七百六十七 第三回禅文化フォーラム

平成二十七乙未
十一月七日(土) シァル鶴見
三日に第三回禅文化フォーラムが鶴見大学会館で開催されることを京浜四大本山のちらしで知り聴きに行つた。曹洞宗宗務庁か総持寺の主催かと思つたら、シァル鶴見文化事業協議会といふ団体の主催である。シァル鶴見は数年前に完成した駅ビルで、その前はつるみカミンだつた。つるみカミンの時代は私の勤務する会社が近くにあつたから、地下一階は食料品、一階は銘菓、五階は書店、六階はレストランと今でも覚えてゐる。午後から出張のときよく六階のレストランで食べた。
フォーラムではまづ横浜ステーションビルの社長が挨拶され、どこのステーションビルも同じだと云はれるので、鶴見の特色の禅を出すためシァル鶴見文化事業協議会を作り、五階の坐月一茶では月に二回、法話とミニ坐禅を開催し、店の前には禅関係の書籍を並べたと話された。特長を出すのはよいことである。
昨年は参加者が五十名だつたが、今回は多数(私の想像では二百名近くか)参加してくれた。

講演は二人登壇し、一人目は総持寺の後堂といふ役僧である。後堂といふと天真閣か(香積台の後、木造三階建てだつたのに今回二階建てになつてしまつた)、後醍醐天皇廟所か(大雄宝殿の後)、虎嘯窟(こしょうくつ)か(放光堂の後、日曜参禅会があつたときは四柱会といふ質問会が行はれた)、はたまた鉄筋コンクリートの名前は忘れた建物か(衆寮の後、日曜参禅会があつたときは二柱の講義が行はれた、インターネットで調べたら伝光閣だと判明)と思つてしまふが、後堂とは修行僧の指導係らしい。講演内容は
空 全体をつかさどる神がゐない
道元禅師は、はたらきとははたら機 機は機関
upper tie お前らは野蛮人だと西洋人に云ふ
日本は食料を輸入することで砂漠を輸出 抑制した生活が仏道 かう云ふとそれなら寄付も抑制しませうかと云ふ人がゐる。自分の収入を抑制し、経済全体を抑制し、そして寄付を抑制するならよい。収入は同じで寄付だけ抑制するのは駄目 坐禅 伝統的なことをすると理論は後から付いてくる

以上のお話があつた。経済全体を抑制、西洋文明は野蛮、形から入ると理論が後からついてくる、と共感できる内容が多かつた。
二人目の講演は臨済宗建長寺派の宗務総長である。講演の内容は
目覚め方
師僧から心を持って来るよう云はれ取り組んで見つからなかつた。その過程が大切。臨済宗は自給自足
野菜も肉も、命をいただいて自分の命を維持してゐる。葬式のときはいつも懺悔論をいふ。命をいただいて来たからどうお返しをすればよいか
朝起きたら、自分がここにゐることに感謝する
坐禅は自分の執着から離れる

十一月七日(土)その二 座談会
座談会は、参加予定の臨済宗円覚寺派の教学部長が都合で来られず(1)講演された総持寺後堂の方を代役に、それ以外の三名は予定どおり(2)建長寺派末寺住職、(3)曹洞宗末寺住職、(4)駒澤大学教授で行はれた。以下の内容だつた。私のメモ書きだから意味不明な点が多いが、書かないよりは情報量の多いほうがよい(不要な情報は捨てることが出来る。しかし私が書かなかつた内容は二度と活用できない)と思ひ記述した。
(2)住職になった最初は檀家三軒だつた。石ころのように
(1)生と死 七百年前と違ふ。西洋の考へは破たんに近い。客体を決められない、死者と分離できない。アメリカでネクタイに法衣切るのは日本人僧、アメリカ人はきちんと法衣着る、法衣を着たいから僧になる。形から入る
(3)臨済は藍染、曹洞は藍染か黒だが今はほとんど黒
(4)スタンフォード大学客員研究員を一年。その数年後に客員研究員をやつた東工大の上田氏は、仏教を変へなければならないと言つたが、私は逆。京では衣に触ると利益があると云はれてゐる。
(2)自分に嘘をつく世の中になつた
(1)総持寺は横浜市と協定を結んで避難場所なので、中を知つておいてもらつたほうがいいといふことで夢広場が始まつた。うなぎ屋に行くのに衣だと気が引けるが、着替へないほうがいい
(3)海外に行くにも作務衣か衣のどちらかで行く。袖と裾が短い道中衣と大衣があるので道中衣。

このなかで(3)の老師は私も昔、座禅会でお世話になつた。僧の傍ら日本庭園を設計され文部大臣新人賞、多摩美術大学教授も務め、在日カナダ大使館の日本庭園を制作された。
私も忙しく(ホームページばかり書いてゐるからだと云はれさうだが)その後は参加の機会がなく十五年を経過した。この日の紹介では、文部大臣新人賞の他に、ドイツ連邦勲章、ニューズウィーク誌日本版で「世界が尊敬する日本人100人」に選出。これらは初耳である。日経BPに禅の言葉を執筆され始めたのでその後も活躍されてゐることだけは知つてゐた。

