六百七十六、「左翼、民族派」対「左翼崩れ、右翼崩れ」(労働組合脱退記)

平成二十七乙未
三月十七日(火) 二月末で労組を退会
二月末で労働組合を退会した。そこには或る人との人間関係の軋轢があり、これで四年前に組合が分裂してから今日に至るまでの書記長、書記次長、会計の五人全員が退会または実質退会したことになる。しかし人間関係を言つても世の中の役に立たない。だから路線問題に絞り述べることにしませう。私のホームページは世間でいふ右も左も主張するから、私が左になり過ぎて退会した、或いは右になり過ぎて退会したと憶測が一人歩きするといけないためでもある。
本来「左翼、右翼」対「左翼崩れ、右翼崩れ」とすべきところを「左翼、民族派」対「左翼崩れ、右翼崩れ」としたのは、労働組合の世界では総評が解体するときに右翼労組再編反対といふ言葉があつたように、労働貴族既得権主義の労働運動を右翼と呼ぶ。その混同を避けるためだが、「崩れ」の方は右翼と云ふ言葉を用ゐた。その理由は民族派崩れであると同時に右翼労組再編崩れでもある。

三月十八日(水) 異変は昨年五月
私の所属する労組は左翼から民族派まで共存することに特長があつた。かつて組合の定期大会で「民族派も一人はゐたほうがよいので」と挨拶する名物執行委員もゐた。異変が起きたのは昨年五月である。委員長(現常任顧問)が突然「私は左翼は嫌いです」と発言した。しかしこの時点ではまだ酌量の余地があつた。その二年前の定期大会の後の交流会で他の労組の人たちが新左翼の勢力争ひの話をしてゐた。たまたま委員長はその向かひの席にゐたのだが「ああいふ話は嫌なので」と私の隣の席に移つてきたことがある。そのことがあるからだつた。
六月の会議は委員長が日にちを間違へたため、残りの人たちで雑談に終つた。そのとき或る副委員長が、新しく作る組合旗の色は赤や黒にするな、変な思想だと思はれるからと発言したのでこれは大変なことになつた、先月の発言もそれが原因だと判つた。組合旗はかつて総評、同盟、中立労連、新産別を問はず赤だつた。富士通労組の場合、昭和六十五年あたりにだいだい色の組合旗が始めて登場した。私は今後変な色が増へると予想した。やはり予想は当つた。その後、大手はほとんど組合旗が黄色や水色やその他変な色に変つた。しかし我々の仲間の労組は中小だからほとんどは今でも赤である。だから赤は変な思想だといふ発言には絶対に反対である。
この時から「反原発はやるな」「小出ゆうしょう(裕章)は結論が先にあるから科学ではなくイデオロギーだ」といふ発言や怒鳴り合ひが七、八、九、十、十二、一、二月(つまり十一月以外の全部)と続いた。十一月は定期大会だから忙しくて例外である。

三月十九日(木) 組合は左右のどちらに偏つたかといへば組合の右傾化で脱退
左翼と右翼といふのは米ソの冷戦で生じたものでアジアの民族解放戦争で克服された(しかし中国の文化大革命とカンボジアのポルポトでまた克服前に戻つてしまつたが)から、私と前委員長との左右度を測るのは無意味である。しかしマスコミがでつち上げた左右の感覚でいふなら、私が左で前委員長が右、これが騒動の原因である。四月以前は何の問題もなかつたのに五月以降突然紛争が起きた。外部からの工作があつたと考へるのが普通である。
工作の原因としてまづ考へられるのは私が芝公園で行なはれた三里塚反対闘争に行つたことだが、これは行くのが当然である。専従のAさん(療養中)のお見舞ひにわざわざ関西から来られた方がゐる。私が案内した。この方はAさんに明日反対闘争があると言ひ、Aさんが頷いた。その様子を間近で見たから私が代りに行つた。しかし全面的に参加した訳ではないから公園入口の警察の検問では「集会を見に来ました」と言ひ「参加します」とは言はず、普通は荷物検査があるのにそのまま通された。集会終了後にデモ行進があり、私は参加せず歩道で見るに留めた。

三月二十一日(土) 左翼崩れはゐないが右翼崩れはゐる
村山富市以降、左翼は左翼崩れになつてしまつた。アメリカをありがたがつて反日言辞を吐くといふとんでもない連中である。どこがとんでもないかといへば、反日言辞を繰り返すことは社会を破壊する。世の中をどんどん悪くするから国民から白眼視される。
うちの労組の場合はその傾向はなかつた。前委員長が原爆の慰霊碑について「過ちは繰り返しません」といふ文章に主語がないと発言したことがある。同感である。アメリカをありがたがるから主語をぼかす。このように昭和四十年代までの左翼の美点を引き継ぐ一方で、中国そのものを批判する言動が多かつた。中国共産党を批判するのは構はない。しかし西洋猿真似国の目で他のアジアを蔑む。それでは戦前の大東亜共栄圏と変はらぬ。
世界が西洋化して日本だけ独自路線を採ることはできない。だからアジアアフリカ中南米で欧米先進国地球温暖化破壊路線に反対しようといふのが正しい。だからうちの労組は左翼崩れではないが、一部が右翼崩れではあつた。右翼は構はないが右翼崩れは困る。

