六百七十五、飛騨旅行記(その二)

三月九日(月)その四 越中八尾
猪谷からは岐阜方面に乗つてもよかつたが、待ち時間が長いから富山方面に乗り越中八尾で駅の外に出て18分間にサンドイッチを買つて食べた。既に猪谷駅の待合室でポテトチップとアンパンを食べたがこれではたんぱく質と野菜が不足する。そこで野菜とハムの入つたサンドイッチで補足した。私は食事を取るとき必ずたんぱく質と野菜を考慮に入れる。だからポテトチップを購入する事は普通なら無いが猪谷の店ではほとんどの商品が土産物と菓子で食品としてはポテトチップとあんぱんしかなかつた。猪谷ではアンパンと、ポテトチップのうち1袋を食べた。2袋だと油分を取り過ぎるためである。
そのうち岐阜方面猪谷行きが来た。乗つて暫くすると雪が降りだした。猪谷で17分の待ち合はせで美濃太田行きに乗り替へる。ここの駅は県境のほかにJR東海とJR西日本の境界でもある。だから普通列車はここが終点になる。ホームの両側に線路があり、改札口に近い側は普通列車専用でホームの両側から発着するから中央に線路の錆びた部分が2mくらいある。もう一つの線路は特急が直通するから錆びた部分はない。往路は富山方面の気動車が停車中のホームに徐行で進入した。帰路は特急が来ない時間なのでもう一つの線路に着線した。
高山を過ぎると雪が雨になつた。往路で気付いたのだが高山の手前で川の向きが逆になる。それまで太平洋に向かつた川が日本海に流れるようになる。もう一つ高山を過ぎるあたりから残雪が多くなつた。川端康成のトンネルを抜けると雪国だつたといふ話は厳密には正しくない。冬型の気圧配置だと雲は東に流れるからトンネルの手前で雪になる。尤もそのことは窓の外を注意深く眺めないと判らない。だから川端康成が間違つたことを書いた訳ではない。

三月十日(火) 下呂
(1)夕方五時半下呂駅に到着した。雨がある程度降つてゐた。今夜は日本式の旅館だつた。思へば今から三十年前までは日本式の旅館が普通だつた。当時もビジネスホテルといふものはあつたが窮屈で居心地の悪い建物といふのが一般の認識だつた。
今でも覚えてゐるが私が富士通の子会社に転職したとき入社後の三日間の教育のため全国から四十人くらいだらうか集まつた。各地から来た人の宿泊先はビジネスホテルと発表されると皆が笑つた。総務課の人も、云ふほうも心苦しいのですが、と言つた。それほどビジネスホテルといふのは居心地の悪いところだつた。一方で普通のホテルは豪華すぎる。或いは室内の照明が暗い。ベッドから落ちたら大変だ。靴を履いたまま部屋に行くのは落ち着かない。これが当時の感覚だつた。
夫婦で経営する小さな旅館である。「素質より努力」といふ著書も二冊あり、高校や実業団で剣道をやり七段ださうだ。
いままで宿泊した施設で印象に残つたのは二つである。一つ目は四十年くらい前に美ヶ原の山荘で木造の大きな建物だつた。山荘の経営者にしては若い三十歳くらいの方は素朴でなかなかの話し手で夕方は空き地に宿泊客を全員集めてフォークダンスをしたり、室内で美ヶ原の風景のスライドを上映してなかなか楽しかつた。ビデオで後方に松本電鉄の路線バス、前方に女性数名が写つたスライドの説明で、後に写つてゐるのがバス、前にゐるのがブス、と言つたので皆が爆笑した。今だつたら人権侵害だ女性差別だと問題になるが、当時はこの程度は何の問題も無かつた。冗談であり本当に容姿を論じたとは誰も思はないからである。プラザ合意以降海外に行く人が増へて西洋のやり方を真似してから日本は変になつた。
二つ目は三十年前に富士五湖のペンションで、ここのオーナー(本人がオーナーといふ云ひ方をした)はスポーツ指導者のタイプで、丁度ラジオ体操の号令を掛ける人のような感じである。ペンションの説明をするときどこかに精神訓話が少し混じる。これがなかなかよかつた。我々は富士通の子会社の同じ部の人全員で行きその夜宴会をしたが、我々の他に松下電器の女性数人が偶然宿泊し宴会にも参加した。オーナーはお酒つてすごいですね、このように楽しくうちとけ会へるのですから、と挨拶した。ペンションはテニスコートを併設し翌朝テニスのあとシャワーを使ふ場合、これは有料すが、といふ云ひ方でどんどん有料のほうに持つて行く。皆で、あのオーナーはやり手だと感心した。窓から外を見ると馬場も併設しオーナーが乗馬し斜め横歩の練習をしてゐた。競技に出場するのだらう。
