六百九十三、松本健一氏「竹内好『日本のアジア主義』精読」

平成二十七乙未
四月二十五日(土) 四十年間の状況の変化
松本健一氏の著書、竹内好「日本のアジア主義」精読は第一章が竹内好氏の著作、第二章が松本健一氏の考察である。竹内好氏に限らず戦後に発言する内容は自身が戦前に発言したものを弁解する傾向になつてしまふ。松本氏は昭和二十一年の生まれだからその傾向はない。そんなところも見て行きたい。松本氏は
一九六三年に書かれたこの論文を四十年ちかくたった現在評価する難しさは(中略)アジアの具体的なイメージは経済的な「豊かさ」であり、政治的な「民主化」の過程にあり(以下略)

民主化は経済の余裕がなければできない。日本が昭和の初めに軍部主導になつたのは世界大恐慌が原因である。ドイツやイタリアにファシズムが生まれたのも世界大恐慌が原因である。民主化は貧富の格差が小さいときしか機能しない。自分の利益しか考へないためである。その一方で豊かさは地球破壊と引き換へである。アジアは西洋に地球資源消費を停止させるべきだ。
竹内好は「近代の超克」(一九五九年)という論文のなかで、「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった。この二つの側面は、事実上一体化されていたが、論理上は区別されなければならない。日本はアメリカやイギリスを侵略しようと意図したのではなかった。オランダから植民地を奪ったが、オランダ本国を奪おうとしたのではなかった」(中略)もし日本帝国主義を裁くことができるとするなら、それは帝国主義によって侵略されたアジアの側からだろう。

竹内氏の主張と、それを引用する松本氏の主張の双方に賛成である。ところが日本では村山富市あたりから奇妙なものにすり替へられた。米英仏は世界中を植民地にしても正しく、日独伊は間違つてゐるといふ奇妙な論理である。

四月二十六日(日) 中野正剛
中野正剛が日本帝国主義それじたいを代弁するようになったのは、昭和に入ってからのことである。かれが大正時代に書いた『亡国の山河』(一九一五年)や、孫文の「大アジア主義」という講演に対しておこなった批評(一九二五年)などにおけるアジア主義の主張は、むしろ日本帝国主義批判の色彩をつよくもっていた。

戦争は異常事態である。だから開戦前後の言動を以て思想が変つたといふのは適切ではない。世界大恐慌も異常事態である。西洋列強が世界中を植民地にしたのも異常事態である。
では中野正剛、竹内好などの異常事態での発言を除くと何が残るか。そこには純正なアジア主義である。日本を特別扱ひすることなくアジア全体の反西洋文明運動である。かつては西洋列強に反対するアジア主義であつたが、今は地球破壊を進める西洋文明に反対するアジア主義に進化すべきだ。

四月二十九日(水) 二十一カ条
中国人の対日感情が悪化したのは二十一ヵ条である。
北一輝などは、大隈重信(=内閣)の「対支二十一ヵ条の要求」に象徴される侵略政策を、
太陽に向って矢を番(つが)う者は日本其者(そのもの)と雖(いえど)も天の許さざるところなり。
と徹底的に批判したのである。


これは同感である。孫文は急逝する四ヶ月前に神戸で演説した。その内容は新聞などで報道されたが最後の数行が削除された。その部分は
あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城(かんじょう)となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。

ここで注目すべきは「西洋の覇道の番犬」といふ言葉である。村山富市が社会党を解体して以降、西洋列強は正しくて日本は悪いといふ奇妙な説が出てきた。暴力団の事務所を例にすると判りやすい。対立組織からの攻撃を防ぐため番犬を飼ふようになつた。暴力団と番犬とどちらが悪質かと言へば暴力団である。西洋の覇道と番犬の関係も同じである。
孫文は講演の三日前頭山満に対し二十一ヵ条の撤廃を申し入れた。遠山は国民感情として、いまの段階では認められないと述べた。これについて松本氏は孫文の講演の後に頭山の行つた発言を紹介してゐる。
「南州先生が生きて居られたならば、日支の提携なんぞはもんだいぢゃない。実にアジアの基礎はびくともしないものとなっていたに相違ないと思うと、イギリスあたりの番犬となって、鼻うごめかしてお椀の飯を食っているさまが、情けなくて溜まらぬ」
ここに・・・・・頭山が日本のことを「イギリスあたりの番犬」と批判しているのは、明らかに孫文の講演にあった「西洋の番犬」をふまえた言葉なのである。


