七百四十九 1.蔵王権現と修験の秘宝、2.根津権現のお祭り

平成二十七乙未
九月二十三日(水) 蔵王権現と修験の秘宝
三井記念美術館で「蔵王権現と修験の秘宝」展を開催中である。先日観に行つた。朝日新聞の販売店から招待券を頂いた。朝日新聞はよい新聞社である。唯一の欠陥は編集委員だの論説委員だのといつた連中にろくなのがゐない。
まづ銅造の蔵王権現が多数展示され、その多くが国宝、重文に指定されてゐる。弥勒上生経を経筒に収めて地中に埋めたものは下半分が腐食し上半分のみ現存する。経筒は藤原道長のもので表面に多数の文字が書かれ、梵字で南無妙法蓮華経とも書かれてゐる。平安時代のものだから僧Xより先に、梵語ではあつても題目があつたことを示す。
次の展示室は木造の、蔵王権現、役行者、前鬼後鬼、聖徳太子、釈迦如来、阿弥陀如来、地蔵菩薩、吉野曼荼羅図がある。その次は銅造の鏡像や懸仏で釈迦如来、蔵王権現、男神、女神などである。今までは金峰山寺、如意輪寺、櫻本坊などだつたが、その次からは鳥取県の三佛寺であるまづの投入堂の古材と棟札で、古材は修復のとき廃材となつたが大切に保管されてきた。シロアリの穴が幾つもあつた。最後の展示室は主に木造の蔵王権現像、獅子狛犬などで、シロアリの穴の開いたもの、手の先が消失したものなど時代を感じさせられるものばかりだつた。

九月二十三日(水)その二 根津音頭
次に、根津権現のお祭りを見に行つた。権現様の境内は露店が多数出て賑はつた。不忍通りで根津音頭の行列に遭遇した。根津・弥生音頭会と書かれてゐる。根津音頭を根津弥生音頭に変へたのか行列の前から二番目の人(今考へると行列の責任者。もしかして会長。先頭の人は看板を持ち、三番目以降の皆さんは踊りで忙しさうだつたので)に尋ねたところ、会の名が根津弥生音頭会で曲自体は根津音頭ださうだ。人口減少で弥生を含めるようになつたのではと、そのときは考へた。
千駄木の方角に向かふ行列は千駄木との境で折り返して反対車線を再び上野の方角に戻つて行つた。列の最後尾に音楽をスピーカーで流すトラックが列に合はせてゆつくり走行する。日本太鼓と演者も載つてゐる。かつてはリヤカーのようなものにスピーカーを載せて、私の記憶ではオートバイでけん引した。私の家の近くの路地(芋甚の横の通り)を入つたところに止めてあつたのを小学生のころ何回も見た。
根津音頭は良い心地の曲である。旋律も伴奏もよい。家に帰つてからYouTubeで何回も聴いた。唄は女流演歌歌手の桜木里佳である。持ち歌はじょっぱり三味線、人生街道、薔薇と恋と女など、演歌が幾つもある。私には根津音頭が一番いいように感じる。幼児の頃から毎年聴いてきたせいかも知れない。根津音頭の作詞はサトウハチローである。昔の歌は音頭も演歌も歌詞がよかつた。昭和四十年代後半から歌詞の質が極端に悪くなつた。だから今では意味のない擬音の繰り返しが多くなつた。これは作詞家の質が低下したためだらう。昔の作詞家は流行歌のほかに音楽の教科書に載る作詞も多数行つた。

九月二十四日(木) 夢淡き東京
サトウハチローの数ある作詞の中で一番好きなのは「夢淡き東京」だ。曲の旋律と間奏、藤山一郎の歌唱が最高である。そして歌詞も最高で、その理由は短調から長調になるところで歌詞も長調になる。一番の「かすむは 春の青空か あの屋根は」、二番の「なつかし岸に 聞こえ来るあの音は」、三番の「夕日に 染めた顔」、四番の「小雨が道にそぼ降れば あの灯り」が特に好きだが、もちろん長調の部分全体が好きで、更には短調の部分も「柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日」などすべてがよい。三十年くらい前に弥生町のサトウハチロー記念館に行つたことがある。いろいろな曲が録音で演奏されたが「夢淡き東京」はなかつた。「貧しき人は唄い」の部分が今では負の印象を与へたのか。そのときさう思つた。そのサトウハチロー記念館も移転し、かつての丸窓の自宅も取り壊されてしまつた。小学生のときだらうか、母といつしよにサトウハチロー宅の前を通つたとき、ここがサトウハチローの自宅だと云はれ、船の丸窓のような窓の家を珍しさうに眺めたことを今でも覚えてゐる。
当時、サトウハチローとは私に取りテレビ番組「アイデア買います」の審判員だつた。日曜の夕方に観た。インターネットで調べると昭和40年から45年まで東京12チャンネルで放送され、最初は土曜日19時30分。その後日曜日19時、16時15分、11時30分、10時と放送時間が変更になつた。といふことは私の観たのは16時15分で、昭和42年の半年間だつた。

