八百六(二) 一番優れた教学(築地本願寺常例布教、阿部信幾師)を聴く

平成二十八年丙申
一月二十八日(木) 築地本願寺常例布教
増上寺の大殿説教と茶話会ののち、築地本願寺の常例布教を聴きに行つた。阿部信幾師の話を聴き、先ほどの増上寺の説法が今までで一番よいと感じたが、阿部師の説教も一番よいと感じだ。増上寺が僧侶らしい説法なら、築地本願寺は教学で優れた説教だ。しかし、休憩後の後半はそれほど感じなかつた。聴いたときのメモを取り出すと、後半も前半と同じように素晴らしい。それなのになぜ後半はそれほど感じなかつたかも探つてみたい。

一月二十九日(金) 一人ひとり違ふ世界
六根六識で世界を観るから一人一人世界が異なる。だから浄土もどこかにあるのではない。このようなお話があつたとき、私は心の中で「あ、さうか」と叫んだ。これで涅槃も説明できる。阿部師も曇鸞の浄土に生まれるといふことは、生まれないといふ生まれ方と説明され、また親鸞聖人の云はれた華厳経の蓮華蔵と浄土は同じと話された。
唯識によりすべてが解決する。しかし一人一人の感じる世界は別でも、存在する物質は共通だ。道路に石があれば別の人にも石が見える。或いは快川和尚が織田信長軍の攻撃で焼死するとき、心頭を滅却して焼死を逃れたか。ここが難点だ。

一月二十九日(金)その二 前半でその他のお話
前半はこの他、煩悩で体から生じるのが煩、心から生じるのが悩。
阿修羅は神様で、天上に含める場合と、阿修羅として天上とは別にする場合がある。その理由は帝釈天はインドラでインドの神。阿修羅はイランの神。後にインドでは阿修羅が戦争好きの神になつた。
仏 幸せな人 インドではバカバン。天才バカボンはそこから取つた。赤塚不二夫さんは門徒だつた。
以上のお話があつた。重要な語は梵語も示されるし、仏教を根本から学んだ学僧だと感じた。

一月三十日(土) 後半
後半は次のお話があつた。
自我はアートマン。 一神教は体と霊魂を分ける。仏教では心身一如。だから日本では臓器移植に反対が多い。
幽霊はゐたほうがいい。四谷怪談が殺人をどれだけ防いだか。
法然上人の選択本願念仏集は六人の弟子だけが書写を許されたが親鸞聖人もその一人。
三門  名聞、利養、愛欲(男女の愛ではなく、すべて) 三つのもとどり

一月三十一日(日) 後半で気持ちが揺らいだ理由
前半はすごい教学だと驚いたのに、後半それほど感じなかつたのは、後半は教学の質が低下したためではない。
名聞、利養、愛欲の説明で、「私だつていい説法だと皆から褒められるから話すし、お布施を頂けるから門徒の家を廻る」といふような話をされた。もちろん冗談で話されたのであつて、会場から笑ひもあつた。冷笑ではなく暖かい笑ひだつた。
とはいへ、半分はこれが本心ではないか、といふ気持ちも涌いてきた。浄土真宗では非僧非俗だからそれでいいといへばいい。しかし一般の人は僧侶を非僧非俗ではなく、僧侶だと見做す。この場合、「そのような気持ちになることもあるかも知れないが、ならないよう努力してゐる」と一言加へれば全然違つたような気がする。
家に帰つた後で、阿修羅について調べるとイランの神と決めつけるには不確定要素がある。しかし起源がイランではないとは云へない。不確定なことは話さない人が多いなかで、そのことも話されるのは勇気が要る。
三門は貪、瞋、痴の解脱の意味が一般で、名聞、利養、愛欲の解脱は見つからなかつた。そもそも名聞、利養、勝他の組み合はせが普通のようだ。これも三つが何かといふことは仏教の本筋とは無関係だから、完全に古文書と同じにするよりは、古文書と異なつてもよいtら聴者に分りやすく、そして印象に残るように話したほうがよい。俗世間の言葉でいへば減点法ではなく加点法で採点すれば、阿部師は高得点になる。

今回の常例布教は席が埋まるほどだつた。阿部師の人気は大変なもので、経歴を調べるとお寺に生まれたのにデザイン学校を卒業し、インドに滞在し、普通とは異なる僧であることは間違ひはない。もしお寺に生まれずデザイン学校を卒業し、インドに滞在し、その後、僧侶になつたのなら、私も全面賞讃だつたかも知れない。しかし私が阿部師を賞賛するのは前半の教学力だ。出自や経歴ではない。(完)


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