四月二十九日(水)その二 アジアの独立は終戦より後だつた
インドがイギリス国旗を引きおろし、独立を宣言したのは、日本が戦争に負けた一九四五年ではない。その二年後の一九四七年八月十五日のことである(カッコ内略)。また、インドネシアが独立を宣言したのは(中略)一九四五年のことであるが、インドネシアを植民地にしていたオランダがその主権を手放したのは、四年後の一九四九である。それにまた、ベトナムを植民地にしていたフランスがジュネーブ協定によってベトナムから撤退したのは、九年後の一九五四年のことである。

世界中の人々が一番気にしなくてはいけないのは最も近い戦争である。だとすればベトナム戦争(フランス撤退後のアメリカによる戦争)だし、その前のフランスとベトミンとの戦ひだし、インドにおけるイギリス官憲による弾圧とガンジーの非暴力の抵抗である。以上の中で私はガンジーの非暴力が一番良いと確信する。しかし非暴力の抵抗といふのは貧乏を覚悟しなくてはいけない。なぜガンジーが裸で糸車を回したのか理解できない人が多い。旧社会党のゴミ溜め議員どもは議員で贅沢したくてしようがなく貧乏は絶対に嫌だといふ連中である。かう言ふ輩に限つて平和だの非暴力だの自由だのを叫ぶ。拝米新自由主義社会破壊反日新聞と瓜二つである。

四月三十日(木) 大東亜戦争(=侵略)は福沢諭吉の脱亜論の行く末
松本氏は福沢諭吉の脱亜論を引用する。
されば今日の謀(はかりごと)をなすに、わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興すの猶予あるべからず、むしろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、・・・・・正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ

そして次の結論に至る。
大東亜戦争(=侵略)はアジア主義が用意したのではなく、むしろ福沢の脱亜論のほうが用意したものだ、という竹内好の逆説が成立するのである。

五月一日(金) 一九六四年社会転換説
「東京へゆくな」という詩を書いていた谷川雁が、その一切の活動−−詩作および革命運動−−をやめ、いわば何もしないために東京へ出てきたのは、一九六五年(昭和四十年)のことだった。(中略)それが、一九六四年の東京オリンピックの翌年だったことは、わたしの「一九六四年社会転換説」に大きな論拠を与えてくれるだろう。

ここまで同感である。そして昭和五十年前から貿易黒字が問題になり、プラザ合意で日本の現業は崩壊した。松本氏は次に「『城下の人』覚え書」を引用する。
西南戦争は決して簡単に権力=進歩対反権力=保守の闘争ではない。その渦のなかになお文明の進歩に関する根本的な課題を埋蔵しているのである。

これも同感であるとともに、奥の深い問題である。次に松本氏は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響で、それまでの国民的英雄が西郷隆盛から坂本龍馬に転じたとして
現代の日本人が西郷隆盛に理想像を求めなくなったということは、西洋の「文明」を超えるアジア的な革命に心惹かれなくなった、ということなのかもしれない。(中略)一九六四年は、その転換期に位置していた。それは日本社会が、いわばアジアから西欧へと大きく移行していった時期だった。

その結果として
「東洋の入口で」とか、「日本の民衆の夢とは何か。それはアジアの諸民族とおなじく法三章の自治、平和な桃源郷、安息の浄土であります」といったような表現が意味不明になり(以下略)

あるいは
アジア対西欧、中央対痴呆、ムラ対都市、演歌対ポピュラー音楽、純文学対大衆文学、右翼対左翼、知識人対大衆・・・・・などが意味を喪失しはじめた。

しかし地球温暖化で、もはや西洋文明は永続不可能なことが判つた。そればかりか西洋の猿真似をして経済が発展しても国民は生活の豊かさを得られなかつた。今こそ昭和三十九年の時点まで社会を戻す必要がある。戻すのは社会である。経済ではない。(完)


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