七百七十 1.新田雅章氏「天台小止観 仏教の瞑想法」、2.その他の著者の「天台小止観」

平成二十七乙未
十一月十四日(土) 天台大師
天台大師に魔訶止観といふ著書がある。それを読まうと図書館を探したが見付からない。その代はり天台小止観について三冊借りることができた。三番目に読んだのが現代語訳のついた新田雅章氏「天台小止観 仏教の瞑想法」である。はしがきは
今日ほど人間がその欲望を拡大、膨張させた時代は歴史上なかったであろう。(中略)『小止観』は人間の欲望の本質を、さらには欲望の根底に横たわる人間の「心」のなんたるかを明快に語ってみせてくれている。これが教示するところをじっくり読んでいただければ、欲望に押し潰されない強靭な精神の形成に資する内容豊かな発言に出会っていただけるものと思っている。

とある。それでは本文に移らう。天台は序文で涅槃について
入るにすなわち多徒なるも、その急要を論ずれば、止観の二法を出でず。しかるゆえんは、止はすなわち結を伏するの初門、観はまた惑を断ずるの正要、(中略)止はこれ禅定の勝因、観はこれ智慧の由籍なり。もし人、定慧の二法を成就すれば、これすなわち自利利他の法みな具足す。ゆえに法華経にいわく(以下略)

とここで法華経が登場する。天台大師といへば法華経だが、禅師でもあることはあまり知られてゐない。解説では天台大師の最初の著作『次第禅門」に言及する。
『小止観』をみれば、宗教的実践は「止観」を基軸として修習されるべきものとされており、そしてこの見解は『魔訶止観』へと受け継がれ(以下略)

一方で
『次第禅門』では実践の基軸は「止観」ではなく「禅」に求められ(以下略)

とある。私は禅、瞑想、止観を同じ意味に使ふが、新田氏は天台大師が使ひ分けるとする。そして
禅では智慧を取り込みえないというのが、主たる理由であった

とする。

十一月十四日(土)その二 第一章縁を具えよ
いかんが縁と名づく。いわゆる行者、止観を修せんと欲せば、必ずすべからく五縁を具足すべし。五縁とは、一に持戒清浄、二に衣食具足、三に閑居静処、四に息諸縁務、五に得善知識なり。

で第一章は始まる。一つ目の持戒清浄の戒とは具足戒(上座部仏教と同じ)である。ただし戒に違反したとき、上座部仏教では追放となるものでも、大乗では懺悔することで罪は除かれるといふ違ひはある。
衣食具足のうち衣について3つあり、
一には雪山の大士のごとく、一衣を得るに従って形を覆えば即ち足る。人の間に遊ばず、堪忍力成ずるを以ってのゆえなり。

雪山の大士について新田氏は「過去世にヒマラヤ山麓で苦行を励行されたときの釈尊」と訳されたが、原文を忠実に訳せば「雪山の修行者」「雪山童子」だが後者ではなく前者だと私は思ふ。この本には原文の書き下し文も載るから、それを読んだ上で現代語訳を見るから、解説を兼ねて親切に訳されたのだが、とかく原文と現代語訳の両方があると、現代語訳しか読まない人が多いから、新田氏の書籍では両方をきちんと読む姿勢が大切である。私は今回、関口真大氏「天台小止観」をまづ読んだから、新田氏の本では原文は飛ばして現代語訳だけを読んで、危うく原義を取り違へるところだつた。新田氏ではなく私の責任である。
つぎに食法に四種あり。一にはもし上人大士は深山に世を絶し、薬菓蔬菜、得るに随って身を資く。二にはつねに頭陀を行じ、乞食の法を受く。この乞食の法は、よく四種の邪命を破す。(中略)一には下口食、二には仰口食、三には四維口食、四には方口食なり。

ここで字句解説によると、下口食とは比丘が田を耕したり、薬を売ったりして、衣食を得ること、仰口食とは比丘が天文学の知識をもとに衣食を得ること、四維口食とは呪術や卜筮を行ったり、吉凶禍福を占ったりして、比丘が移植を得ること、方口食とは権勢に媚びたり、世辞を言ったりして、比丘が衣食を得ることとある。上座部仏教と極めて近いことがよく判る。

十一月二十日(金) 第六章正修行
止観を修するに二種あり。一には坐中において修す、二には縁に歴(わた)り、境に対して修す。

これについて現代語訳は
一つは坐るという形式(=座禅)にもとづいて止観を修する形であり、もう一つは(中略)行・往・坐(たんに座ること)・臥といった形式にもとづくとか、また色・声・香などの認識の対象に従って止観を修する形である。

原文は引用した次の行で四意義といふ語が出て来る。次の行の訳文はそこで訳してゐるのだが、その内容が判つたほうが前文もわかり易いといふ新田氏の配慮である。新田氏は訳文の後の解説で四種三味について述べる。
四種三味の構想というのは、止観の行の修し方を、人間の立居振舞といったいわゆる外なる形式の面に注目して体系的に整理し、まとめたものであり、具体的には常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧をいう。(中略)常行三昧は阿弥陀仏を念ずる仏立三昧であるのに対して、半行半坐三昧における行道は、方等三昧であり、法華三昧である。

十一月二十一日(土) その他の著者による天台小止観、関口真大氏
関口真大氏の「天台小止観」は一番最初に読んだ。漢文と書き下し文を並べただけだが、読むのに適切である。「はじめに」に
おそらくはインド、シナ、日本を通じて仏教史上において初めてこのように集大成させたものであり、且つそれ以後においてもこれに勝って懇切な坐禅の指導書はついに世に現れなかった。すなわち禅宗において作られた各般の座禅儀や修証儀をはじめとし、諸宗の章疏において坐禅の作法を説くに際して、つねにこの天台小止観が依用され踏襲されている

とあるので、天台小止観に心酔し過ぎではないかと心配したが、本文は極めて冷静な書である。
この本の最後に「解説」と称する十ページがあり、ここには
天台小止観は、従来普通に、(中略)魔訶止観の要略書であるといわれてきた。(中略)けれどもじつは魔訶止観十巻の要略ではなく、これも同じく天台大師の撰述である禅門修証十巻の要略書であると見るべきである。

とする。その理由は
がんらい天台大師の止観法門の大綱は、いわゆる三種止観である。三種の止観とは、一に円頓の止観、二に漸次の止観、三に不定の止観である。円頓の止観は、実践観心の当初から最も高く最も深い心境ととり組んでいく禅の修証の方法である。漸次の止観は、それとはむしろ反対に、低きより高きに浅きより深きにと次第し、階梯を踏むようにして禅の証悟を成就しようとするものである。不定の止観は、この頓・漸の諸法門をその人その時の事情に応じてあるいは前後更互に、あるいは浅い行法を深い意味に、あるいは高い法門を低い立場でもちいてみるなどの、自由な活用を趣旨とした禅の修証の進め方である。
この三種の止観のうち、円頓の止観を広説したのが魔訶止観十巻、漸次の止観を広説したのが禅門修証十巻、不定の止観を懇切に例示したのが六妙法門二巻である。そしてこのなかの漸次の止観である禅門修証十巻を要略したのが、この天台小止観である。



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