百四十、石原莞爾(その三)永久平和論と僧X信仰

十月三十一日(日)「僧X信仰の始まり」
江戸時代の寺請け制度は仏教を堕落させた。しかもそれが二百年続いた。だから明治政府は仏教に敵対した。神仏分離、廃仏毀釈、僧侶妻帯は仏教弱体化の三本柱である。代わりに天皇を神道の中心に持ってきた。

このような時代に田中智学は、僧X仏教を天皇中心に合わせた。石原莞爾が僧X仏教と出会ったのは陸軍大学のときである。学生たちが集まって宗教をそれぞれ勉強しようということになった。誰かが僧Xは喧嘩坊主だから止めたほうがいいと言い、石原はそれなら僧Xを勉強しようと思い立った。そして後に田中智学の創設した団体の会員となった。

十一月一日(月)「明治時代と僧X」
明治政府が改変した天皇制度は欧州の国王を真似したものであり、しかもXX教の神の真似でもあった。しかも世界は欧米列強による帝国主義の時代であった。
田中智学はそのような時代に合った講演活動を行い、国内は僧X仏教が圧倒した。ちょうど昭和五〇年あたりまでは、社会党と共産党は社会主義、公明党は人間性社会主義、民社党は民主社会主義、自民党も終身雇用と低失業率で実質は社会主義と、社会主義が優勢だったのと似ている。

僧X関係者が先の戦争を起こしたという人がいるが、これは正しくない。石原莞爾については既に述べたが、井上日召と北一輝は僧Xとは関係がない。井上日召はX宗の僧侶だとよく書かれるが本名の昭を分解しただけでX宗とは無関係である。独自に僧Xや禅を勉強しただけであった。北一輝はX経を自分で読み、その後は天の声だと怪しげなことを言っていた。世の中で僧X信仰が盛んなのでそれになびいただけだった。

十一月二日(火)「鶴岡市と羽黒山」
高山樗牛と石原莞爾という鶴岡市で最も有名な二人がなぜ僧X信仰に入ったのだろうか。答は羽黒山と鶴岡藩校致道館に行くと見つかる。
江戸時代までは修験道の中心地だった羽黒山は明治維新の後、建物が大きいだけのつまらない神社になってしまった。これまでも明治神宮や靖国神社で違和感を感じていたが三神合祭殿を見て判った。大きい建物には宗教性が必要である。仏教では本堂、五重塔、仏堂等々それぞれに宗教上の意味が有る。羽黒山ではかろうじて宿坊街にのみ宗教性を感じた。
伊勢神宮は宗教性が強い。神宮だけを特例とすればよかったのに薩長政府は全国の神社で実行した。そして宗教性のない神社と無道徳の国民を生み先の戦争に至った。

致道館には孔子の像に給仕した食器が展示されている。儒教は形式の規範ではなく、今も生きている孔子を奉る宗教であった。
このような土壌に育った樗牛や莞爾が、明治維新後のやり方では国民の精神が不安定になることに気付き、僧X信仰に走った可能性は高い。鶴岡出身の渡部昇一がカトリックに行ったのも同じ理由ではないのか。

十一月三日(水)「最終戦争論」
石原莞爾には世界最終戦論という論文がある。当時は世界中が欧米列強の植民地にされていた。そして欧州ではいつ戦争が再発してもおかしくはなかった。そのようなときに平和論を述べても誰も相手にしない。だから最終戦争の次に永久平和をもたらそうというのが石原の主張であった。昭和四年の講話要領には次のように書かれている。

戦争の絶滅は人類共通の理想なり然れとも道義的立場のみより之を実現するの至難なる事は数千年歴史の証明する所なり
戦争術の徹底せる進歩は絶対的平和を与儀なからしむるに最も有力なる原因となるへく其の時期は既に切迫しつつあるを思はしむ

