七百六十八 日本の立場から軍部を批判すべきだ(大江信乃夫著「張作霖爆殺」読書記)
平成二十七乙未
十一月七日(土)
読み終へた感想
図書館で大江信乃夫氏「張作霖爆殺」がたまたま目に入り貸出の手続きをとつた。予約した本が来るまで二冊の余裕があつたためだ。大江氏は昭和三年生れ。本の出版は昭和六十四(平成元)年。生年に注目する理由は、昭和元年以前の人であれば、敗戦後のGHQによる言論政策を見抜ける。昭和三年生まれは微妙である。
出版年に注目する理由は、昭和六十年辺りから日本の言論は大きく歪んでしまつた。勿論昭和二十年以前は大きく歪んでゐた。終戦直後の昭和二十年代は混乱が続き、昭和三十年代と四十年代が正常である。先の戦争や平和への言論は昭和三十年代、四十年代のものを以つて正論となし、それ以降はGHQに洗脳された邪論と断定してよい。
この本を読み終へた感想は、張学良や蒋介石の立場に立つた本といふことだ。日本人向けに書く以上は、日本の立場に立ち、しかし戦前の軍事政策を批判するものでなくてはいけない。
その一方でこの本はよいところもある。昭和天皇の田中義一への叱責の方向が間違つてゐたことがその後の日本を誤らせたとして、天皇側近を批判する(大江氏自体は昭和天皇そのものを批判するが、それを天皇側近と読み替へることで役立たせることができる)。これはこれまでの軍部が悪い、関東軍が悪い、実行者が悪いといふ表層的な解析とは違ひ、まともな言論である。おそらくこれが正しい。更に云へば田中義一の立場を天皇側近は軍人と見做して叱責したが、軍部と田中義一本人から見れば予備役大将で政党所属の首相である。この二面性への理解が天皇側近と言論界になかつたことが原因である。
それとは別に、長州閥による陸軍支配を中堅クラスによる二葉会、一夕会が覆したことは現在にも警鐘を鳴らす。船橋洋一の英語公用語化論以降、言論界と政治屋と官僚による連携が余りに多い。官僚や政治屋や言論界が非公式な学閥その他の会合や連絡を持つてゐないかを、国民は強く監視しなくてはいけない。さうしないと二葉会、一夕会が日本国を滅亡させたのと同じことを繰り返すことになる。
十一月八日(日)
内モンゴールといふ単語
一九二七年三月、中国の国民革命軍が南京を占領した際、列国領事館が襲撃されるという事件がおこった。これにたいし英米軍艦は南京市内を砲撃して革命軍司令の蒋介石に軍事的圧力をくわえた。当時の若槻礼次郎内閣の幣原喜重郎外相はいちはやく、事件の解決は外交交渉による、との訓令を現地公使あてに発したので、幣原の対中国「軟弱外交」への批判が、野党の政友会や保守的な枢密院のなかにつよまった。
ここまでは美談である。欧米が軍事力に訴へたのに、日本は外交で解決しようとしたのだから。ところがこの本は続けて
幣原がこのような訓令を発したのは、国民革命軍内の国民党と共産党の対立に目をつけ、国民革命を分裂させて蒋介石ら国民党右派を日本側に引きつける裏面工作をおこなっていたからである。
日本が親日勢力を作らうとしたのは問題ない。どこの国もやることだ。しかし日本が国民党を分裂させてまで作らうとすればそれは信義に反する。だが大江氏のこの文章は間違つてゐる。それはすぐ続けて矛盾する文章を書いたことで判つてしまふ。
列国の圧力に屈した蒋介石は、四月に上海で反共クーデターをおこない(中略)反共の路線を明らかにした国民党軍は英米を中心とする列強の支持をとりつけることに成功し、北伐による中国統一の完成が進展しはじめた。
つまり国民党を分裂させたのは英米の工作だつた。それなのに大江氏は日本の裏面工作と呼ぶ。或いは日本も裏面工作をやつたのだらう。それだつたら日本と欧米とそれぞれが裏面工作をやつてゐたことを書くべきだ。大江氏の文章からは日本は裏面工作をやり、欧米は何もやらないのに蒋介石が反共クーデターを行つて英米の支持を取り付けたとしかとれない。よく読めば蒋介石が反共クーデターをやつて突然英米の支持を取り付ける訳はないから裏工作があつたのだなと気付く。しかしほとんどの人は、日本は裏工作、蒋介石は勝手に反共クーデター、英米は公正と思つてしまふ。実に悪質な裏面工作文章である。
