七百六十五 長阿含経(その三)

十一月三日(火) 清浄経
清浄経はよいお経である。まづ
私はこの法をみずから明らかに悟った。その法とは四念処、四神足、四意断、四禅、五根、五力、七覚意、賢聖八正道である。

この八つは遊行経にも同じ記述がある。といふことは重要なのだらう。次に釈尊は
ある比丘が法を説いている時、別の比丘が、『あの人が説いている字句は正しくない。道理も正しくない』と言ったとする。比丘はそれを聞いて、『そのとおりだ』と言ってはならず、『そうではない』と言ってもいけない。その比丘に、『どうだろうか、みなさん。私の説く字句はこのようであり、あなたの説く字句はこのようだ。私の説く道理はこのようであり、あなたの説く道理はこのようだ。どちらがまさり、どちらがおとっているだろうか』と言うべきなのだ。その比丘が『(前略)あなたの説く字句も道理も、私よりまさっている』と答えたとする。その比丘がこのように言ったなら、『そうではない』としてもいけないし、『そのとおりだ』としてもいけない。その比丘を諫め、しかりつけて制止し、ともに真理を尋ね求めるべきなのだ。

このあと釈尊は、自ら定めた衣服、食事、場所、薬について、これらがなければ
『そのまま死んでしまふ恐れがある』

としてこれらを許したことを述べて長い話を終へる。

十一月四日(水) 自歓喜経
自歓喜経も清浄経と並び、原始仏教時代の教へが詰められてゐる。舎利弗が釈尊に答へる設定である。まづ
仏の総相法については、私は知っております。(中略)如来は私に黒白の法と縁無縁の法、照無照の法を説かれました。

と答へる。総相法について注には難解、パーリ本の対応する語句の意味はgeneral conclusion of the Dhammaとあるから、解脱法とでもするのがよいかも知れない。黒白法は、善悪と注がある。縁無縁法と照無照法はパーリ本にはなく、未詳とある。次に
世尊の説かれた教えには、さらにまたすぐれたものがあります。それは法を定められたことです。法を定められたとは、四念処、四正勤、四神足、四禅、五根、五力、七覚意、八賢聖道のことをいい、これはこの上なくすぐれた定めなのです。

とある。多少の単語の相違は梵語を漢訳の際のものである。次に
世尊の説かれた教えには、さらにまたすぐれたものがあります。それは諸入を定められたことです。

として六つの感受とその対象の十二入つまり十二処について述べる。次に
世尊の説かれた教えには、さらにまたすぐれたものがあります。それは母胎に入ることを認識するということです。

として四つ挙げるが、何を表すか不明で、注にも載つてゐない。次に
如来の説かれた教えには、さらにまたすぐれたものがあります。いわゆる道です。いわゆる道とは、沙門婆羅門たちがさまざまの手だてを用いて心の静かな状態に入り、静まった心を保ったままで、念覚意を修め、欲望に依り、欲望を離れることに依り、欲望を滅し尽くすことに依り、出離に依る。法覚意・精進覚意・喜覚意・猗覚意・定覚意・捨覚意(を修めるのに)も、欲望に依り、欲望を離れることに依り、欲望を滅し尽くすことに依り、出離に依るということです。

とし七覚意を説く。

十一月八日(日) 世紀経
世紀経は長阿含経の中でも特殊なお経である。それは十二品に分かれる。そのうちの最終の世本縁経には民主といふ名の王様が出現する。世の中がだんだん悪くなり、穀物を盗むものが現れた。別のお経にも出て来たのと同じ話である。そこで人々は王様を決めた。民主といふ名である。民主の子は珍宝、その子は好味である。或いは、明治維新前後に西洋の文献から民主といふ訳を作つた人は、世紀経を呼んだことがあるのかも知れない。(完)

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