三月二十三日(月) 社民党嫌ひ
組合員で話しかけてくる人とは時間の制限無く話をすることにしてゐる。平日は仕事があるから昼間は土曜しか組合事務所に詰められない。しかしどんなに忙しくても来てくれた相談者や組合員の相談には時間を無制限に使つて対応した。尤も話の転換の仕方が重要である。話す人はとかく同じ話の繰り返しになつたり詳細な話になつたりする。それだと全体の話が判らない。せつかくの話が無駄になつてしまふ。だからといつて話の腰を折つては駄目である。「あ、今の話は」「すると今回の件は」などうまく導くべきだ。間違つても話を妨害してはいけない。
たまたま労組意識が強く今まで転勤の度に現地の組合に所属して来た組合員と話をしたとき、関東に転居する前に所属した労組は社民党支持を強制するのでそれが嫌だつたといふ。その組合員だけではない。うちの友誼組合で市議会に送つた組織内議員は無所属(或いは諸派)で社民党は一人もゐない。良識ある人は社民党には投票しない。この点では労組内の皆の意見が一致する。

三月二十四日(火) 左翼バネ
かつて左翼バネといふ言葉があつた。社会党が既得権化するのを防止する貴重な勢力だつた。しかし社会主義協会がセクト化したため、社会党のすべての派閥から敵対視され左翼バネまで影響力を失つた。左翼バネの本質は総評内反既得権派である。一方の既得権派は労組幹部としての既得権と上昇志向(特に国会議員)の連中だが、それを正しい方向に誘導するのが左翼バネでかなりの国民の支持があつた。
私の所属する分裂後の労組では、専従のAさんが組織内で左翼バネを果たしてくれた。

三月二十五日(水) Aさんへの左翼バネ
分裂前の一時期、うちの労組はニセ労組シロアリ連合に所属してゐた。あるとき東電労組出身で連合会長になつた笹森氏を講演にお呼びしたことがあつた。私は講演内容に100%賛成である。今思へば自由経済の範疇で資本主義制度を批判する実によい内容であつた。
我々の所属する組織は協議体なので連合に加盟するため結成した産別の当時の事務局長がAさんで、笹森氏の講演が終つたあと、前の席で嬉しさうに拍手をするAさんを見て、私は憂鬱な気持ちになつた。確かに笹森氏の功績は大きい。しかし会長を退任すれば連合はまた元の醜い姿に戻る。かつての隠しベアをやり労働者派遣法が成立するよう社会党に圧力を掛けた連中はユニオンショップと組合費天引きの廃止で解散させる以外に治療法はないからだ。
組合分裂とともに我々は連合を自然脱退になつた。Aさんが兆民倶楽部といふ読書会を始めて参加者は労組からは私だけ、外部からAさんの三里塚闘争時代の仲間が参加した。私は中江兆民ではなくマルクスのどこが正しくどこが間違つてゐるか、或いはマルクスは正しいがレーニンが間違つてゐたのか、或いはスターリンかなどを話したほうがよいと思つたので、この時点でも私がAさんへの左翼バネだつた。
その後、Aさんは私のホームページを読んだためか急速に左翼性を取り戻した。私のホームページを読んだとする根拠は、兆民倶楽部で天皇の悪口を数秒言つたことがある。それで私がどう反論するか試さうとしたのだらうが、日本政府とは幕府であり(明治政府は薩長の武力、戦後政府は米軍の武力で造られた)、天皇は首相を任命する。だから天皇が幕府の内部にゐるか外部にゐるかは重要ではない。

三月二十六日(木) Aさんが倒れた後
Aさんには社会破壊拝米新自由主義反日(自称朝日)新聞からのバネもあつた。この新聞社のTといふ女性記者(今は聞いたことのない大学の教授、かう云ふ大学には補助金は要らないのではないか)がAさんに取材だか何かに来ていつしよに飲みに行つたがそこでAさんの具合が悪くなりアパートに送つて帰つた。翌々日になつても連絡がないので心配になつて組合からアパートに行つたところ二日間倒れたままだつた。すぐ救急車で運ばれ脳内出血を削除し復帰した。脳の手術なので最初は変な行動もあつたが徐々に学習効果で適応できた。
ところが一昨年再び倒れた。一回目とは別の場所で出血した。最初は著しい回復ぶりだつた。車椅子に自分で乗れるようになり、次は歩けるようになり、そして普通の食事ができるようになつた。あとは話すことを皆が期待したがそれは無理だつた。Aさんが抜けて組合の均衡が崩れた。そして昨年五月組合の様子が一変した。

三月二十七日(金) 左翼、民族派、左翼崩れ、右翼崩れの構図
ここで左翼、民族派、左翼崩れ、右翼崩れがどう云ふ關係にあるか表にまとめてみた。
左翼
国の独立
全体に責任を持つ
民族派
国の独立
全体に責任を持つ                
左翼崩れ
拝米の視線でアジアを重視するふり
個人主義
右翼崩れ
拝米反中韓
新自由主義

ここで昭和五十年辺りまでの左翼は今から考へると民族派と差がなかつたことが判る。左翼と右翼は国内を憂ひ国民の生活を考へ行動を開始する人たちである。一方で左翼崩れと右翼崩れは上層部は議員でゐたいなりたいといふ連中、下層部は自分の先任者がやつてゐたからと表面だけ真似をする連中である。つまり左翼崩れと右翼崩れは志が低い。左翼崩れと右翼崩れはどちらも新自由主義だが、左翼崩れはそのことを自覚してゐない。社会破壊拝米新自由主義反日(自称朝日)がその典型である。(完)


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