八百六(一) 一番僧侶らしい説法(増上寺大殿説教、伊東靖順師)を聴く
平成二十八年丙申
一月二十五日(月)
三宝寺伊東靖順師
昨日は久しぶりに増上寺の大殿説法に参拝した。大殿は行事があるらしくテレビカメラを設置中だつた。そのため慈雲閣で行はれた。講師は長野県三宝寺の伊東靖順師で、僧侶の説法はかくあるべきといふ、模範ともいふべき内容だつた。私は今までこれほど内容のよい説法を聴いたことがない。
話す技術が優れてゐるといふのではない。話が面白いといふのでもない。話に信心と人間性が現れてゐた。
一月二十七日(水)
六年ぶり、入れ歯、氷点下六度
靖順師はまづ、大殿説法は六年ぶりで、その前は毎年だつたことを話された。年を取つて入れ歯にすると、話すのが不便で、口の中が変な感じで、年寄りが何も食べないのに口を動かす理由が判つた。東京駅からタクシーで増上寺まで来て挨拶の後に自分の部屋に行つたが汗が出た、東京は暖かい、信州は普通の気候でマイナス六度、寒いときはマイナス八度かそれ以上。さういふ話から始められた。
予めプリントを配られて十三の歌(短歌、俳句、その他)が載る。このうち七つに阿弥陀仏が登場する。一番目は
"大切なものはみなただ"
初春の光 天地の恵み 母の愛 御仏の慈悲
御恩嬉しや南無阿弥陀仏
田舎に行くと真つ暗なところがある。月の光がありがたい、といふお話があつた。
一月二十九日(金)
人情を歌ふ
阿弥陀仏の登場しない歌もある。
来て嬉し 帰って嬉し 孫の顔
人間の距離感、孫を通して人間関係を歌つたといふ解説があつた。
十人も 子を産んだのに 罪人は
お前一人と 母は泣きふす
伊東師が教誨師を勤める刑務所の入選作。十人は多いことを表す。泣きふすに二通りの意味があり愚痴の涙と、懺悔の涙。懺悔とは、人生をやり直すことはできないが、見つめ直すことができる。
一月三十日(土)
阿弥陀仏を歌ふ
ありがたや 六字のみ名に しばられて
思うがままに ならぬうれしさ
亡くなつた人の為ではなく、自分の為に唱へる念仏。思ふがままにならないとき、み仏のおぼしめしと柔らかい心を。
後の世も この世もともに 南無阿弥陀
仏まかせの 身こそやすかれ
後の世で昔の人に会へる。
称うれば 我も仏も なかりけり
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
おどり念仏の一遍上人が禅寺で修行した。最後の句は「声ばかりして」だつたが叱られて作り直し、印可を頂いた。
今聞いて すぐに忘れる 身なれども
南無阿弥陀仏の 残るうれしさ
念仏を生活に活かす。
帰る時 来た時よりも 美しく
南無阿弥陀仏が心のみやげ。寺に行ってもお宮に行っても人の家に行っても
仏教では陰徳。昭和初期まで夜は道が真つ暗だつた。闇の夜に 大きな石を そつと抜き。夜、石に足をぶつけたら皆さんは次の三つのうちどうしますか。(1)怒つて石を蹴飛ばす、(2)石を真ん中に寄せる、そんなことをしては駄目ですよ、(3)石を撤去する。
一月三十日(土)その二
吾唯足知
幸せは おかげ喜ぶ 心から
俺が俺がの 我を捨てて おかげおかげの(以下略)といふ別の歌も紹介。昔は水道が無いので手水石を使ひ、その中央の四角の周りに字が書かれ、順番に読むと吾唯足知となる。
以上の歌に関係したお話のほかに、明るく、正しく、仲良くは、仏法僧に帰依。僧の衣は福田衣(ふくでんえ)で田の字が書かれてゐる。享年は数へ年を示すのではなくお腹にゐた10ヶ月を加へた。一人一日に八億一千の念が三途の業。このようなお話もあつた。説明のときに予め墨で書かれた紙を広げて提示し、終るとまたきちんと折りたたんだ。昔の物を大切にする心が根底にあつてよかつた。
一月三十一日(日)
伊東靖順師の法話が優れる理由
伊東靖順師の法話の優れる一番目の理由は、時間と話す内容が一致した。これまで聞いた講演で一番悪いのは香山リカで九分で話すべき内容に八十分掛けた。靖順師は十三の歌を用意され、最後まで終るか判らないのでその場合は資料を読んでほしいと話されたが、きちんと最後まで話された。適正量だが終るかどうか判らないくらいを用意するのは準備が大変だが、優れた講演の最大の理由となつた。
二番目に僧侶のあるべき説法だつた。勧善こそすべての宗教者の説くべき姿だが、実は難しい。まづ自分が日ごろから善い行ひをしないと人に説けない。次に道徳的や押し付けになつてはいけない。靖順師は歌を用意して耳に訴へ、歌の解説で人情に訴へ、さりげなく阿弥陀仏の歌と混ぜることで道徳性を打ち消した。
三番目に、聴者を退屈させなかつた。資料を用意すると、とかく読むだけになり退屈な話になる。それを嫌つて資料を配らない人もゐるが、これだと話が判り難くなるから更にいけない。靖順師は資料を配り、しかも十三も歌を載せながら、最後まで聴者を退屈させなかつた。
四番目に衣の田の字を見せ、筆で書かれた紙を提示し、視覚にも訴へた。しかも衣、筆といふ伝統ある教材を用ゐた。伝統の重みは大きい。講演者の後ろで過去八百数十年間の僧侶や信徒たちが応援してくれる。
五番目に、石につまずく話で「石を真ん中に動かす、そんなことしては駄目ですよ」と話されたとき、聴者に軽い笑ひが起きた。面白い話は全体で一回、或いは二回がよい。面白い話で笑ひ声が起きると、話者は調子に乗つて更に面白い話を連続させてしまふ。しかしこれは話者の賞讃にはなつても内容の賞讃にならない。また話者と自分は能力が違ふのだと聴者が思つてしまひ、壁ができてしまふ。靖順師は軽い笑ひを一回で、一番適切だつた。なを笑ひは結果として起きるものであり、無くても問題ない。
法話の優れる理由を分析すれば以上になるが、一言で云へば人間性が現れたといへる。それだと優れる理由が判りにくいので、あへて五つに分解してみた。仏像は全体を拝むから有り難いのであり、仏具修理店でばらばらになつた部品を拝んでも、あまり有り難くはない。それと同じで五つの理由を気にしながらも、人間性、布教の熱意、聴者に尽くす気持ちがあれば、誰でも優れた話ができると確信する。(完)
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