七百二十二(二)、(日蓮宗側から創価学会を見る)創価学会の大折伏は社会に有益だつた

平成二十七乙未
七月十一日(土) 昭和四十五年
昭和四十五年に創価学会が大折伏を停止したことは、意外と知られてゐない。国立戒壇と創価学会公明党役員兼務禁止、それらの原因になつた言論出版妨害事件に世間の耳目が集中したためであらう。私もたまたま日蓮宗年表を読んでゐて、昭和四十五年に創価学会が大折伏を停止したことを知つた。事情は創価学会自身と日蓮正宗も同じで、第一次宗創紛争のときに日蓮正宗側から最近は折伏をしなくなつたと質問状が出され、創価学会側は聖教新聞に折伏といふ言葉が何回書かれてゐると回答したことがあつた。本来は昭和四十五年以前に戻るべきだと質問すべきで、創価学会側はそれを実施するか或いは不可能だと答へるだらう。
昭和四十五年の創価学会を日蓮宗(創価学会の呼称では邪宗身延派)側はどのように見てゐたのだらうか。まづ昭和四十五年の日蓮宗新聞を読むことにした。実物がなく縮小版なので目が疲れたが、有用な情報を得ることができた。縮小版は昭和四十二年からなので、ここから昭和四十六年までを読んだ。昭和四十二年に日蓮宗の宗務総長は片山日幹師である。北山本門寺の貫首だが身延の出身で、これは昭和十六年に政府の行政指導で日蓮宗、本門宗、顕本法華宗の三派が合同した。その二年後に北山本門寺の貫首が亡くなり、後任になる人がゐなかつた。戦争中だから食べるのが精一杯で当然である。そこで身延系の人に来てもらつた。私はこれまで片山日幹師にあまりよい印象を持つてゐなかつた。それは読経のとき法華経一部、つまり今日は序品と方便品を読んだら翌日はその次といふやり方をしたからである。旧本門宗なら方便品と寿量品を読まなくてはいけない。
しかし今回、日蓮宗新聞を読んで片山日幹師は宗務総長として宗内の護法支部の結成に尽力し大会で講演し、金曜講話でも講演し、その姿は獅子奮闘である。宗務総長といふとどこの宗派でも名誉欲と金銭欲と権力欲の塊のような人間を想像するが、その正反対である。このような宗務総長を生んだのは創価学会の大折伏が社会全体によい影響を及ぼしたと云へる。日蓮宗だけではない。他の宗派も活性化した。社会全体でも病気や貧乏な人たちの受け皿となつた。昭和四十五年までの創価学会の功績たるや偉大なものであつた。

七月十一日(土)その二 日蓮宗新聞を読んで
その一方で、日蓮宗新聞を読んで判つたことがある。創価学会の折伏大行進は日蓮宗の脅威にならなかつた。三派合同のときに日興の墓が廟所に建てられたが、将来日蓮正宗も参拝できるように墓があるといふ記事さへある。まるで慈父が駄目な息子を暖かく見守る態度である。考へてみれば創価学会員は昭和四十五年の最盛期で人口の5%程度。公表は10%でも選挙の得票数でみれば5%である。しかも都市部に多い。都市はもともと人口が増えるし、創価学会は都市部に多かつた。
昭和四十五年藤原弘達の著書を巡つて出版妨害事件が起きると、日蓮宗新聞は藤原弘達やその他の言論人が登場し金曜講話にも登場し、創価学会批判一色になった。そして昭和四十六年片山日幹師は突然辞表を提出し宗務院を去つた。その少し前に身延で尊像を破壊されるといふ事件があり、このときは身延の法主が管長の辞表を提出し慰留されて撤回する事件があつた。そのとき管長より宗務総長が辞表を出すべきだといふ一人の委員の意見が日蓮宗新聞に載つた。このとき宗内の風向きは変つてしまつた。創価学会は折伏を停止した。あとは墓檀家を相手に世襲制の宗門を維持できればよい。身延出身とはいへ旧本門宗で末寺の少ない寺が宗務総長を続けることを既得権派は許さなかつた。

