七百七十七(乙) 成道会の集ひ

平成二十七乙未
十二月五日(土) 成道会の集ひ、堀澤祖門師の講演(第一章)
曹洞宗宗務庁主催の禅をきく会で、増上寺の日曜大殿説教に常連で参加される方にお会ひした。日曜大殿説教に八月に二回、九月と十月に一回づつ参加しただけだつたが、成道会の集ひのパンブレットを頂き、券がなくても入れるが早く行かないと満員になると懇切丁寧に教へて頂いた。といふことで十二月三日に行はれた成道会の集ひに参加した。この日は雨なので、会場は空席も目立ち、内容がよかつただけに勿体なかつた。
第一部は成道会の法要で、雅楽、導師(今年東京都仏教連合会会長に就任した増上寺法主)入場、献灯献華献香、三帰依文、表白、読経ののち、増上寺法主の挨拶、導師退場で終了した。
舞台上の左右に参列した僧は、前二列が浄土宗、あとは真宗(本願寺派、大谷派)。天台宗もゐてX宗、曹洞宗はゐなかつたと思ふ。それは衣からの判断だが、安置された本尊が阿弥陀仏(だと思ふ)であることにも依る。導師が話されるとき前二列は合掌するが、それ以外は普通の形。しかし三帰依文などのときは合掌するといふ各宗派合同の苦労が見て取れた。
増上寺法主の挨拶は、仏教とはよい事をして、悪いことはしないことだと云はれ、先月白楽天の話を聴いたばかりだつたので、同感だつた。なほこれたげだと道徳の話と解釈する人もゐるので、来世も人間か天上界に生れることができるし、神々もそのような人を助ける、と追加すると仏教の話として現実味を帯びる。

十二月五日(土)その二 堀澤祖門師の講演(第一章)
第二部は三千院住職堀澤祖門師の講演「枠を破る」。予めプリントを配られ
(1)二元相対の世界(色の世界)
(2)一元絶対の世界(空の世界)
(3)波と水
(4)泥仏

プリントは以上の四章からなる。第一章の二元相対とは善悪、正邪など二つのものがある状態だといふ。つまり二元対立といつてもよい。第一章には
3.生物(動物)は自己保存の本能を持つ  自己中心的・利己的となる
4.この本能が一切の争いを招く源泉  人類的危機をもたらしている

ここまで完全に同じ意見だつた。

十二月六日(日) 堀澤祖門師の講演(第二章)
第二章には
1.一元絶対とは  絶対とは「対を絶する」こと=一元(すべては一つ)
2.仏教では「空」という 「空」とは「色」から一切の条件や性質を除去したもの
3.「枠を破る」とは「色」である私たちが「空」となること
4.自分を「空」にする「空感」を得る方法
5.「色即是空」 色(実有じつう)=空 → 「空即是色」 空=色(仮有けう・妙有みょうう)

「空」の解釈を「無」とする人が多い。或いは「有」でもなく「無」でもないとするが、それは何なのかをはつきり云はない人が多い。「空」とは生命が解脱すれば輪廻る。だからウィキペディアには「空」は「無」や「虚無」ではなく、存在する宇宙のすべての物質や現象の根源には目には見えないが、エネルギーがあり、宇宙に存在するすべてのものはこのエネルギーが刻々形を変えているものである(注)。とある。そして(注)には元筑波大学教授で曹洞宗住職大藪正哉師の
「父母未生以前の消息」ということがあります。あなたのお父さんもお母さんもまだ生まれていなかったとき、あなたはどこにいたのかという問いです。もう、お分かりでしょうが、今「色」としてこの世界に表れているあなたも、もとは「空」の世界にいたわけです。ですから、死ねばまたもとの「空」の世界に帰っていく。決して無くなったわけではない。「空」というのは、目に見えない常に変転してやまないエネルギーですから、そこから再び「色」が生じる。
とある。堀澤祖門師の二元相対の世界から殻を破り一元絶対の世界へといふ主張には100%賛成である。「空」については用語の使用法の相違といふことで先に進みたい。しかしこの直後に、大きく意見の異なることが出現する。

十二月六日(日)その二 堀澤祖門師の講演(プリントから外れた部分)
ここで堀澤師はプリントから外れて以下の内容を話された。
空感を得ることを毎週行ふとよい。悟るのは大変だが、空感はできる。例へば天台宗の枠をなくせば、他宗の云ふことも判る。国も同じ。宗教は一番枠が強い。宗教は上下が強く、慈悲があるから他の宗教の人を救はうとする。神道や仏教は程度が低いと云つて伝道師が日本にやつてきた。戦前は軍国主義。イスラムのテロリストは洗脳された。日本で戦場に行つた人は敵を殺したなんて云はない。最近マスコミが誘導して発言するようになつた。

