシタン迫害に協力した。
私とは正反対の男だ。私は僧X、曹洞、上座部に始まり、左翼、三島由紀夫の追悼式、最近では天台、真言、浄土、浄土真宗、XX教まで、世間から見れば右から左、前から後、上から下までよくあつちこつちに参加するものだと驚くかも知れない。しかしあるものに参加したからといつて別のものを批判したりはしない。すべての宗教は止観(瞑想、坐禅)の手段だから目的は同じだし、民族主義は国民の生活の安定を願ふものだし、左翼は近代主義が国民の生活を破壊することへの対抗だから、つまりは私の参加するすべての団体は目的が同じだ。
それに対して不干斎ハビヤンは、別の思想に移ると前の思想を激しく批判する。私とは正反対で実に嫌な男だ。この男を最初に日本に紹介したのがイザヤ・ベンダサンで山本七平の協力で「日本教徒-その開祖と現代知識人」を出版する。そこではハビヤンの平家物語が取り上げられ、平家が滅びた理由を
後白河院から「過分の恩」をうけて太政大臣にまで成りあがったにもかかわらず、その「過分の恩」を忘れ、院に反逆する悪行を犯したからである。
とする。私はこの説に賛成だ。山折氏は
その「科学的」思考にもとづいて、かれは神・儒・仏・基など諸宗教の(中略)言説を破していったのである。
ここも同感だ。唯一例外は「(中略)」の「宇宙・創造論的な」の部分でこの8文字を入れると宗教の意味が表面的になつてしまふので省略した。次に
ハビヤンの言い分は、たしかに筋が通っている。(中略)けれども、もしもそうであるとするならば、日本思想のすべてを論破しようとした当の不干斎ハビヤンもまた、「人を人と思はぬ」高慢な男という非難を避けることができないのではないか。
ベンダサンの説に私は賛成する。山折氏は
ハビヤンがやろうとしたことを政治の現場で実行してみせたのが織田信長だったかもしれないと、ふと思う。
と述べるが、「かも知れない」どころかハビヤンと織田信長は根底が同じだ。それは西洋思想に触れて考へが唯物論化した。仏教もXX教も唯物論ではない。しかし両者を同時に聞くと唯物論になることがある。創造主も仏もあるものかといふ考へに短絡する。今の日本も同じだ。仏教神道伝統の中で育つた私たちが西洋思想に触れると唯物論になり、社会を破壊する。私がいろいろな宗派や左翼、右翼にまで参加するのは、唯物論に反対するためだ。
ここで日本に入つた後のXX教は日本の宗教であり、害はない。左翼もかつてはベトナム戦争で民族解放戦線を応援することで西洋思想に対抗できた。そもそも左翼は近代資本主義に対抗するから、その感情の源泉は何かを探すと反唯物論に行き着く。

三月五日(土)その二 山折哲雄氏「蓮如と信長」第五章以降
蓮如が門徒を糾合できた理由を死ぬことこそが究極の救いである、というイデオロギーであったとする。それでは親鸞はどうかといへば
それが正直いってよくわからない。まず死(往生)こそ救い、という思考がそれとして積極的に主張されてはいない。が、さればといって死や往生への求心的な観念がまったく欠如しているというのでもない。(中略)なぜならかれもまた、中国の浄土思想家(曇鸞)にならって「往相・還相」という死生観の影響をつよくうけていたからだ。
蓮如の代から本願寺の直系は貴族化する。それが第六章以降に書かれ、これは私の関心外なので割愛することにした。唯一印象に残つたのは四十一ヶ条のうち三十番目の
一、他人を養子にする事一家之疵也。(中略)堅可停止事。
自分の家に養子を入れるようなみっともないことはするな、ということだ。
「疵」といふ字は傷、不良品といふ意味だから「みっともない」どころの騒ぎではない。山折氏も後半で「その強い語調」といふが、それなら前半でなぜ「みっともない」と弱い語調を用ゐたのか。これ以降、蓮如の系統は大名のような家系となる。


固定思想(百六)(その二)、固定思想(百七)の二

メニューへ戻る 前へ