七百四十八 社会破壊拝米新自由主義反日(自称朝日)新聞批判(その十一)

平成二十七乙未
九月二十二日(火) 十五日の文化・文芸欄
十五日の新聞はまるで偏向見本市である。三十四面の「文化・文芸」欄は見出しを偏向させてインタビューの内容とは正反対の印象を読者に植ゑ付けるといふ実に悪質なやり方である。まづ慶大教授山元一氏が登場する。
専門はフランス憲法思想だ。フランスやドイツのように憲法を頻繁に改正する国々を「改正文化」の国とするならば、日本には「解釈文化」の国になるという選択肢があるはずだ、と今回提案した。

私はこの提案には次の二つの理由で反対である。
(1)文章に書いてある以上は、その通りにやらなくては駄目である。
(2)人類史上最悪の戦争犯罪人トルーマンとマッカーサの押し付けた憲法を放置することは、二発の原爆投下に賛意を示したことになる。
どういう解釈が望ましいかは、平和主義の枠内で、有権者による継続的で自由な討議や政治的活動、度重なる選挙といった民主主義的プロセスに委ねる−とのイメージだ。

有権者による自由な討議といふが、そのような場がどこにある。日本の全国紙はすべて偏向してゐる。結局は偏向新聞が自分たちに都合のよい討論に誘導するだけだ。次に民主主義的プロセスとは、自分に都合のよい主張ではなく私利私欲を捨てて社会全体に責任を持つことだ。今の日本はさうなつてゐない。朝日新聞が西洋もなつてゐないと言ひ出すといけないので説明すると、西洋には教会、地域社会、職能団体など西洋の社会関係がある。それらが微妙に重なり合つて社会全体の責任を持つ仕組みになつてゐる。だからワークシェアといふ仕組みも出てくる。
安倍政権は(中略)「集団的自衛権の行使」を合憲とする解釈変更を閣議決定した。憲法学者らが作る「立憲デモクラシーの会」は「立憲主義を根底から否定する行為である」との抗議声明を出した。山元さんはこうした論法に違和感を覚えた。

ここは同感である。しかしその理由について山元氏の主張に半分賛成半分反対である。立憲デモクラシーの会には全面反対だから山元氏のほうが近い。
発想の核には、「解釈改憲」がこれまで2回行われたという認識がある。1度目は、自衛隊の存在を合憲であるとする解釈が行われたときだ。(中略)「0を1に変える大変化で、まさに解釈改憲でした。ただしその新しい解釈は、時間を経る中で法的・社会的に承認されてもいった。解釈改憲には憲法を創造的に発展させる面もあったと見ます」

この解釈は間違つてゐる。解釈改憲はしたくてやつたのではない。米軍の圧力、国会の1/3以上を占める社会党の反対、朝鮮戦争やベトナム戦争と同じことがいつ日本でも起こらないとも限らない。それらの事情のせめぎ合ひの結果である。時間を経る中で法的・社会的に承認されたのではなく、直接の原因は村山富市の裏切りてある。間接の原因はカンボジアの大虐殺、中国の文化大革命失敗、ソ連の崩壊といふ国際情勢の変化と、昭和五十年以降の日本の国際収支大幅黒字である。アメリカCIAの工作もあつたと考へるのが普通だ。
2度目の解釈改憲が今回だ。政府は40年以上も「政府は40年以上も「行使できない」としてきた集団的自衛権を「行使できる」に逆転させた。/
「法的安定性から言えば『閣議決定ではなく憲法改正による方が良かった」と言えます。ただ、集団的自衛権を限定的に認めただけで立憲主義が崩壊するとは私は考えない。今回も想像的発展につながる道は開いておくべきですし、その程度で9条は死なない」

山元氏は憲法改正のほうが良かったといふ。私も同感である。しかし山元氏はこの程度では9条は死なないといふ。私は自衛隊との存在とベトナム戦争のときの米軍のベトナム出撃で9条は死んだと考へるから相違点はある。9条が死んだと考へるからといつて戦争をしてよいとは絶対に考へないし、自衛隊は違憲でも法的には存在する。だからそれほど相違がある訳ではない。しかしこの先どんどん偏向してしまふ。

九月二十二日(火)その二 三つの見出しが偏向
解釈文化が憲法の軽視に陥らない条件は何だろう。/「自由で民主的な討議を行える状況です。政府には、平和主義を尊重し、自身の提案する新解釈が必要かつ合憲であると厳格に論証する責任が課せられます」。その条件に照らしたとき、現政権による安保法案の「提案」はどうか。/「自由や個人、平和主義を軽侮する政権がこの提案を担うべきではない。法案自体も時の政権が拡大解釈してしまう危険への歯止めが不十分で、廃案とすべきだ。」

これも現政権が自由や個人、平和主義を軽侮するかどうかを誰が判断するのか。しかも一番目と二番目に「自由」「個人」を持つてくるところを見ると山元氏は新自由主義者と断言できる。既得権の撤廃、社会の公正、非正規雇用、現業職の減少、地球温暖化など緊急を要する項目が一つも入つてゐない。
首相は改憲を目指していると伝えられる。だが山元さんはこう語る。
「後世から見たとき安倍さんは『9条変えなくてもよい』という方向に道をつけた首相として記憶されているかもしれません」