九月二十五日(金) 根津西須賀町と駒込東片町の怪
藍染大通りに行くと、ちょうど藍染町の神輿が到着するところだつた。弥生一丁目といふたすきを付けた人もゐる。藍染町だけだと人数が少ないので弥生一丁目と合同のようだ。かつて根津西須賀町があつた。住居表示実施で弥生になつた。根津権現の氏子範囲に東大農学部前自治会といふ軽薄な自治会名がある(氏子町内会一覧)からこれだらうとこの時点では思つてゐた。だから弥生一丁目はこことは別でサトウハチローの家の辺りだと思つた。
帰りは権現前の坂を上がつた。坂の上に山車があり、西須賀町、弥生壹丁目と書かれてゐた。なるほど弥生一丁目は西須賀町なのだと初めて判つた。サトウハチローの辺りは向ヶ丘弥生町である。
このあと少し遠回りになるが中山道を歩いた。中山道の西側は駒込西片町で白山神社の管内、東側は駒込東片町で根津権現の管内である。ところが住居表示で駒込西片町は西片、駒込東片町は向ヶ丘に変つた。

九月二十七(日) 片新睦
中山道を下ると片新睦(写真へ)といふ旗が道路の両側に並ぶ。「新」は丸山新町のことであらう。丸山にはもう一つ丸山福山町があり、こちらは樋口一葉終焉の地である。中山道の右側に神酒所があるので町内会かと思つて説明を聞いたところ片新睦だつた。二つの神社を祭る神酒所は珍しい。

九月三十日(水) 根津弥生七ヶ町町会連合会
インターネットで根津弥生七ヶ町町会連合会といふパンフレットを見つけた。これによると、昭和二十九年に結成され
根津はもともと、宮永町・八重垣町・藍染町・片町・須賀町・西須賀町・清水町で根津七ケ町と称しました。現在では、宮永町・八重垣町・藍染町・片町の4町会と須賀町・清水町を併せ、根津神社の宮元であることから命名された宮本町会と、向ケ岡弥生町の一部と西須賀町による弥生一丁目町会と、向ケ岡弥生町会を含め「根津・弥生七ケ町連合会」となり、7つの町会が連携し、地域の様々な課題や地域活性化の一助を果たしております。

とある。次に宮本町会を見ると
明治期になり町名制定された根津須賀町、根津西須賀町、根津清水町の3町が時代の変遷と共に順次町会組織されたが、昭和12年地域整備により3町会を統合し、その名称を由緒ある根津神社の宮元であるということから、「根津宮本町会」とした。昭和20年終戦と共に、町会組織は解散させられたが、町内相互の連絡等、親睦機関として親和会を結成運営した。昭和30年4月会員の強い要望があり、親和会を発展的に解消し新生根津宮本町会として(中略)創立された

弥生一丁目町会は
昭和初期には西須賀町と向ヶ岡弥生町とで形成され西須賀弥生会と称されていた時期もあったが、昭和40年の住居表示改称により西須賀町と東京大学農学部全域(旧制第一高等学校)を含み弥生一丁目町会と改称されました。

十月一日(木) 向丘地区町会連合会
向丘地区町会連合会のパンフレットも見つけた。昭和58年10月に発足、同日、文京区町会連合会に加入し、今日に至っている。

向ヶ丘地区のことはよく判らないので詳細に読んだところ、森川町は
戦後、町会組織は解体となり、文化活動をする自治組織のみが認められた一時代があったが、昭和27年に講和条約が発効した後、森川町会と旧名称を復活させて新たに発足した。(中略)町会の行事としては、会員新年会、夏祭り(子供会・盆踊り大会)を開催し、秋祭り(向丘地区町会連合会運動会、根津権現の御祭礼)に参加。

向ヶ丘追分町会は
本郷通りを挟む向丘一丁目と二丁目の地域は、戦災から免れ、谷中・根津に次ぐ下町風情の残る町として栄えてきたが、昭和末期から平成初頭のバブル景気時には、地上げが起こり、町内に空き地・空き家が増え、防火・防犯対策が懸案となった。(中略)近隣同士のふれあいの場を作るため(中略)、根津神社祭礼、歳末夜警、米作り体験(商栄会との協力)などを実施して努めてきた。(中略)平成23年、57年ぶりに、戦後間もなく作られた大人神輿に、総修理を施した。解体された神輿の屋根裏から、神輿作成時の趣意書と連綿と綴られた御寄附者名簿(246名)が発見された。当時の方々の、町を盛り上げようとする篤い気持ちが感じられた。今般の神輿修理にかかる費用の捻出は大きな課題であったが、町会員・有志の方々のご協力により、予想を上回る御寄附金が寄せられた。


