八百五 片山杜秀氏「未完のファシズム」批判(その二)
一月三十一日に『片山杜秀氏「未完のファシズム」感想記』を改題

一月三十日(土) 第六章その三、石原莞爾
第六章四十七ページ中の十四ページを作家Xと田中智学に費やした後に、やつと石原莞爾に入る。片山氏は「未完のファシズム」になぜ作家Xを登場させるのか。私も石原莞爾と作家Xを並列して書いたことがある。それは二人の僧X信仰について記したからだ。「未完のファシズム」に作家Xを登場させる必要はなく、ここに片山氏の素人性、専門外、全体意識の欠如が現れてしまふ。
作家Xは亡くなる前に、X経を千部刷つて友人知己に配つてほしいと云ひ残した。遺言は実行された。X経には通し番号が付けられ、その五十九番は作家Xの弟清六より昭和十三(1938)年石原莞爾に贈呈された。

ときに石原は関東軍参謀副長でした。一九三一年の満洲事変の立役者も、その頃にはもう、ライヴァルの東条英機との確執の末、陸軍中央より追われつつありました。
これは完全に間違ひだ。日華事変について石原莞爾は終息を希望した。ところが陸軍中央は拡大派が増えて石原は参謀本部作戦部長から関東軍参謀副長に追ひやられた。決して東条英機との確執が原因ではない。なぜなら東条英機はこのとき関東軍の参謀長だつた。陸軍省勤務ではないから石原を中央から追ひやるなんて出来ないし、この時点では東条と石原に確執なんてなかつた。
二人に確執が生じるのは関東軍で顔を合はせた後だ。こんな簡単なことを間違へるようでは、片山氏の著書は信用できない。

なぜ、石原は智学に惹かれたのか。それは恐らく、智学が石原に、日本は何が何でも「持たざる国」から「持てる国」へと変身せねばならぬとの確信を与えたからでしょう。
石原が僧X信仰に入つたのは、陸軍大学時代に同僚たちと各宗派をそれぞれ担当して調べようといふ話になり、誰かが僧Xは喧嘩坊主だから止めたほうがいいと云つた。石原はだつたら僧Xを調べようと思ひ立ち、当時は一番大掛かりに布教してゐた国柱会を調べた。決して「持たざる国」「持てる国」の話ではない。そもそも既に述べたように、「持たざる国」「持てる国」は植民地の有無の話だ。片山氏が工業力と資源をこの語に結びつけることは誤りだ。文章は続いて

石原は智学の教えによって自らの思想と行動の原理を打ち立てたのです。
石原は、陸軍将校として思想と行動の原理を打ち立てたのであつて、僧X信仰はあまり影響を与へてゐない。智学の教へといふが、僧Xに関係しない部分はその時の政治情勢の影響が大きく、特定の発言を以つて智学の思想と断定することはできない。例へば智学の息子の田中澤二は日華事変のときに、北京だつたか南京だつたかを攻めろと主張した。石原は澤二についても智学先生の御子息で聡明だと書いた。一方で日華事変の終息を望んだし、作戦は天皇大権だから国民は口を出さないでほしいと書いた。これは言論を封じようといふのではなく、新聞がどこを攻めよと大々的に煽る記事を書いて蒋介石政府を刺激することを恐れたのだらう。このように石原は国柱会の会員としての立場と、陸軍将校としての立場を独立させてゐたと考へるのが自然だ。

一月三十一日(日) 第六章その四、皇道派と統制派
戦時はどこの国も統制経済になる。英米仏も例外ではない。ところが片山氏はそのことを知らないから次のように間違つたことを書く。
「皇道派」の将軍たちがしばしば「統制派」を「アカ」呼ばわりしたのにはそれなりの理由があります。「統制派」とは「組織統制派」であると同時に「統制経済派」でもあったのではないでしょうか。

皇道派から見て統制派は西洋思想万能のように見える。だから美濃部達吉の天皇機関説に統制派が怒らないことに皇道派は不満だつた。そこで「アカ」呼ばわりしたのではないか。或いは皇道派は統制経済といはなくても天皇がゐれば経済はうまく行くと考へた。だから経済を考へる統制派をアカ呼ばわりしたのではないのか。
片山氏は石原を永田鉄山と同じ統制派に分類し、しかし永田との相違を次の様に書く。

永田がいかにリアリストで、石原がいかにラディカリストであるか。それが端的に示されたひとつの逸話があります。
一九二八(昭和三)年一月のこと。木曜会の会合が開かれました。(中略)その日、石原は「我が国防方針」と題して講演しました。将来、日本とアメリカは必ず大戦争をする。いや、しなければならない。日本は東洋の、アメリカは西洋の代表だ。その戦争は世界最終戦争となる。結果次第で世界の運命が決まる。(中略)ところが現段階では日本は「持たざる国」で、アメリカは「持てる国」。(中略)そのための日本の方途は「全支那を利用する」ことである。(中略)それが日本の「国防方針」だ。石原はそんな話をしたようです。
永田はどう聞いたのでしょうか。なぜ強大なアメリカとどうしても戦争をしなければならないのか。「全支那」への進出というとてつもないリスクを冒してまで日本が「持てる国」にならなければいけないのか。石原の議論にはおよそ必然性がない。呆れ気味だったようです。