次に陸上自衛隊幹部学校戦史教官室長(陸将補)で退官ののち防衛大学校教授を十年間勤めた中山隆志氏の「戦略論大系 (10)石原莞爾」を見てみよう。昭和一五年に石原は世界最終戦論で次のように述べている。
・目下日本と支那は東洋では未だかつてなかった大戦争を継続して居ります。併しこの戦争も結局は結局は日支両国が本当に提携する為の悩みなのです。(中略)明治維新後民族国家を完成する為、他民族を軽視する傾向の強かった事は否定できません。
(この後第二次欧州大戦以後、東亜と米州になると予想し)
・両者が太平洋を差挟んだ人類の最後の大決戦、極端な大戦争をやります。その戦争は長く続きませぬ。至短時間でバタバタと片が付く。さうして天皇が世界の天皇で在らせられるべきものか、アメリカの大統領が 世界を統制すべきものかといふ人類の最も重大な運命が決定するであらうと思ふのであります。
・最終戦争は何時来るか、(中略)五〇年内外だらうと言ふことになったのであります。(中略)第一次欧州戦争勃発の一九一四年から二〇数年経過して居ります。
・他に未だ沢山の相当な国々があるのですから、本当に余震が鎮静して戦争がなくなり人類の前史が終るまで、即ち最終戦争の時代は二十年見当であるだらう。言ひ換へれば今から三十年内外で人類の最後の大決戦の時期に入り、五十年以内に世界が一つになるだらう。かう言ふ風に私は算盤を弾いた次第であります。

実際には最終戦争を待たずに日米戦争が起きた。一九三九年に核分裂連鎖反応が発見されていたが、それからわずか六年で原子爆弾が使用された。最終戦争で使われるはずのものがその前に使われた。人類滅亡の危機は世界が感じた。そのため米ソは最終戦争とはならずインドシナ戦争など地域戦争となり、その後は冷戦となった。
ソ連は崩壊したが冷戦は終わってはいない。西側諸国はソ連に勝つために石油など自然資源の浪費を始めたからである。地球は温暖化で滅亡寸前となった。最終戦争は西洋分明と地球の争いとなった。

ここで石原莞爾に中国も期待していた話を紹介しよう。 「『永久平和への道』いま、なぜ石原莞爾か」という書籍が一九八八年に出版された。その中に平澤光人氏が「東亜連盟の理念と実践」と題して投稿している。
「日中国交回復より三年ほど前のこと、当時田中角栄首相の相談相手で(中略)自民党代議士木村武雄氏が訪中し周恩来首相と面談した時、周総理は開口一番『今、日本の東亜連盟の同志はどうしていますか』と聞いた。」
東亜連盟は石原莞爾の理念に基づいて作られたが現役の陸軍将校だったため木村武雄が会長を務めていた。

十一月六日(土)「東亜連盟促進議員連盟訪中団」
木村武雄は「私達は、東亜連盟促進議員連盟をつくりまして、昭和十五年暮から十六年の正月にかけて中国に出かけ、中国の実情を見てその実情報告に名をかりて、支那事変の解決を政府に迫り、東條退陣のきっかけをつくろうとした」と回想している。このときの訪中団は熊谷直太を団長に、浅沼稲次郎、木村武雄など十八名であった。
東亜連盟で有名な人には浅沼、木村の他に稲村隆一、淡谷悠蔵、市川房枝、大河内一男などがいる。稲村隆一は稲村順三の兄である。順三は隆一の影響で農民運動に入り、戦後は社会党の森戸稲村論争で活躍した。順三が急死ののちは隆一が衆議院選に補充立候補し四期勤めた。淡谷悠蔵も社会党左派の衆議院議員で歌手淡谷のり子の叔父である。

十一月七日(日)「最終戦争論」
石原の最終戦争論は兵器の発達から考え出したもので、原爆が最終戦争の前に使われてしまうという誤算があった。しかしそれによってその後の全面戦争を抑止したことを考えれば、当時の最も正しい予想であった。
石原は最終戦争の予想時期が釈尊滅後二千五百年に当ることから、両者を結びつけた。だから戦後になって、僧Xと結びついた特異な説などと批判する人がいるがこれは正しくない。武器の発達から考えたものであった。そして最終戦争が目的ではなく永久平和を願っての説であった。

学問の発達で釈尊入滅の時期がだんだんと明らかになった。僧Xが生まれたのは実は末法ではなく像法時代だった。これについて石原は五五百歳二重説を唱えた。五五百歳とは二千五百年のことで僧Xの著書「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」に因む。僧Xが像法だと教義の根幹が崩れる。他の僧X関係者が沈黙するなかで石原の態度は立派である。しかしこれにより田中智学死後に分裂していた各団体、特に石原と関係の深かった田中智学の三男の里見岸雄とも不仲になった。


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