七百八十二 築地本願寺、養老孟司氏の講演
平成二十七乙未
十二月十四日(月)
出席するか迷つたが、参加することにした
一昨日は築地本願寺で仏教文化講座があり、養老孟司氏が講演された。もともと仏教文化講座への出席は今回を最後にしようと考へてゐた。しかし私は養老孟司氏の本は読んだことがない。出席は止めようと気が変はつたが、それを押し戻したのは「現代における仏教」といふ題だつた。香山リカの内容のない講演を聴いた後遺症が残る。講演会を聴きに行かうとすると、時間の無駄だから止めようかといふ気持ちが涌いて来る。
会場は満席になつた。今までにないことだ。養老孟司氏の知名度は高い。「まだ左右に席の空いたところがあります」と場内放送があつた。
十二月十九日(土)
養老孟司氏の講演
講演の良し悪しは、内容量が時間に合ふかで判断するのが一番良い。その基準を当てはめると養老氏の講演は良かつた。時間に合つた内容量とは
- 信仰する宗教は何かといふアンケートで日本人は無宗教が多いがなぜかと質問をされて、無は般若心経の無だと苦し紛れに答へた
- 英語の動詞のamは前にIしか来ないから、am a boy.でいいはず。ラテン語の時代はIを付けなかつた。十一世紀に懺悔が始まり「私は」といふことでIを付けるようになつた。西洋で嫌なのはコーヒーにしますか紅茶にしますかと選ぶ主体の存在を押し付けられる。アメリカ人は特に強い。日本では云はないのが自由。最後の審判を信じてゐる人との違ひ
- 人生は自分で決めてきたか。御前会議の開戦決定も同じ。やむをえず動くから選択が少ない。日本語の影響は大きい。仏教。旧制高校では、社会を考へるときは儒教、家族を考へるときは道教、哲学は仏教と云はれた。
- 意識は物質なのかエネルギーなのか不明。麻酔でなぜ意識がなくなるか。大脳は細胞が200億、小脳は800億。小脳はほとんどなくても意識がなくならない。
- 寺で僧が掃除をするのはきれいにするためではない。今は体を使はなくなつた。沖縄は長寿日本一から転落したが、車が多く体を動かさなくなつたから。
- 人は、共通のものを同じに認知する能力がある。犬や猫は違いしか見えない。動物は絶対音感。人間は声、高さが違ふのに同じ内容だと認知する。同じものが情報で0、1で永久保存できる。人間は違ふ。明日は違ふ。平家物語は「諸行無常の響きあり」と書いてあるが700年経つても文章は変はらない。ニュースはさすがのNHKも明日の分はやらない。
- 90歳で「死にたくない」と叫ぶ人がゐた。やりたいことがあるなら、なぜ今までにやらなかつたのか。自分を情報にしてしまつた。現代は、人を情報にした。名前が変はらない。番号が付いた。個性だといふ生徒がゐるが、個性は変はらないものが価値だから、教育できないことになる。個性は情報。個性を伸ばしたらA型がAA型になつてしまふ。人間は七年で細胞が入れ替はる。私なんか十一回入れ替はつた。a=b、感覚はaとbは違ふが意識は同じにする。
以上の内容だつた。「諸行無常の響きありと書いてあるが700年経つても文章は変はらない」「ニュースはさすがのNHKも明日の分はやらない」「私なんか十一回入れ替はつた」など話も面白かつた。講演のとき一つの主題についてその関連情報を含めて話す方法が普通で、主題がいくつかる場合もある。養老氏の場合は、細かい情報が多数あり、それぞれは関連付けられてはゐないので、かういふ話し方もあると感心した。関連付けられてゐない情報を聴者に気付かせず次々に引き継ぐ話術はみごとだつた。強いて主題を一つ見つけると、情報はデジタル化できて、人間は情報ではなかつたが現在は情報になつたといふことだらう。講演が終つた直後にさう感じた。今は一つの主題ではなく、話された情報量全体が主題だと思ふようになつた。(完)
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