八百十二 浄土真宗に関心のある理由(その二)

平成二十八年丙申
三月十三日(日) 日本の名僧(13)「民衆の導師 蓮如」本文の前
吉川弘文館から「日本の名僧」といふ15巻の書籍が出版され、その「(13)民衆の導師 蓮如」を読んだ。十一人が執筆するため、玉石混交といふ感想を持つた。第一章の前の「私の蓮如」で峰岸純夫氏は、親鸞が越後流罪を許され関東に赴いた後に、全国的な寛喜の大飢饉となつたことを述べた後に、蓮如の登場も、寛正の大飢饉の真つ只中だつたことを述べ
蓮如は(中略)他宗派の多くが行っているような救済事業に手を染めることはなく、またその資力もない貧乏寺であった。(中略)阿弥陀の衆生救済の本願を確信し、(中略)「極楽浄土」への往生の確信を得る。そうすることでこの世「穢土」のなかで懸命に生きる人々に希望を与えることであった。

ここは有益だ。同じく「私の蓮如」で大村英昭氏は
日本人が好むヒーローといえば、かならず早世の人か、もしくは例の"判官びいき"の対象になり得るような悲劇の人か、のどちらかである。私自身、若い頃は、ご多分に漏れず判官びいき、(中略)「功成り名とげた」かたちの徳川家康は大嫌いであった。
しかるに、亀の甲より年の功か、近頃では、(中略)「功成り名とげて身しりぞくは天の道とあり。(以下略)」と述懐したらしい蓮如に、かえって人間臭い親しみを感じるようになった。
これはとんでもない駄文だ。まづ家康の「功成り名とげて」は豊臣を滅ぼして得た、いはば総利益量の決まつた中での醜い争ひだが、蓮如は総利益量を増大させてのことだ。民衆に大きな利益を与へた。これ以外にも
「蓮如さん」と聞けば、よく「いま太閤」とも噂された我が檀家総代氏を連想してしまうほど、要は身近な存在になっているのである。
こんな駄文を寺の広報誌ならいざ知らず「日本の名僧」15巻シリーズに書いてよいはずがない。こんな男が大阪大学名誉教授で、このときは関西学院大学教授だから驚く。このとき大村氏は六十二才。まだもうろくする年ではない。この本が執筆されたのが平成十六(2004)年。このころ既に大学教員が相当に劣化したことが判る。
大村氏は蓮如について妾腹の子の悲哀と書く。私でさへ、蓮如の実母が行方不明になつたため、父は正妻を迎へたと、好意的に解釈するのに、浄土真宗の僧が「妾腹」と解釈するのには驚く。

三月十三日(日)その二 第一章、第二章神田千里氏
第一章と第二章はこの本の編者神田千里氏が書いた。前文の大村英昭氏の駄文は編者の責任だ。第一章で神田氏は

大隅和雄氏によれば、明治期のプロテスタントは、法然、僧X、道元らとともに親鸞を鎌倉新仏教の徒すなわち宗教改革の実践者とみる見方を持ち込み、彼ら開祖たちを、ルターにも比すべき自らの信仰の源流とみなし(中略)プロテスタント的に潤色された親鸞像は日本人、特に知識人層の親鸞観に多大な影響を与え、近代的人間観と卓越した内面性とをもつ巨人、とのイメージを生み出した。
これはずいぶん空虚な主張だ。まづ明治期のプロテスタントがどう評価しようと、それが正しい或いは間違ひだといふ判断を下し論じればよい話だ。しかも親鸞単独ではなく法然、僧X、道元とともに見做したのだから、まづ知識人層の親鸞観が他の開祖と共通なのかどうか、違ふとすればどこが違ふかを論じればよい話だ。
このあと神田氏は第二章から第九章までの著者と内容を紹介し、七ページの第一章を終了する。つまりは「私の蓮如」を削除し、第一章を「まえがき」にすれば済む話だ。

第二章で神田氏は、当時の一向宗が真宗だけではなく、一向(ひたすら)阿弥陀仏に帰依する宗派を含み

加持・祈祷、占い、神降ろし、冶病などを行い、山伏、巫女、神官、琵琶法師、六十六部などの姿で民衆と接触する民間宗教者であることである。そのために山門延暦寺、興福寺、戦国大名などから警戒され、取り締まりの対象となることも多かった。
ここは有益な部分だ。大学教授たるものは、このように有益なことを書かなくてはいけない。その一方で

「百姓分(支配をうける平民)である門徒が「守護・地頭」に反逆するのは不正なことであるが、守護が「仏法」を弾圧したこと(高田派と組んで本願寺派を迫害したことを指す)に対する「謀反」は正義である、というのが蓮如の論理である。
赤色部分を除いて同意見だが、神田氏の赤色部分の解釈は変ではないか。それは翌年の

今度は富樫政親と本願寺門徒とが対立し合戦するに至る。仏法と直接関係のないこの戦いは蓮如の容認するところではない。
つまり神田氏は高田派との戦ひはよいが、富樫政親との戦ひ駄目だと云つてゐる。最初の戦ひは富樫氏の内輪の戦闘に高田派と本願寺派がそれぞれ味方して始まつた。二回目は勝利した側の仲間割れだつた。これがこれまでの多くの歴史家の見方だし、これが正しいのではないのか。

三月十三日(日)その三 第三章金龍静氏
第三章は有益だ。特に
私見では、中世の仏教界を特徴づけるものは、学派的宗派ではなく、門流の存在であったと思われる。門流とは、名僧・高僧・師匠とその弟子とからなる集団である。(中略)古い歴史のある寺院の由緒書にたびたび記されているごとく、転宗・転派に何のためらいもなかった。

次に
戦国期の宗内史料にはじめて登場する直参という身分である。(中略)直参身分を獲得し、維持するためには(中略)何らかの「役」を担うことが必須であった。(中略)大別すると、本願寺への出仕役(夫役ぶやく)と本願寺の警護役(雑公事役ぞうくじやく)的なものが中心となっている。

ここまでは有益だ。次に
本願寺の歴代宗主が(中略)王朝の権威にすりよって公的認可を得るよりも、私宗の地位に甘んじたまま何ら問題なし、との決意と推測される。
この結果というべきか、近世宗教法のもとでは、一向宗寺院のほとんどは、寺社奉行管轄でなく町奉行の管轄下に置かれることとなった。町人身分なために、寺町へ集住する義務はなく、任意の場所にどんどん寺を設けることが可能となり、僧侶身分でないために、幕府の禁止令に拘束されずに在家布教を精力的に展開していったのである。
後半はなるほどと思ふが、前半は疑問がある。僧X宗は江戸時代に不受不施派が多数処罰された。といふことはそれまでも私宗の地位に甘んじたのではないのか。つまり本願寺派だけが特別ではないと思ふ。(完)


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