八百六(三) 一番権威のあつた法主職(東本願寺御講話、大谷光見御法主台下)を聴く

平成二十八年丙申
一月二十九日(金) 日中法要
昨日は、東本願寺で日中法要の後に御法主台下の御法話があつた。会場は慈光殿三階とあるので、日中法要も慈光殿なのかと受付に問ひ合はせたところ、終了後に会場を移して行ふとのことだつた。私は「御法主猊」と云ひかけあわてて「台下」と云ひ直した。宗派によつて猊下、台下と敬称が異なる。
法要は昨年末にYoutubeで観た坂東節と同じ、声明だつたが、前後左右に揺り動かすことはなかつた。

一月二十九日(金)その二 御講話の会場
御講話の参加者は二十数名、私は前から四列目あたりに座つたから御法主とは2メートルだつた。前々法主(現法主の御祖父様)の時代は、末寺が九千、昭和天皇の義理の弟だからその権威たるや大変なものだつた。末寺の信徒総代でもこんな近距離でお話を拝聴するなんてできなかつた。
前々法主は大正十四年に法主職を継承し、昭和四十四(1969)年にお東騒動が勃発、五十三年に東本願寺の宗派離脱を表明したが失敗、六十二年東本願寺は消滅し内局に吸収され、平成五(1993)年に遷化された。

一月二十九日(金)その三 蓮如上人
御講話は蓮如の半生についてだつた。当時の本願寺は寂れてゐたが、或る程度の参拝者はゐたのでは。生母は六歳のとき寺を出て行方不明になつた。父存如は後妻を迎へ、異母妹、異母弟が生まれた。
蓮如の子が生まれたが、妻が亡くなつた。四十三歳で本願寺第八世留守職になり、継母と異母弟は加賀に去つた。
蓮如は高座ではなく平座で信者と話した。そして好かれる性格だつた。信徒が踊りをしてゐるところにいつしよに踊られたこともある。布教が進んだため比叡山に本願寺を破却され、琵琶湖の周辺などに避難したあと吉崎に御坊を建立した。そのようなお話があつた。

一月二十九日(金)その四 Wikipediaの蓮如上人
蓮如上人を嫌いだといふ人はゐる。御講話でもそのようなお話があつたので、帰宅の後にWikipediaで理由を調べた。まづ実母について
応永27年(1420年)、蓮如6歳。存如が本妻を迎えるにあたって、生母は本願寺を退出しその後行方知れず。
私は大谷光見師の講話を拝聴できたのだから、Wikipediaではなく講話の説に従ふ。或いは
留主職継職にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。
これも蓮如嫌ひを生む文章だ。更に
文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。

一月三十日(土) お味わい法話
御講話は十二時に終はる予定だつたので、私は会社に午前半休の届けしか出さなかつた。午後一時四十五分までに十分時間があるからだ。ところが御講話が十二時半を過ぎても終了しないため、ハラハラしながら拝聴した。途中で抜け出すなどと失礼なことはできない。午前半休の場合、一分でも遅刻すると欠勤扱ひになる。四時間未満は出勤にならないためだ。
最悪、会社には出勤し三十分ほどたまつた仕事を片付けて一日休暇に変更しようと計画した。三十五分に有り難い御講話が終了したので、献金かごにお金を入れたあと、走つて地下鉄に乗つた。スーパーで買つたパンを食べてタイムカードを押すと、まだ5分の余裕があつた。
この日は、お味わい法話といふものが午後一時からある。十五分ほど遅らせて開始すると役員の方が話された。これも拝聴したかつたが、別の機会にしたい。(完)


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