これは悪質な捏造文章だ。既に述べたようにソ連が崩壊するまでは、世界は一つに統合されると思はれてゐた。実際は中立といふ方法があるが、一つに統合された後は中立国が次々に粛清される。第二次大戦中は陸軍の若手将校の中に、いづれ日本とドイツがイラン高原で最終決戦をすると考へた人が多いと読んだことがある。
だから日本とアメリカが最終戦争をすると考へることは、当時としては最良の予想だつた。何しろアジアアフリカのほとんどは植民地だつた。そして今のように世界貿易機関(WTO)は無いから、世界大恐慌のときに植民地を持つ国は輸入を禁止し、持たざる国は悲惨なことになつた。このことが第二次世界大戦の一因だつたことは、外務省のホームページにも書かれてゐる。

1930年代の不況後,世界経済のブロック化が進み各国が保護主義的貿易政策を設けたことが,第二次世界大戦の一因となったという反省から,1947年にガット(関税及び貿易に関する一般協定)が作成され,ガット体制が1948年に発足しました(日本は1955年に加入)。

ガットは平成六(1994)年に強化され世界貿易機関(WTO)になつた。これで持てる国、持たざる国といふのが植民地であることがよりはつきりしたはずだ。次に石原が全支那へ進出などと考へるはずがない。日華事変のときに、終結を主張したのが参謀本部作戦部長の石原だつた。上司の多田参謀次長も終結派、参謀総長は皇族で名誉職に近かつたから参謀本部の上層部は終結だつたが、後に石原が「部下の面従腹背にやられた」と述懐したように、中堅クラスは拡大派が混在し、陸軍省は拡大派が多かつた。だから石原が全支那への進出など考へるはずがない。蒋介石とともにアメリカ、ソ連に当たるといふことはある。石原は日華事変を終了させ日華(当時は日支)が組んでオーストラリア占拠を考へてゐた。
永田が石原に呆れたといふのは違ふ。石原が参謀本部作戦課長に転勤したのは永田の力が大きい。もし呆れたなら石原を中央に呼ぶはずがない。石原が着任するその当日に永田は相沢中佐に暗殺されるといふ悲劇が起きるがそれは話がそれるので触れない。

一月三十一日(日)そのニ 第六章その五、片山氏による神がかりの捏造(田中智学編)
片山氏は米ソ冷戦終結後の世界情勢で当時を考へるから間違ひを犯す。当時の世界情勢では石原の日米最終戦争論は常識の範疇だ。片山氏はアジアでは日本、中国、タイ以外すべて植民地だつたことを異常とは思はないらしい。だから宗教に持ち込む。
石原はなぜアメリカとの世界最終戦争などと言い出したのでしょうか。彼の信じる田中智学からの影響なのです。(中略)
この本化の教を広布せんとする賢王と、本化を信ぜざらんとする多くの愚王との諍ひとなるときは、ここに世界の大戦争が起る。(以下略)

「本化の教」とは、『X経』で予言されているところの、将来この世をユートピアにすべく現れる仏の教えということでしょう。


田中智学の発言には僧X教学の解釈、天皇論の二つがあつて、相互に影響しないと前から書いてきた。ただしその時の世界情勢への発言は僧X教学を含むことがあり、含む含まないに関はらずそれはその時の世界情勢の解説だ。その時の解説に過ぎないのに田中智学根本の教へだと勘違ひするから、それをあたかも経典や古文書のように扱つてしまふ。
本化といふ語は田中智学系の団体以外はあまり使はない。インターネットで検索すると人によつて使ひ方に差があり、本門、久遠実成、本仏、僧Xといつた解釈が出て来る。本仏と僧Xでは身延とXX会ほどの差がある。しかし僧X聖人を本化の上行菩薩とすれば両者に差は無くなる。少なくとも片山氏のように「将来この世をユートピアにすべく現れる仏の教え」ではない。片山氏が僧X教学に疎いのは全然問題ではない。問題なのは、自分でよく判らないのに「将来この世をユートピアにすべく現れる仏の教え」といい加減な解釈をする姿勢だ。そのいい加減な姿勢が第六章全体に現れた。こんな男が慶応大学教授とは驚く。

二月二日(火) 第六章その六、片山氏による神がかりの捏造(石原莞爾編)
片山氏は石原莞爾の「『戦争史大観』の由来記」を引用する。
昭和二年の晩秋、伊勢神宮に参拝のとき、国威西方に燦然として輝く霊威をうけて帰来。私の最も尊敬する佐伯中佐にお話したところ余り良い顔をされなかったので、こんなことは他言すべきでないと、誰にも語ったことも無く、そのままに秘して置いたのであるが、当時の厳粛な気持ちは今日もなお私の脳裏に鞏固(きょうこ)に焼き着いている。
私もこの文章は読んだことがあり、まつたく印象に残らなかつた。お寺やお宮にお参りして、強い光が見えた、体がぶるぶると動いたなど、よくある話だ。ところが