こののち若槻内閣は金融恐慌の緊急勅令案が枢密院で否決され総辞職する。後継の田中政友会内閣は蒋介石の北伐軍が山東省にせまつたため、第一次山東出兵を行なつた。実際は北伐軍が徐州の会戦で敗北したため撤兵した。蒋介石も責任を取つて下野した。
田中首相自身は、国共分裂以後の国民党による満蒙を除く中国統一に反対ではなく、満蒙については張作霖との個人的関係をつうじて日本の権益を安定拡大することが得策であり可能である、と考えていたようである。しかし、山東出兵は、日本が国民党政府による中国統一を阻止する意図のもとにおこなわれたものと、うけとられるにいたった。
だとすれば事は重大である。大江氏は二行で済ますが、日本の外交が拙劣だつたのか原因をはつきりさせるべきではないのか。それより問題なのはそれに続く文章の
「満蒙」とは、東三省にいわゆる満内蒙古の熱河をくわえた地域をいい、内モンゴール全体をふくむものではない。
内モンゴールといふ日本語はない。内蒙古ならあるし内モンゴルもある。しかし内モンゴールといふ単語は初めて見る。単なる活字間違ひならよい。大江氏が張作霖や蒋介石の立場でこの本を書いたとして紹介するつもりだつたが、この部分を読むと西洋の観点からこの本を書いたのではないかと疑つてしまふ。
十一月八日(日)その二
本質を見落とし、枝葉の現象にこだわる大江氏
一九二九年二月、蒋介石が復職して国民党軍が北伐を再開し、四月にはふたたび山東省をおびやかすにいたった。それよりまえ、下野中に来日した蒋介石は田中首相と会見し、日本の張作霖援助が中国の排日運動の一因であることを指摘するとともに、国民党が日本の満洲における特殊権益に考慮をはらうとの見解をしめしていた。
しかし田中内閣はふたたび山東出兵を決定した。ここで居留民の保護が適切なのかどうかをまづ検証すべきではないのか。第一次出兵は居留民保護が目的だが第二次は張作霖軍への間接支援が目的とも考へられる。
田中首相は、派遣軍を青島にとどめておくという示威出兵だけで出兵目的が達成されることを期待していた。しかし、青島に上陸した福田彦助第六師団長は独断で兵力を済南に進出させ、参謀本部はこの処置を追認した。
ここだけ読むと第六師団長の独断が悪い。私もそれを紹介するため引用したのだが、参謀本部が追認し田中首相も元に戻すことを主張しなかつたことを考へると、何らかの事情があると考へるのが普通だ。
五月一日、北伐軍は北軍との武力衝突なしに済南に入城した。済南で日本軍と北伐軍とが直接に向かいあうという危険な状態が生じた。最初の小さな武力衝突がおこった発端については、日本軍側と北伐軍側とでそれぞれ異なった事実をあげている。
ここまで書いたのだから大江氏は双方の主張を列記しどちらが正しいか判断すべきだ。しかし大江氏は
現地から誇大な報告が陸軍中央部につぎつぎと送られた。(中略)五月八日、閣議はさらに第三師団(名古屋)の派遣を決定した。
と日本軍の現地は誇大な報告をつぎつぎ送つたと述べた。今回の衝突は居留民の保護が適切かどうか、済南への無断進出が適切かどうか、日本軍と北伐軍が対峙したとき開戦しないための適切な外交交渉を行つたかが重要なのに、それらを一切検証しなかつた。それでゐて閣議決定のあつた五月八日の
すでにこの日早朝、済南では大規模な武力衝突がおこっていた。衝突の発端は、師団命令なしに独断出動した歩兵第十三連隊が中国軍と衝突したとも、日本軍の特務機関員が両軍のあいだで発砲して武力衝突を挑発したとも伝えられる。第六師団の戦史である『熊本兵団戦史・満州事変以前編』は、歩兵第十三連隊が無影山火薬庫の爆破のために砲撃を開始したのが本格的武力行使の開始であったと記録している。
『熊本兵団戦史・満州事変以前編』といふと権威のある書物みたいに聞こえる。実際は熊本日日新聞が昭和四十年に出版した本である。昭和四十年だから偏向は無い可能性が高い。しかし内容がすべて正しいとはいへない。それにしても大江氏は蒋介石軍の広報担当なのかと云ひたくなるような書き方である。ともあれこの衝突の結果