私は最近、先の戦争の評価は昭和三十年代、四十年代の言論が正しいと主張するようになつた。この当時既に戦争の悲惨さ、残酷さは語られてゐた。しかしその悲惨な戦争がベトナム、ラオス、カンボジアで続いた。その後、米ソ冷戦が終結して十年くらい経過すると、連合国側は正しく日本が間違つてゐたといふ奇妙な言論になつた。勿論日本は間違つてゐたがそれは帝国主義の西洋列強も同一だ。だからマスコミが誘導して発言するのではなく、偏向マスコミのせいで昭和四十年代までの言論が歪められたとみるべきだ。
アメリカのアフガニスタン攻撃を批判。ロシアは寒い国だから南進しようとする。イスラムのテロは、西洋が何をしてきたか。比叡山サミットでイスラムが一番来なかつた。だから次にイスラム中心でやつてみた。イスラムの参加者はイスラムが如何に平和かを主張した。ジハードについて質問した人がゐた。イスラムを抹殺するようだと戦ふ、といふ回答だつた。人を殺すな、が仏教。インドネシアは仏教だつたが後にイスラムになつた。

このようなお話しがあつた。米国だけを誉めるのではなく、イスラムだけを非難するのではなく、日本国内の偏向マスコミより堀澤祖門師の講演は公正だつた。しかし私は途中で、冷めた気持ちに変つた。せつかくプリントを配布したのだからそれに沿はないと全体の流れが変になる。個々の政治問題は賛成の人も反対の人もゐる。堀澤師の結論の仏教は平和主義といふことには全面賛成だが、他の宗教を批判するだけだと解決しない。そんな気持ちになつた。
あと「人を殺すな、が仏教」と云はれたが、一切衆生、つまり全生物を殺すな、が仏教だと思ふ。

十二月八日(火) 堀澤祖門師の講演(第三章)
講演は第三章を飛ばして第四章に入つた。ここで第三章「波と水」をプリントから抜粋すると
3.波は減少としての「色」であり、水は本質としての「空」である
4.私たちがニルヴァーナ(涅槃、さとり)を探す必要がないのは、私たち自身がニルヴァーナだから(ティク・ナット・ハン師『ブッダ「愛」の瞑想』)
6.私たちが仏を探す必要がないのは、私たち自身が仏だから

まづこのプリントを見たとき、ティク・ナット・ハン師に嫌な印象を持つた。私はハン師に会つたことも、著作を読んだこともない。なぜ嫌な印象を持つかといへば、たまたまNHKテレビで何かの番組が始まるのに前置きの場面だつたからチャンネルを切り替へたところ(おそらくNHK総合からNHK教育)、ハン師が何か話してゐるときだつた。確か水が蒸発して空に登るといふ話だつた。仏教とは無縁で偽善性を感じた。わずか三十秒のことだが、それ以来、ハン師に悪い印象を持つた。悪いのはハン師ではなくNHKだ。だからハン師には中立でゐようと自分に言ひ聞かせた。
今回久しぶりにハン師の名前が出た。著書を読まず論評するのは失礼だから、インターネットで図書館の予約をしようとすると、十五人待ち、別の本はどれも数人待ちと大変な人気だ。仏教の本はこれまで一人の例外を除いて待たずに借りることが可能だつた。一人の例外とはスリランカ上座部仏教僧のスマナサーラ長老の、それも瞑想の書籍で一人待ちだとか二人待ちたつた。スマナサーラ長老の書籍でも瞑想以外のものは待たずに予約できた。それなのに、ティク・ナット・ハン師の本はなぜ十五人待ちなのか。
私が住むのは横浜市だから図書館は十五くらいある。他の図書館の蔵書も含めて検索するから十五人待ちは新刊以外あり得ない。この場合はティク・ナット・ハン師を人気があると讃へてはいけない。マスコミの情報操作と考へるべきだ。改めてハン師に悪い印象を持つてしまつた。ハン師はベトナム戦争当時は中立だつたが、ベトナムから出国し長年に亘り欧米で活動する。もしベトナム国民の幸せを願ふならベトナム国内で活動すべきではないのか。

十二月十一日(金) 堀澤祖門師の講演(第四章)
第四章「泥仏」をプリントから抜粋すると
1.衆生本来仏なり」
2.すべての人は泥仏である  泥を被った仏
5.「泥」を気にすることなく、「仏」であることに重心を置いて生きる
6.殻を破れば「すべてが一つ」  「一元の世界」こそ人類の理想郷

講演では、中が仏だから洗はなくてよい、すべての人に仏を認めなくてはいけない、といふことを云はれた。堀澤祖門師の略歴に「12年篭山行を満行」とあるので、このような修行を否定されるのかと、少し驚いた。その後
仏教には、禅、天台にも一部あるが、修行すれば仏になる、といふものと、他の宗派は仏におすがりする。もう一度、釈尊の時代に戻る必要がある。

