六百九十七、期待外れだつた上田紀行氏の本

平成二十七乙未
五月二日(土) 1「生きる意味」、2「がんばれ仏教」
先週上田紀行氏の講演を聴いて完全に期待外れだつた。得るものが何もない。しかし念のため上田氏の本を五冊借りた。これがまた期待外れだつた。まづは「生きる意味」といふ岩波新書である。読まうと思つても斜め読みからページめくりになつてしまふ。それほど内容がなかつた。
二冊目は「がんばれ仏教」といふNHKブックスの一冊である。「はじめに」が終つて本文に入つたのに中身が無い。50ページを過ぎたところで第一章が始まるから今までは序章だつたのだと判る。上田氏は有名人を羅列すればよいと思つてゐる節がある。自分もその仲間に入れたと思つてしまふのかも知れない。
第一章は「生きているスリランカの仏教」だがこれが更によくない。今までは内容が無くて良くなかつたが、ここからは内容が間違つてゐて良くない。根本分裂についてブッダの死後
戒律はその数を増加させ、男性修行者(比丘)では二五〇、女性修行者(比丘尼)では三四八にもなった。それはあまりに煩瑣(はんさ)な規則で、その規則主義への不満が大きくなっていった。(中略)ブッダの入滅後一〇〇年ほどで、その対立は不可避のものとなり、七〇〇人もの修行者が集まって集会が開かれる。そこでの結論は「金銀銭の布施は許されない」という長老たちの意見であったが、それに不満な多数派の修行者たちは、総決起して独立した教団を作ることとなる。

これは完全に間違つてゐる。まづブッダの決めた二五〇戒、三四八戒に誰も不満はなかつた。しかし解釈を巡り長い間に地域差を生じた。それを統一しようとしたから分裂した。決して不満を持つた訳ではない。
当初の仏教とは(中略)目指すべきは目標はブッダではなく、阿羅漢なのである。ところが大乗仏教はブッダその人を偉大な存在と捉え、(中略)修行は阿羅漢になるためではなく、ブッダになるためなのだ。

まづ大乗仏教だつてブッダになることは目指さない。ブッダと同じ仏界を目指すことはある。仏界と阿羅漢に何か違ひはあるか。
次に上田氏はサルボダヤ運動の話題に移る。ここから先、紀行文のような記述になる。上田氏の本を読みたくなくなる理由は、根本の部分を論ぜず遭遇したことを並び立てることにある。第二章から先は日本の僧侶の話に戻る。上座部仏教僧に会つた話もある。カンボジア人僧でインド留学中に政変があつて戻れなくなつた。その僧は国境で同胞の救援活動を行ひ、資金を集めたり病人の女性を病院に運んだこともある。これらは戒律に違反するが
彼は「大丈夫。ブッダは目をつぶってくれるよ」と言いつつ、奮闘する。/自身の解脱のみを求めるのではなく、社会的な活動も行う「破戒僧」は、現在では「開発僧」と呼ばれ、上座部仏教でもその存在を認められるようになってきたし、人々の間での尊敬も勝ち得ている。

戒律には破つたら追放になるものから懺悔すれば許されるものなど段階がある。この僧は追放になるような戒律破りはしないから懺悔をして許されるのは当然である。しかし政変で外国に滞在すると本来の僧団が機能しなくなることもある。この僧は師匠や先輩僧から還俗を勧められてさうしたほうがよいのかも知れないし、実務は在家に任せる方法もあるのではないか。少なくともこの僧が開発僧と呼ばれ尊敬を勝ち得てゐるかは不明である。上田氏はさういふところをきちんと調査すべきではないのか。最後まで斜め読みならぬページ読みをしたが、日本の仏教界に役立たない話だけの羅列だつた。役立つこととは普通の僧侶が実践できる改革のことである。

五月三日(日) 3「悪魔祓い」
日本の研究者がアジア各国を訪問し蔑んだまなざしで調査をした。そのような書籍をこれまで何冊も読んでその度に嫌な気分になる。上田氏の「悪魔祓い」も例外ではない。ダルマパーラの言葉を引用し
「ヨーロッパは進歩的だ。(中略)衛生、美的な芸術、電気等々がヨーロッパやアメリカを偉大にしたのである。アジアは阿片吸引者、大麻喫煙者、堕落した官能主義者、迷信的宗教の熱狂者に満ち溢れている。神々や装飾者たちが人々を無知にとどめているのだ。」

これはダルマパーラの言葉であつて上田氏ではない。しかし無批判に引用したことは同意したといふことだ。私はダルマパーラの主張に反対である。長年の堕落には反対だし国民に有害な慣習にも反対だが長い伝統の中から有意義な部分を見出すべきだ。上田氏がスリランカの仏教を表面的にしか見ないことは次の文章で判る。
仏教の中心が寺の中から都市の在家へと移り、(中略)ダルマパーラの唱道した科学的近代仏教は勝利したのである。/かくして悪魔祓いは迷信の烙印を押され、仏教の教えからは排除されることになった。もっとも、それはあくまで都市での話だ。(中略)村の悪魔は死に絶えなかったのだ。だから厳密に言うとスリランカには二種類の仏教が存在している。都市のエリートたちの近代仏教と村人たちの民俗仏教のふたつである。

スリランカには二種類の仏教が存在する。伝統仏教と在家新仏教運動である。伝統仏教の在家信者の中には呪術などを共存して信じる人もゐる。これが正しいのに上田氏はスリランカの大多数を占める伝統仏教を無視し、例外の在家新仏教運動と呪術だけを取り上げた。
この本に有意義なことが一つだけ書かれてゐた。近年は悪魔祓ひが減つてしまつたが、それは費用が掛かるためで
最低でも三千ルピーくらい、多いときは一万ルピー以上、(中略)大学の講師の給料の一ヵ月から五ヵ月分となれば、日本の物価に換算すると二十万から百万円くらいだ。(中略)けれど、呪術師が貪っているのかといえばそうではないのだ。(中略)多くは良心的な値段でやってくれる。問題は儀礼の場の設営や村人のもてなしにかかる費用だ。/村人を百人以上ももてなすとすれば、もうこれは結婚式のノリである。それでも貨幣経済が村にまで浸透してくる前は、物資の調達はそんなに困難なことではなかった。ところが、いまはすべてものを金で買う時代、(以下略)(完)


大乗仏教(禅、浄土、真言)その七
大乗仏教(禅、浄土、真言)その九

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