十一月七日(土)その三 対話コーナー
座談会の次は出演者との対話の時間である。しかし参加人数が多いので、私は最前列にゐたので多くの人が参加できるよう時間の節約のため真先に駒大教授前に掛け付け、禅問答は古文書として扱ふべきで、臨済宗では公案だが曹洞宗は只管打坐では、と云はうと思つたが急いだので、コンニャク問答と言つてしまつた。ここは判り難い。私のホームページガ悪いのだが駒大教授は禅問答やこんにゃく問答の話もされた。しかし座談会の記事では特に取り上げなかつた。駒大教授の回答は最初、こんにゃく問答、禅問答で戸惑はれたがすぐ理解され
曹洞宗は坐禅には入れないが修行として禅問答を学ぶ
といふ要旨を言はれた。この回答は私の曹洞宗への理解が短時間のうちに二転三転四転させる。
それは後述するとして私が聞き終はつた後に、それでは人数が多いので全員が話せるか判りませんが、と対話の時間が始まつた。幾らたくさんの人が話せるようにといふ配慮とはいへ、始まる前に私の老師方との対話は終了した。

十一月七日(土)その四 シァル鶴見と総持寺を訪問
会場が帰る人と出演者と話をしたい人で二分される中を退出し、シァル五階の坐月一茶を外から見た。平時なのにお客様はまづまづの入りで安心した。対話の時間が30分あるなかをまだ十五分あるので鶴見会館に再度寄らうと思つたが、総持寺の六百五十遠忌で建設された大祖堂側の地上回廊を見て帰宅した。
この日は鶴見夢広場in総持寺といふ催しがあり、鶴見会館に行く前に、三松閣の写真展、絵画展と、この日特別の宝物館無料拝観を観た。先日第二祖六百五十遠忌で賑はつたばかりなのになぜ再び、といふ疑問を多数の来場者でふつきつたあとだつた。
六百五十遠忌記念事業では、大祖堂側の地上回廊新設のほかに、天真閣といふ木造の建物を三階建てから二階建てにする改築もあり、木造三階建てを見られなくなつたのは残念だつたと云ふべきところだが、天真閣の一階は見るからに作業部屋みたいな所だつた。

十一月八日(日) 曹洞宗の存在意義
曹洞宗の存在意義は只管打坐にある。平成五年頃総持寺日曜参禅会の指導をされてゐた東老師(元宗務総長の東隆真師とは別の老師)が、我々が座禅をするときに仏様もいつしよに座禅をしてくださつてゐると話されたことがあつた。或いは年忌のときは座禅を一座多くするといふ話もあつた。つまり座禅をすることが他宗の念仏や題目に当る。
ところが禅問答は坐禅の外で修行の道しるべとして読むとなると、曹洞宗への思ひ入れを変へなければならないのでは、と落胆した。その後、一時間の間に考へが二転三転し、最後の結論は、古文書として読む禅問答と、修行の助けとして読む禅問答に違ひはないといふことで、これからも只管打坐の曹洞宗として意義を見出すことを継続できた。
なを臨済宗が公案を用ゐることは、臨済禅の伝統として貴重である。私は円覚寺、建長寺の座禅会も参加したことがあるが、公案は提示されなかつたのでよくは判らない。しかし公案を用ゐる禅も貴重な伝統である。

十一月九日(月)、十二日(木) 桝野老師
座談会の司会は桝野老師である。座禅の指導は適格だし、日本庭園設計では世界に有名だし、シァル鶴見での月二回の法話もご自分だけでなされるか教区内の僧を含めて数名で行ふのが普通なのに、総持寺、駒澤大学、円覚寺、建長寺まで巻き込む。その行動力は卓越する。
日本の伝統の後世への継承は私の二番目の関心事(一番目は地球温暖化)だが、桝野老師は海外に行くにも衣か作務衣で、私の関心事とも一致してまさに理想像である。
といふことで桝野老師は、すべての人が誉めるばかりである。しかしそれでは逸材の活動を現状水準で停止させたことになる。今から五百年後に桝野老師の庭園が国宝に指定されるために、別の角度から考へたい。
十二因縁は十二のことが発生したのではなく、最初の無明があるから次々に後が生じる。桝野師の場合は、最初にブリティッシュ・コロンビア大学で特別教授として集中講義を行つたため、その後は次々と海外の経歴が発生し外務大臣表彰も受賞した。同じく日本造園学会賞を受賞したためその後は芸術選奨文部大臣新人賞など受賞が続いた。その増大した内容を紹介し皆が誉めるから更に偉大になつてしまふ。紹介はブリティッシュ・コロンビア大学特別教授と日本造園学会賞だけに留めたほうがよい。
桝野老師が成功したのは僧侶と庭園設計といふ二足の草鞋を履いたことが、庭園設計に仏教精神があると周囲が信じ込んだことで、これは桝野老師の科ではない。桝野老師の僧侶としての業績は庭園設計は全く考慮せず僧侶として、庭園設計の業績は僧侶は全く考慮せず庭園設計として判断しなくてはいけない。
桝野師以外の日本庭園の設計者との比較も大切である。それぞれ作風があるはずだ。各庭園の批評も大切である。桝野老師が設計したから良作なのではなく、誰が設計したか判らない状態で観て批評しなくてはいけない。

十一月十三日(金) 止観
天台宗では座禅を止観と呼ぶ。止と観の両方が大切な事は、天台宗だけではなく原始仏教から現在に至るまで不変である。只管打坐だとこのうちの止だけではないかと疑問を持つ人もゐよう。しかし呼吸する自分、半眼で前を見る自分、聞こえる小さな音から、五根の中心にある意識に気付く。執着がすべての因といふ釈尊の法を思ひ起こすとき、そこに止と観が備はるのではないだらうか。
止観は科学である。産業革命より前は科学は魔法の力であつた。止観は宗教である。科学ですべてを解析する現代にあつては止観は宗教である。自力で悟るのではなく、仏様とともに修行する。そこに只管打坐が生きる。(完)


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