この日は夕食を買ひに外出し県立下呂病院先のコンビニまで往復した。靴は防水ではないので中が濡れた。古新聞をもらつて中に入れた。この旅館が印象に残る三つ目になるかどうか、この本を読んでみたいものである。
(2)翌朝目が覚めるとかなり雨の音がする。あと個人経営だからまだ扉が閉まつてゐるだらうと思つた。だからおとなしく部屋にゐた。しかし六時過ぎに外に出ると雨は上がり、ザーザーといふ音は横を流れる小さな川だつた。駅で時刻を調べた後でコンビニに行つて朝食を食べた。そして退出の手続きをして宿泊料金を払つた。思へば二十五年くらい前までは退出するときに精算するのが普通だつた。前もつてお金を払ふようになつたのは、それだけ社会が崩壊したといふことだ。
風呂は温泉に二十四時間入れるといふので昨夜7時、今朝5時、7時と三回入浴した。浴槽にわずかづつお湯が流れる。これは源泉のお湯である。沸かし湯や希釈湯ではない。それとは別に湯ぶねの中に塩素滅菌の循環装置がある。これは15年前にレジオネラ菌による肺炎が温泉で多発し保健所からの指導があつたのだらう。この日の宿泊は三組でうち一組は家族四人。せつかく二十四時間掛け流しのお湯が流れるから六人で入るにはもつたいない。そのため三回入浴した。湯ぶねに浸かりながら浅間温泉の真砂の湯のことを思ひ出した。ここは私が小学生の頃毎月会費を払ふと建物の入口の木製の器具を貸与されこれで木製の扉に差し込むと入れる。後に普通の銭湯みたいに入口で料金を払ふようになつた。そのころの話だが湯ぶねは床から5cmくらい高くなつただけであとは地下だが、湯ぶねの一番下に高さ1cm幅3cmくらいの穴があり床の高さの穴に繋がつてゐる。この穴からお湯が溢れるのだがなるほど掛け流しのお湯を湯ぶねの下から抜けば沈殿物を排出できる。五十年ぶりにそのことを思ひ出した。
(3)旅館を出てまづ「下呂温泉神社」を参拝し、次に「湯のまち雨情公園」に行つた。ここは野口雨情に因んだ公園である。次に坂を下りながら別の坂を上り「下呂温泉合掌村」に行つた。門前で「いでゆ朝市」をやつてゐた。合掌村は観光施設なので中には入らず外から合掌造りを眺めた。坂を下りたあと「行者堂」「湯之島の高札場」を観て「温泉寺」に参拝した。温泉寺はお奨めの寺である。寺社は宗教心、良心、寛容さを感じなくてはいけない。温泉寺にはこの三つを感じる。
次いで下呂発温泉博物館に入館した。ここの展示は良質である。かつて動力のない時代は河原に湧き出るお湯を穴に掘つて入浴したこと、近年できた温泉は100m深くなるごとに地温が3度上昇することを利用して汲み上げたものだがなかなか原理どおりには湯温が上がらないこと、法律で定義された温泉の定義とは別に厚生省(当時)の指定に該当するかどうかがあることなど有意義だつた。せつかく展示が有意義なのにアメリカの歌を流すのでうるさかつた。途中からクラシックになつたのでよくなつたが、せつかく伝統のある温泉なのだから日本の音楽を流すべきだ。それができないなら一層のこと無音がよい。
博物館を出たあとさるぽぽ神社に寄つた。中国人観光客が仲間を鳥居の前に写真を撮つてゐた。日本人からみれば珍しくないものでも始めて来た人にとつては珍しいのだらう。いで湯大橋の下に降りて噴泉池を見学し下呂駅に向つた。

三月十日(火)その二 彦根
下呂を11時37分に出発し彦根に行くことにした。岐阜は17分の待ち合はせだが強風のため東海道線の大垣行きが遅れた。少し雪が降つてゐた。売店でサンドヰッチを買ひ昨日のポテトチップの残りの1袋と組み合はせホームの待合室で昼食を取つた。大垣から米原行きは既に発車した後で一本待たされた。大垣から関が原まで大変な雪である。線路の上と脇に数センチ積もる中を電車は進んだ。不通になる前に米原に着いたら折り返さうと思つた。ところが米原はほとんど降つてゐない。そこで乗り換へて彦根には16時10分に着いた。本来は15時33分に到着のはずがだつた。駅ビルの観光案内所で彦根城は入場が16時半、閉館が17時だから間に合ふといはれ急いで彦根城に行つた。その手前に開国記念館があり「佐和山城と石田三成」の企画展示中でこちらのほうに興味があつたので入つた。入場無料である。今回の旅行を通じて観光施設は好きではないが学術上意義のあるところには入館するといふ方針を貫くことができた。