と云はれたのは再び、修行が必要といふ路線に戻られたのかとそのときは思つた。

12年篭山行はインターネットで調べると大変な苦行だ。堀澤祖門師をわざわざ京都からお呼びしたのは、12年篭山行或いは比叡山の他の行も含めた解説に期待してであらう。或いは三千院門主として三千院の歴史であらう。或いは比叡山の修行道場の指導での話だ。堀澤祖門師がこの日に話された内容は各宗派がそれぞれ形を変へ既に持つものだから、釈迦に説法で無益な講演をした。当日はさうは思はなかつたが、今日改めてさう思つた。

十二月十一日(金)その二 舞の海さんの講演
次に、大相撲元小結で相撲解説者の舞の海さんが登場した。舞の海さんは「私の講演はまつたく役に立ちません」と断つてから話された。このときも笑ひ声で会場が溢れた。和やかな雰囲気だつた。大相撲のエピソードをたくさん話され、その度に会場は笑ひの渦に巻き込まれた。私が今までに聴いた講演で一番面白かつたと云つても過言ではない。
人情相撲といふことを話された。怪我をした相手、怪我をさせた相手が治癒して戻つてきたときに、八百長といふのではないが力を抜くことがある。これは善い話だ。相撲は100%がスポーツではない。もしスポーツなら体重別にしなくてはいけない。さういふ話もあつた。ここまで同感だつた。
朝青龍にお父さんが「お前のお母さんを殺した相手だと思つて対戦しろ」とアドバイスしたといふ話をされ、舞の海さんは日本が平和ぼけだといふ表現で、これを肯定的に話された。ここは私と意見が異なる。相撲には美学が必要だ。美学がなければ単なるデブ、肥満児の喧嘩だと思ふ。講演の最後で舞の海さんは会場の聴講者に対して、他人のせいにするくらいの気持ちを持つたほうがいいとアドバイスされ、終了した。
このとき、最後の一言でせつかく舞の海さんの温かい心の講演だつたのに台無しになつたと、そのときは思つた。暫くして「私の講演はまつたく役に立ちません」と断つてから話されたのだから、これでよいのだと思つた。舞の海さんの経歴を見ると、山形県の高校教師に内定してゐたのに周囲の反対を押し切り大相撲入りを決意、新弟子検査基準の伸張が足りなかつたため頭にシリコンを入れて合格、とある。シリコンの話は講演でも話されたが、そのような努力をしたといふ話で終了すればよかつたのにと、次に考へた。
更にその次に、他人のせいにするといふのは、本当に相手が困るようなことをするのではなく、心の中でだけ他人のせいにして自分の心を落ち込まないようにすることだと気付いた。といふことで、舞の海さんの講演は今までで一番面白いし、一番優れた講演であることに間違ひはない。

十二月十二日(土) 続、舞の海さんの講演
普通は親方を名乗るのに、なぜ舞の海といふ現役時代の名前なのだらうと調べると、引退時に親方名跡の空きがなく、引退してタレントになつた。普通の力士ならそこで腐つてしまふ。それをタレントに転身したのはすごい。最初の苦労は大変だつたことだらう。大相撲だけではなく引退後のことも講演内容として多くの人を引き付ける。講演のデパートである。

力士が昼寝をすることは体重を増やす長年の習慣だ。舞の海さんは、栄養不足のときはよかつたが、今は過食の時代だから体重超過になると解説してくれた。なるほど長年の生活の知恵も状況が変はると害になることもある。護憲運動はその例だ。米ソ冷戦の時代には意味があつた。今は社会を破壊する連中と拝米反日の巣窟になつてしまつた。

十二月十二日(土)その二 第一部の法要の改革案
第一部の法要は宗派によつて参列しなかつたり合掌する時機が異なつたりして、客席から見るとあまり美しくない。改革案として中央にお祭りした仏像が釈尊なら、随喜の僧侶は全員壇上に座つたまま、最初は浄土系各派僧侶が読経し最後は全員で合掌する。次に天台系各派が読経し全員で合掌する。最後に密教各派が読経し最後は全員で合掌する。
中央にお祭りした仏像が今年は阿弥陀仏なら、随喜の僧侶は全員壇上に座つたまま、最初は阿弥陀仏をお祭りし浄土系各派僧侶が読経し最後は全員で合掌する。次に釈迦牟尼仏をお祭りし天台系各派が読経し全員で合掌する。最後に密教各派が大日如来をお祭りし読経し最後は全員で合掌する。全員で合掌するのは、成道会を奉修したことに対してで、仏像にではない。このことで全宗派が参加できる。
この場合、会場の放送が重要になる。「最初はxx宗、xx宗xx派、・・・による法要です。xx経をお供へします。最後の合掌は放送でご案内しますので全員でお願ひいたします」と案内することにより、各宗派合同の法要に参加した意味が出て来る。(完)


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