七月十一日(土)その三 日蓮宗と日蓮正宗はどちらが正しいか
創価学会があのとき折伏を続ければ信徒は更に増加した。伸び率がかなり低下したが布教続行は不可能ではない。私は今までさう考へてゐた。しかし日蓮宗新聞は選挙の得票数から既に限界に達したといふ観方をしてゐる。選挙に進出したことで実勢力が判つてしまつた。私は選挙に進出することで幹部に欲が生まれてこれが布教を停滞させたといふ立場だが、会員になるべき階層、性格の人が限界に達したのは事実であらう。
人それぞれ合ふ教義がある。私の場合は戒壇本尊が本物だと言はれればそれを信用する。しかしすべての本尊は戒壇の本尊の写しだといふことになるとこれは絶対に反対である。戒壇の本尊も戒壇といふ一機一縁の本尊である。また日興の血脈が日目、日代、日道、日尊、日郷とそれぞれの派祖に伝はつたといふなら賛成である。しかし日蓮の血脈が日興にだけ伝はつたとなるとこれは反対である。他の五老僧は血脈がないから教義が変はつたと特に大石寺派は主張するが、日興があのとき血脈を日昭に伝へ日昭が日郎に伝へと六人全員に伝へたら皆が正しい教義になつたか。なる訳がない。さうである以上、日蓮の血脈は六老僧や富木日常などあのとき独立したすべての派に伝はつたとすべきだ。伝統の重みは大きい。今分裂しても正しいかどうかは疑問だが日蓮の滅後に分裂した、日興日目の滅後に分裂したとなると七〇〇年間の血脈があると考へるべきだ。
日蓮宗新聞が日蓮正宗と創価学会を批判するのは日蓮本仏論である。これは正解である。ここを突かれると日蓮正宗は信徒数が限界に達する。日蓮本仏は大石寺に十七世日精の時代から仏像が造られたことに二十六世日寛が反発しての論である。そしてその影響で要法寺も仏像撤廃を行ひ寛政法難を引き起こすからその時代はそれなりに受け入れられたのだらう。但し日蓮本仏論といふ言葉は福重照平あたりが言ひ始めたもので、六十五世日淳もはつきり日蓮本仏とは云はなかつた。六十六世日達は福重照平より更にひどく、法主を本仏だといふ人がゐますが、さういふことをいふと外から批判される、といふような説法をした。外から批判されなければ法主を本仏といってよいのか。実際この時代には猊下(貫首の尊称)の書写された本尊は拝むのに猊下のいふことには従はないといふのはおかしい、といふ講話をする僧侶が大勢ゐた。
戒壇本尊が五世日時か九世日有の時代の偽物であることが明らかになつた。当時の貫首が戒壇建立を強く祈念して造られたと云へば何の問題もない。しかし歴代の貫首が日蓮自作だと云つてきた事実は消へない。つまり歴代の貫首の云ふことは正しいとは限らない。そのことを将来に生かせるかどうかが日蓮正宗の課題である。

七月十一日(土)その三 日蓮宗と日蓮正宗が共存するには
昭和四十年代前半の日蓮宗新聞が、戒壇偽作説や血脈偽作説ではなく日蓮本仏論だけを攻撃したことは正解である。これで少なくとも日蓮宗の檀家が創価学会に入ることはなくなつた。或いは創価学会が限界に達した一つの原因にもなつた。ここで重要なことは伝統の重みである。日寛以降の伝統は重視し、釈尊を尊重したい人は身延、釈尊を多宝如来や天台大師、伝教大師と同じ脇侍として崇めたい人は富士とむいろいろな性格の人が信仰できる宗門を作らなくてはいけない。大石寺は自派か邪宗かといふデジタル思考を元に戻すことができるかどうか。もともと大石寺は細草檀林で他派との交流はあつた。本門宗から分離したのも管長輪番制で他の本山の貫首が大石寺で説法するのは嫌だといふ単なる本家意識である。
創価学会の昭和四十五年までの功績は大きいが、それにより大石寺が猊下と戒壇本尊を信じるか信じないかといふデジタル思考になつた。創価学会が抜けたことにより「日寛さん」といふ行事が富士宮市観光協会の案内に載るなど変化も見える。細草檀林の時代に戻ることは容易である。

