七百二十二(三)、日蓮宗と創価学会はどちらが正しいか

平成二十七乙未
七月三十一日(金) 両方間違つてゐるが、しかし
日蓮宗と創価学会(日蓮正宗から別れる前。その日蓮正宗を含む)はどちらが正しいかと訊かれれば、両方とも間違つてゐるところがあると答へるしかない。日蓮宗は宗内に佐渡以前の教義を信じる寺が多い。そのことは何の問題もない。問題なのは佐渡以前を信じることを公表しないことだ。これで一つの立派な教義となる。
創価学会は自称日蓮直作の戒壇の本尊が絶対でその他の本尊は感得願ひを出して戒壇の本尊と結びつけないと御利益がなく、血脈を受け継いだ歴代の猊下のご指南にも従はないと御利益がないといふ極めて硬直した教義を二十数年前まで信じてきた。戒壇の本尊とはいへ一機一縁の本尊である。日蓮滅後に各門流が分流し、日興門流も後に八本山に分裂したから特定の寺の貫首のいふことが絶対といふことはない。この二つが間違ひである。戒壇の本尊が後世の作であることが判つてしまひ、血脈も細井日達の死で切れてしまつたがそれは後の話である。
ここで創価学会に日蓮正宗を含めたのは、創価学会への友情表現である。本来は日蓮正宗の信徒団体が創価学会だが、創価学会がなければ日蓮正宗は世間から無視されるだけの弱小集団に過ぎなかつた。

八月一日(土) 曼荼羅を信じる
今回の一連の日蓮特集は宮沢賢治を調べるところから始まつた。その流れで日蓮宗金曜講話のビデオを観たり日蓮宗新聞を六年分読んだりとかなり集中して調べた。その間に日蓮宗の問題点が何点か目に付き私の日蓮宗への熱意はかなり冷めたものになつた。その一つは平成二十三年の日蓮宗新聞に住職の子に娘しかいない寺と、住職の子で次男以降の人を結婚させることを宗務院が始めた。そんな世襲を奨励することをしては駄目である。形式ではあつても子は父親の弟子だから次の住職になる。娘と結婚させても婿は弟子ではない。そんな世俗的なことを宗務院がしては駄目である。それより日蓮宗新聞の読者はほとんどが信徒である。やるのなら日蓮宗の信徒どうしの結婚相談所を宗務院が各地で行ふべきだ。そのような事情はあるが、それだからと無責任に佐前を公表しろと云つたのではない。
宮沢賢治の信仰は法華経信仰で、これは佐前である。しかし日蓮に背いた信仰はしてゐない。それが国柱会から授与された佐渡始顕本尊を最後まで拝んだことであり、「雨ニモマケズ」手帳に略式曼荼羅を書き写したことである。
今の日蓮宗は戦時中に三派合同したもので、一致派と勝劣派の混成である。これは日蓮宗の中の一致派に当てはまることだが、日蓮の佐前のみを信じることも立派である。しかし佐後をすべて捨てればあまりに大きい。だから曼荼羅を信じればよい。日蓮宗の寺院には曼荼羅が幾つかあるはずである。ない場合も本山や大本山には日蓮直筆や歴代の曼荼羅が必ずある。教義は佐前を信じる。しかし曼荼羅は信じる。これでよいのではないか。

八月一日(土)その二 無駄な議論
釈尊が入滅の後は、原始仏教、部派仏教、大乗仏教の誕生と続く。このうち部派仏教に分かれたのは無駄な議論が原因といふほかない。釈尊の決めた戒律を守り修行をする。それ以外各派に分裂してまで何か議論する必要があるだらうか。根本分裂は例外である。戒律の解釈を曖昧にすると堕落の原因になる。だから大衆部は滅んでしまつた。かつて大衆部から大乗仏教が発生したと考へられたが、今では否定された。
同じことが日蓮門下にも云へる。無駄な議論をしなければ日蓮門下の各宗派に争点はなくなる。日蓮御在世の弟子や信徒には、今までの仏像と異なり曼荼羅を拝むようになつたからその理由を説明しなくてはならない。それが佐渡期に書かれた御書である。だから曼荼羅を拝むことに疑問な人は佐渡期の御書を読むべきだが、それ以外の人は法華経と曼荼羅を信じるのがよい。その模範が宮沢賢治である。