国民革命軍は多くの損害をだして退却し、蒋介石は災難を迂回して北伐をつづけるように命じた。この事変は、その後の日中関係をきわめて困難な事態におちいらせた。
十一月八日(日)その三
張作霖爆殺
関東軍の斎藤参謀長は、軍中央部にたいして、山海関をこえて撤退する張作霖の奉天軍とこれを追撃する北伐軍のいずれをとわず、実力行使をもって武装解除することを意見具申していた。/五月十六日、閣議は「満洲地方の治安維持に関する措置案」を決定し、(中略)英・米・仏。伊の四国大使を外務省に招いて声明書を手交するとともに詳細な説明をおこない、さらにその翌十八日に覚書のかたちで張作霖と南京政府に通告し、(中略)公使をして張作霖の満洲引きあげを韓国させた。陸軍の主張する張作霖下野にたいしても田中首相は反対した。
関東軍がなぜ張作霖軍が武装したまま戻ることに反対なのか大江氏は述べない。考へられるのは満州の治安維持か北伐軍が満洲になだれ込むのを防ぐためかのどちらかだが
南京政府は、この通告を(中略)関外への追撃をおこなわないことを約束した。
しかし関東軍は実力行使による張作霖軍の武装解除を目指した。その前に陸軍が張作霖下野を主張する話が突然出てくるが、これでは何のことか読者は判らない。関東軍の目的がこれ以降治安維持にあることは判つたが、張作霖下野となるとこれは他国への内政干渉である。そのことの是非を論じることなく大江氏は陸軍刑法の主権外の地への司令官の専断出動を論じる。そして張作霖の北京退去の日が迫り
村岡軍司令官は、出兵命令が発令されないことにいらだち、斎藤参謀長にも河本高級参謀にも知らせず(中略)張作霖を暗殺することを計画した。しかし、この計画を知った河本高級参謀は、張作霖暗殺が満洲の武力占領のきっかけとならなければ意味がないと村岡軍司令官を説得し、自分が独自にねった暗殺計画を採用させた。
十一月八日(日)その四
陸軍内の反長州閥派
現役時代の田中は、山県有朋の庇護をうけて(中略)長州閥の総帥となり(中略)それだけに陸軍部内の反長州閥派、反田中派もすくなくなかった。当時の陸軍部内の反長州閥グループには、大別して二つのグループかあった。ひとつは元帥上原勇作を領袖とする薩摩・佐賀派の将官クラスの反長州閥グループであり、もうひとつは日露戦争以後の軍事官僚機構のなかで成長してきたエリート幕僚中堅層のグループである。
後者はフランス料理店二葉亭に集まり、二葉会と呼ばれた。永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機、河本大作、板垣征四郎などが所属した。
陸士16期は日露戦争中に陸士を卒業したが、その多くは日露戦争の激戦を体験する機会をもたなかった。また、日露戦争中に初級将校の消耗がはなはだしく、(中略)臨時に士官候補生の採用がおこなわれ、これが陸士19期となった。陸士19期には地方幼年学校卒業生がいない。こうして、陸士15期つまり地方幼年学校1期から、陸士18期つまり地方幼年学校4期までの特殊な世代集団が成立した。(中略)地方幼年学校設置以前の陸士14期の小川は会員ではなく顧問格とされたが、直接に中央幼年学校に入学している。
二葉会はそればかりではない。
陸士卒業生が出世コースの途中駅である連隊長どまりの普通列車とすれば、陸大卒業の資格は終点まで行く特急券を手に入れたようなものであった。(中略)陸士の同期のなかから陸大にすすむことができたのは、一割程度の人数であった。二葉会のメンバーは例外なく全員が陸代卒業生であり(以下略)
これ以降、二葉会は19期以降も取り込んで一夕会を結成。二葉会の会員は一夕会に所属しつつ二葉会は独自に活動を続けた。そして陸軍の主導権を奪つたのち、統制派と皇道派に分裂することになる。(完)
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