七月十一日(土)その四 日蓮宗と創価学会が本気で布教をした時代
昭和四十五年まで日蓮宗は本気で布教活動を行つた。創価学会の大折伏への対抗とはいへ、護法運動の支部を全国に作り、宗務総監が支部大会に全国を駆け巡るなぞ既成宗教ではなかなかあり得ない。尊い活動であつた。創価学会が布教を停止すると、片山日幹宗務総監も内局を追はれた。辞任の記事を読んだときは何とも言へない寂しさを感じた。
創価学会は今後どのような活動をすべきだらうか。一つは旧本門宗の八本山の均衡を崩したことを元に戻すことである。西山本門寺は大石寺と教義はかなり近い。しかし日蓮正宗との合同問題で裁判になり、勝訴したものの末寺はばらばらになつてしまつた。寺に寄付することが尊いのではない。貧困の寺に寄付し活動を支へることが尊い。戸田城聖氏ももしご存命なら必要以上にカネを出すと寺を駄目にする、と反対したであらう。
公明党は世襲と墓檀家の既成仏教の活性化に力を入れるべきだ。墓は農地解放みたいに買ひ上げて公有墓地にする。僧侶が熱心であれば檀家は付いてくるしよその公有墓地の檀家も来るだらう。公明党はすべての既成宗教が本気で布教活動をするよう尽力すべきだ。(完)

追記七月十八日(土) 片山日幹師再評価
片山日幹師をインターネットで調べると「冨士教学研究会 管理者の日記」に
血脈相伝を重んずる富士門流の化儀を尊重し、自ら当時の興門派の最長老であった京都本山要法寺に足立日城上人を訪ね、富士門流の相承を受ける。そして正式に日蓮宗の中の興門派大本山北山本門寺の第四十七世の貫首に就任される。/戦後、戸田城聖氏の出獄によって勢いを増す日蓮正宗創価学会は、この北山本門寺にも日替わりで討論にやってきたという。/しかし「折伏教典」を手にした俄か教学の学会員では、身延山信行道場教頭・立正大学教授を歴任した学僧日幹師には手も足も出なかった。(中略)北山本門寺にも寺観一新の懐柔策は歩み寄ってくる。/「貴山は本堂も貧弱であり、開山堂、庫裏も非常に荒廃して居り、境内も古と異なり狭隘のようであるから、大石寺に対し甚だ気の毒に堪えないから、自分が附近の土地を買い受けて境内も拡張し、諸堂も改築して面目を一新して上げたい。」(片山日幹著「愚直道人懐古録」)/後の創価学会初代顧問の一人で、塚本総業社長であった塚本素山氏であった。/しかし創価学会の謀略を見破り、申し出を拒絶。自らの布教で寺観一新を推進される。

明治の初期に北山本門寺で火災があつたときに、大石寺はお見舞ひとして米を俵で送つた。決して敵対する関係ではなかつた。大石寺が本門宗を離脱したのは管長輪番制で文部省の指示で他山貫首が大石寺でも説法することに反発してのことだつた。単なる本家意識である。大石寺の戒壇本尊(既に後世の作であることは河辺メモで日蓮系全体に知れ渡つてしまつた)絶対説と法主絶対説(日達の死で血脈は途切れてしまつたし、そもそも宗祖滅後に各門派が分流したことと日興門下でも大石寺では日道と日郷が後継争ひをしたり北山本門寺で日代が追放され西山本門寺を建立したことから師匠から受け継いだ教義が血脈であり歴代の貫首が血脈ではないことと、歴代貫首が戒壇本尊の後世作を引き継がなかつたことから貫首のいふことが正しいといふ説は誤りだつた)によるデジタル思考で大石寺とその末寺以外はすべて邪宗で堕地獄だといふ思想は、創価学会の出現で慢心した僧俗による近年の一時的事象であつた。
日幹師が亡くなつたとき管長の弔辞が、管長としてではなく立正大学元教授で祖山学院教頭の教へ子として述べたいといはれたことに救はれる思ひであつた。一方で宗務総長のときに僧侶任命書の交付を身延山で受けない者は宗務院の規則を厳格に適用して僧侶と認めないとするなど、批判すべき点もあつたと思ふ。旧本門宗の寺院のなかには檀徒が身延に参拝することを好ましくないと考へる人も平成の始め辺りまではゐたし、今でも旧本門宗の寺院以外は行事に参加しないといふ人もゐるからで、これはその門流の伝統として尊重すべきである。


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