向丘追分東部町会は
南端は朱殿門のある西教寺、続いて文豪森鴎外の小説「青年」に書かれている願行寺の石塀が並んでいる。(中略)さらにその先は、日医大の奥に夏目漱石の邸宅があったことから、この辺の商店街を「ぼっちゃん商店街」と云っている。


肴町町会は
肴町は、かつては戸数も100戸余りの小さな町でしたが、(中略)槇町商店街(現在の白山上向丘商店街)として本郷地区随一の商店街となりました(中略)根津神社の祭礼を2年に1回、祭りのない年は日帰りバス旅行を実施しています。


根津権現の祭りは一年ごとに表と裏があり、表のときは連合渡御が行はれる。しかし表のときしか祭りをやらない町会があるのを初めて知つた。
白山上自治会は
根津神社の大祭に際し神酒所を設置、町会員からの奉賛金で盛大に祭礼を行い、これもまた町内だけでなく7町会連合で、お練りを行っている。

東大農学部前は、
昭和26年発足の「東大農学部前通り商睦会」の中で若手と言われるメ ンバーが中心となり、昭和41年6月「東大農学部前自治会」として発足しました。 今では当会の歴史を語る人が少ないのが現状です。現執行部が先代より引き継いだ物の中 で一番の財産が「神輿」「子供山車」です。 現在も大切に維持管理され、2年に一度の根津神社大祭の時期には町内を練り歩く姿を見る事ができます。平成18年には、根津神社御遷座300年を迎え、これを記念 して江戸天下祭りの再現を期し、国宝級の神社神輿3基を氏子が古式ゆかしい衣類を着用し、こぞって大々的に練り歩きました。当会も新築する神輿蔵の費用を準備し、会員多数が協力して大成功を収め ることができました。

それまでの駒込東片町が町名変更で町会名を変へたと思ふのだが、商店会名をもとに昭和41年に発足といふことになつてゐる。

十月三日(土) 駒込地区町内連合会
駒込地区町内連合会は昭和36年結成とある。これは判る。駒込は豊島区と文京区の両方の地名だつたからだ。それを昭和40年の住居表示で文京区は本駒込になつた。似た例に大塚がある。これは文京区の地名で豊島区の大塚駅周辺は巣鴨と西巣鴨だつた。ところが大塚駅の近くだからと北大塚、南大塚といふ地名を作り上げた。本物の大塚より北に南大塚があるといふ歴史を無視した地名になつた。本物の大塚は清水谷だとかに改名のはずだつたが住民の反対で大塚を守つた。向ヶ丘弥生町も同じである。東大(農学部と浅野)用地以外は根津になるはずだつたがサトウハチローが反対したため、逆に根津西須賀町が弥生になつてしまつた。そのような経緯があるから駒込を名乗るのは昭和40年以前である。その連合会の説明に
天祖神社は社伝によれば文冶5年(1189)源頼朝が奥州征伐の途中、このあたりに寄ったところ、松の枝大麻(伊勢神宮の授けるおふだ)がかかっていた。それで頼朝は神明(天照大神)を祀ったといわれています。
例大祭(9月中旬)氏子13町会の連合神輿が本郷通りに並び、一斉に宮入を行う。
 神幸祭(4年に一度)大正11年に製作された本社神輿は、台座三尺八寸の千貫神輿とも言われる大神輿(本所・大倉竹次郎製作)。平成12年には氏子会の熱意によって修復され(本行徳・十六代浅子周慶)、44年ぶりに氏子会を渡御されました。以来4年に一度神幸祭が行われ、本社神輿は氏子13町会の全ての地域で引き継がれながら渡御が行われます。


駒込地区町内連合会は十二の町内会だけだ。しかも浅嘉町会と曙町会は根津権現の氏子である。それなのに氏子十三町会は変である。といふことでまづは 浅嘉町会である。
町が南北に長いこともあって 氏神様が北の天祖神社、南の根津神社に分かれています。お祭が2回あって、子供たち は喜んでますが、大人たちは大変です。

二つの神社に分かれて所属するので、年に二回祭礼があるといふのは初めて知つた。次は曙町会だが祭りの記述がない。ここは町内が広く白山上の交差点から地下鉄千石駅の出口から150m手前までの一区間分ある。浅嘉町会と同じく南北に分かれるのと調べた。駒込天祖神社の氏子町内会一覧を見つけた。それによると曙町はない。といふことで根津権現の氏子地域である。その代はり千駄木東林町会と千駄木西林町会がある。といふことで単に文京区役所の官僚主義と、町内連合会などの老害者による、町内連合会と氏子を間違へたといふことで一件落着した。

駒込天祖神社とは駒込神明宮のことで、旧都電の神明町車庫とその名の元の駒込神明町があつたからこちらのほうが判りやすい。神明宮が天祖神社と改称されたことは初めて知つた。あと一つ、近くに富士神社がある。神明町車庫の次が上富士前、そこで別の路線に乗り換へて一つ目が駒込富士前町だから名前はよく知られてゐる。ところが富士神社は氏子範囲がない。このことも初めて知つた。


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