八月一日(土)その三 戸田氏のもう一つの過ち
創価学会が戸田城聖氏の時代に会員が激増したのは知人への布教といふ禁じ手を使つたためである。本来は田中智学のように上野公園での布教のようにするべきだつた。後者は思つたほど信徒が増えない。しかし社会への影響は大きく有名人にも信者、支持者を広げることができる。
戸田氏を調べてゐてもう一つ禁じ手を使つたことを発見した。病気や貧乏などの人が折伏をすれば功徳(御利益)があると講演した。本来は信仰して御利益があつたから他人にも勧める。これが普通である。ところが戸田氏は折伏をすれば御利益があるとした。これは不確定なことをまづやらせる方法だから禁じ手である。

八月一日(土)その四 悪魔憑きの原因
小田氏の講演が気になつたので池田氏の講演を聴いて悪魔憑きの原因が判つた。他宗攻撃を始めたことである。戸田氏の時代は入信させることが目的で、相手が別の宗教を信じる場合はその宗派を批判することはあつてもそれが目的ではなかつた。池田氏は他宗教批判が主目的になつた。だから長年他宗教を信じた人の中には、あんたは今まで毒を飲んできたのだよ、と云はれたのと同じで悪魔憑きになる人が多発した。
創価学会と日蓮正宗は昭和三十九年辺りから世界布教と称して教義を変へて行つた。そして入会者の数は頭打ちになり、公明政治連盟の結成で活力が集票運動に削がれ、民音や文化祭など別の活動にも活力を削がれた。これが悪魔憑きを激減させた。

八月二日(日) 双方にある不合理なところ
日蓮宗で不合理な点は、(1)本尊造乱、(2)身延は一本山に過ぎなかつたのに徳川幕府に取り入つて池上、中山などを配下に収め総本山の地位に付いた、(3)幕府の不受不施派弾圧に便乗して不受不施派を追放した、などがある。
創価学会の不合理な点は(1)戒壇の本尊、(2)血脈、(3)日寛の教学、(4)お肉芽、などがある。お肉芽とは戸田城聖の講演によると日蓮があるとき歯が一本抜けて弟子が受け取つた、少し肉が付いてゐてだんだん広がり広宣流布の暁には歯全体を覆ふ、明治維新の後に西郷従道が取り締まりに来てお肉芽を見て高熱を出した、そんな内容の講演である。今なら噴飯ものである。尤も今でもお肉芽を隠さず代替り法要のときは信徒に拝観が許される。日寛の教学も不合理な一つである。あれは造像が大石寺に広まつたためその対抗として出たもので、造像がなくなつた後は大々的に宣伝してよいものではない。
このように双方とも相手を攻撃しようとすれば弱点は幾らでもある。しかし無駄な議論として棚上げすべきだ。日蓮の在世当時は方便品と寿量品を読み題目を唱へた。佐渡以降は曼荼羅を本尊とした。これで良いではないか。

八月四日(火) 私の立場
私の立場は、すべての宗教は瞑想の一つの方法といふものである。上座部仏教の瞑想もあれば、大乗仏教のように阿弥陀仏を念じる瞑想、法華経を信じる瞑想、密教の瞑想、キリスト教やイスラム教のように神に祈る瞑想もある。その立場からすると日蓮宗と創価学会に違ひはほとんどない。しかし宗風には大きな違ひがある。
日蓮宗は宗内で自由に論文を発表することができる。創価学会の信徒部分は「池田先生の弟子」と云ひ続けなければならないし、僧侶部分は「猊下のご指南に」と繰り返さなければならない。こんな窮屈な宗派は珍しい。日蓮宗は自由に発表できるものの最近、三大秘法抄や御義口伝は偽書などと反創価学会の揺り戻しがある。もちろん宗内で何を発表してもよいのだが、まづ結論があつてあとから無理やり偽書だと理由づけてはいけない。日蓮滅後に門下がこれらをどう扱つたかで判断すべきだ。私はすべての宗教は瞑想の方法といふ立場だから真書でも偽書でも構はないが、釈尊が入滅してから二千六百年、日蓮が入滅して七百数十年。その歴史のなかで議論を深めるべきだ。だから日蓮入滅直後の迹門、本門の一致勝劣論争はもつと研究の余地がある。
田中智学は新しい宗風の団体を作つたことになり、歴史をはみ出したことになる。しかし僧侶妻帯などそれまでの宗風を乱し歴史をはみ出したのは既成宗教の側だつた。だから田中智学も歴史の範疇であり、多くの有名人が国柱会に入会し或いは支持したといふ歴史の重みも大きい。(完)


(二)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