石原に傾倒する人々はそこが知りたくてたまりません。直接聞きに行く者も現れました。たとえば伊地知則彦です。(中略)石原はこう答えました。「眼前に地球の姿を現わし、金色の光りが日本から満洲に向って光りわたる」というヴィジョンが大聖霊によって与えられたのだと。
伊地知則彦は大阪外国語学校蒙古語科を卒業し満州で教師になつた。昭和十八(1943)年山形県鶴岡の石原を訪問した。片山氏は次に

近代世界の苛烈な生存競争に勝ち残った二つの国が遠からず武力によって雌雄を決する。一方は西洋文明の代表国としてのアメリカである。もう一方は『X経』の信仰を体現する日本でなければならない。これは石原の宗教的確信です。世界情勢を分析しての評論や学問ではない。
これは悪質な中傷だ。国柱会は選挙に一名立候補しても落選するくらいの弱小勢力だつた。だから日本はX経を代表する勢力ではない。石原は世界情勢を分析し、後に日華事変のときに、速やかな終結と、日華(日本と中華民国)によるオーストラリア占領を計画した。
石原は後に東亜連盟を結成する。会員の多くは国柱会と無縁の人たちだつた。戦後は自民党田中派の長老となる木村武雄氏を始め、社会党の浅沼稲次郎、稲村隆一、淡谷悠蔵、そのほか市川房枝、大河内一男の各氏が所属した(石原莞爾(その三)永久平和論と僧X信仰へ)。このことも日本をX経の代表とは考へてゐなかつたことが判る。こんな簡単なことをなぜ片山氏は判らないのか。

「持てる国」のアメリカに負けぬ国力を日本が持つ必要がある。しかし、そんなことが可能でしょうか。
石原はその方策が知りたくて伊勢神宮に参拝したと言ってよいでしょう。
石原がその方策が知りたければ自分の頭で考へる筈だ。もし神仏に祈るなら国柱会の会員なのだから国柱会本部に行つた筈だ。石原は後に参謀本部作戦部長になり、日華事変の最中に中央から追ひやられるが、それは拡大派が勢力を増したためで、国柱会の会員だつたからではない。つまり石原は、陸軍将校として行動するときは国柱会会員の立場が周囲に反感を与へない程度を弁へており、伊勢神宮参拝は方策を知りたいためではないと考へるのが普通だ。

二月二日(火)その二 第六章その七、統制派と永田鉄山と石原莞爾
一九二八年一月、鈴木貞一主宰の陸軍将校勉強会「木曜会」で日米の最終戦争の必然を力説し、同席していた永田鉄山に呆れられた石原は、同年夏、関東軍参謀に任じられ、秋には旅順に赴任します。別に石原本人がそういう人事を希望したのではありません。(中略)たまたまと言うべきでしょう。石原はそこに超越的なものの導きを感じていたものと思われます。伊勢神宮での啓示から一年を経ずして満洲の日本陸軍の中枢に入ったのですから。
永田鉄山に呆れられたといふのは誹謗に過ぎないことを前に指摘した。永田が、石原の発言のこの部分は違ふといふのなら判る。呆れたか呆れないかは本人しか判らない。片山氏の判断することではない。また木曜会は永田以外も将校が多数参加した筈だ。石原が他から呆れられる講演をすれば、陸軍内に悪評が広がり関東軍といふこの時点で一番重要な部署に任命されるはずがない。
「石原はそこに超越的なものの導きを感じていたものと思われます」といふが、片山氏はどこからその結論を導いたのか。こんな出鱈目な本も珍しい。

石原は満州で何がしたかったのでしょうか。どうすれば日本が最短で「持てる国」になれると思ったのでしょうか。言うまでもなく満洲に眠る豊富な資源を開発し、その地を世界的な重化学工業地帯へと育てることです。
これはとんでもない捏造だ。このときの満洲は、張作霖爆殺事件で息子の張学良が蒋介石に寝返つた。良くも悪くも日本は何かしなくてはならなかつた。

当時は満洲の資源調査がまだまだ行き届いていたわけでもありません。未知不可測な要素がずいぶんある。それでも石原は突き進みました。やはり伊勢神宮の霊験のせいなのでしょう。
こんな出鱈目を書いた片山氏を慶応大学は教授から解任するか、文部科学省は慶応大学に補助金を支給しないか、どちらかにすべきだ。なぜなら慶応大学教授の肩書がなければ、こんな出鱈目な本はまつたく信用されなかつた。

二月二日(火)その三 まとめ
第七章と第八章は、取り上げる価値がない。といふかこの本自体取り上げる必要のないものだが、第六章の石原莞爾への記述に多少の間違ひがあるので、それを正さうともう一度読み返すと、あまりに内容がひどいので愕然とした。
もう一度読み返す前に、「近代日本の右翼思想」「国の死に方」をこの時点ではまだ中立の立場で読んだが、これらは読んでも何が云ひたいのかまつたく判らない。そのため「近代日本の右翼思想」をもう一度読み返したが、取り上げる必要のないことだけが判つた。(完)


(その一)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