ここで山元氏の本音が表われる。要は護憲なのである。記事の最初では立憲デモクラシーの会に反対しながら最後は護憲に持つて行く。さういふ人を登場させたところに朝日新聞の偏向があるが、それだけに留まらない。今回の記事は見出しが『憲法の「解釈」生かす道』『民主的な討議で解釈変更』『「自由を軽侮する政権」安保法暗には反対』の三つである。これでは見出しの偏向がひど過ぎる。こんなに偏向させておいてよく新聞を名乗れる。まづ『民主的な討議で解釈変更』とあるが、自衛隊合憲解釈は社会党などの強い反対の中を強行したもので、民主的な討議ではない。次に山元氏の発言のなかの「立憲デモクラシーの会」に違和感を覚えたことは重要な部分である。見出しを三つ付けるのだつたら『「立憲デモクラシーの会」には違和感』を入れるべきだ。

九月二十二日(火)その三 もう一つの見出しも偏向
今回は二つの違なる主張を載せて、公平を装つた。東京大学教授の井上達夫氏である。しかし朝日新聞はぼろを出した。記事全体の面積のうち七割が山元氏、三割が井上氏である。これでは朝日新聞は山元氏に偏向してゐますと公表したようなものだ。それより井上氏は
現実と9条の文言がかけ離れていることに欺瞞を見て、「9条削除」論を主張してきた。


私と井上氏はどちらも改憲論だが、私の主張は自衛隊の存在を追加した上で戦争放棄は守るのに対して、井上氏は9条そのものの廃止だから全然主張は違ふ。一方で次のようによいことも主張する。
安保法案には反対の立場に立つ。
「米国の世界戦略のコマの一つとして巻き込まれることになる」などと近著でも批判した(『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』6月刊)。

ここまで本来は私も同感だが、米国の世界戦略のコマの一つとして使はれさうになれば日本の国民は気付くといふのが最近の私の主張である。安保法案反対にリベラルの怪しげな連中が集結した以上、リベラルを叩く必要があるためである。井上氏も
「自衛隊を合憲とみなしてきた欺瞞的な解釈改憲の手法を政権側が学習した結果とも言える」
と、リベラル派に対しても手厳しい。/「9条削除が無理なら、次善の策として、せめて『護憲的改憲』に取り組むべきだ」と語る。専守防衛に限って自衛隊という戦力の存在を認めるという内容を盛り込む憲法改正だ。

井上氏のいふ『護憲的改憲』に私も賛成である。ただしこれは井上氏のような9条削除派が『護憲的改憲』と名づけただけで、世間のリベラルの護憲とは異なる。だから朝日新聞が「欺瞞やめ、護憲的改憲を」といふ見出しを付けたことは中身を読まない読者への誤解を狙つたものと云へる。誤解を招かないようにするには「欺瞞やめ、専守防衛改憲を」で済むからだ。

九月二十二日(火)その四 この日のその他の記事
この日は11面国際欄に韓国の元慰安婦の記事が載つた。1992年ソウル市内に寄付をもとにナヌムの家といふ施設が作られた。現在は10人の元慰安婦が暮らし、そのうちの一人は
1942年に朝鮮人と日本人の2人に中国へ連れて行かれ、その後3年間にわたって慰安婦として被害を受けたという。
普通の読者はこの記事を読めば、強制連行されたのだと思つてしまふが、朝日新聞はそれでよいのか。もしそれでよいなら、強制連行のねつ造記事を取り消したことと矛盾しないか。朝日新聞は取り消しや陳謝をしておきなが、こそこそとこのような記事を書き続けて記事が正しかつたように読者に印象づけようとする。往生際が悪すぎる。

この日は民主主義は止まらない。/9月18日SEALDS/それを望む人たちがいる限り。といふ見出しの意見広告が載つた。意見広告だが不審な点があり過ぎる。まづ賛同団体が
SEALDS TOHOKU
TKG(Thinking about Next Generation)
DemosKratia
WIND(平和と民主主義を尊重する政治を求める三重若者の有志)
しーこぷ。(Shiga/Constitution/Peace)
SEALDS KANSAI
SADL(民主主義と生活を守る有志)
(同じような団体名があと6つ続くが略)

この英語の団体名の羅列は一体何だ。あとプラカードの写真が載るが「WAR IS OVER」など英語のものが17、日本語のものが5。こんな写真が外国の新聞に載つたら、日本はアメリカの植民地なのかと馬鹿にされるだけだ。意見広告だから朝日新聞社が書いたものではない。しかし週刊誌の報道によるとこの意見広告は反日(自称朝日)、小型反日(自称毎日)の二新聞と東京パンフレット(自称東京新聞)にしか載らなかつた。その手際の良さから2新聞1パンフレットの関係者と連携したと考へるのが普通である。(完)


朝日新聞批判、その十(マスコミの横暴を許すな39)
朝日新聞批判、その十二(マスコミの横暴を許すな41)

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