館内に「石田三成に逢える近江路」といふパンフレットがあつたので1部頂いた。発行は「びわ湖・近江路観光圏協議会[石田三成連携事業]」とあり、昨年の三月に作られた。内容は充実し興味深く読むことができた。ただし石田三成について私は少し異なつた意見を持つ。若いときに秀吉の近習となつたため虎の威を借る狐で傲慢な性格になつてしまつたのではないのか。だから秀吉の死後は秀吉子飼ひの武将から襲はれて引退し、それでゐて復活したものの関が原では味方に裏切りが続出してしまつた。
彦根駅に戻り米原で乗り換へて驚いた。関が原の辺りは線路脇の雪が線路の高さまで積もつた。電車は正常に動いたので安心したが、最後に事件が起きた。踏み切りの非常停止合図が点灯し信号機も赤で電車は急停止した。運転手は女性で携帯電話と車内電話で交互に連絡し20分ほど過ぎた後に時速10kmくらいでゆつくり進んだ。踏み切りの手前で停車し再度、携帯電話と車内電話で交互に連絡を取り合つた後に布を持つて運転室の扉から線路に降りて踏み切りの遮断棒、その根元の機械、障害物検知の機械を拭いて運転席に戻つた。電話で交互に連絡を取つた後にまた10kmくらいで進み次の踏み切りでも同じことをした。対向の電車が時速20kmくらいですれ違つた。こちらの電車は10kmでかなり進んだ後に信号機が青になり電車は速度を上げて垂井駅に着いた。あとは正常の運転で終着駅の大垣に着いた。
ここで男性と女性の運転士の行動の違ひがある。男は制限が10kmでもすぐ停止できることを革新すれば20kmくらいまでは上げる。女は規則どほり10kmで走る。これは交通取締りの警察官でもあるといふ。速度違反で呼び止められたときに男の警察官は、次から気を付けるようにといふだけで釈放してくれることがある。女の警察官だとまづ違反切符を切られる。鉄道会社は女性運転士の出現に合はせて男女どちらにも通用するよう規則の文章を吟味したほうがよい。
ホテルには6時到着と伝へてあつたので、岐阜駅の公衆電話から30分遅れることを連絡した。携帯電話を持つてゐるが公衆電話を使ふのは公共財保護のためである。皆が公衆電話を使へば携帯を持つてゐない人や災害時のときに使ふ公衆電話を街中に多数維持できる。

三月十一日(水) 岐阜
(1)昨夜はホテル到着後、駅から一本目に交差する角のローソンで夕食を購入した。ホテルは駅前通りを直進して三本目の道で駅から1000m。わざわざローソンまで買ひに行つた理由はローソンカードを持つてゐるからで、その点ローソンは商売がうまい。昨年の夏に沖縄に行つたときも食事はほとんど(もしかすると全部)ローソンで買つた。とはいへ消費税増税のときに真先に賃上げを発表したのは許し難い。しかも来店ポイント(1ポイント)が廃止された。あのときポイントを全部使ひきり終はりにするはずだつたが沖縄でポイントが溜まつた。といふことで今回ポイントを溜めて全部使ひ以後は取引禁止企業に指定するといふ次第である。
翌朝五時にホテルを出ると15cmくらい雪が積もつてゐた。私の靴は雨に弱い。そのことにめげず名鉄の名古屋駅に行つた。切符売り場の路線図と改札口を見てホテルに戻ると靴の中はびしょびしょだつた。下呂温泉の宿でもらつた古新聞の残りを中に詰めて乾かした。
朝食はホテルで食べた。370円でお徳だといふので昨夜チェックインのときに申し込んだ。サラダ、ゆで卵、パンが半分、ヨーグルト。これで370円は安い。サラダ100円、ゆで卵100円、パン70円、ヨーグルト100円といふ目算である。しかし食べてみるとヨーグルトは180mlではなくその半分、サラダも少ない。これだとお徳ではなく普通だつた。とはいへたんぱく質と野菜を考慮してコンビニで買ふとこの金額になる。まあ適正価格である。
(2)チェックアウトの後、岐阜城まで歩いた。本当はバスに乗りたいがどこから乗るか判らない。駅まで戻ると反対方向である。案内図を見ると駅への距離の二倍程度だ。といふことで歩いたが駅前通なのに雪が15cmなので大変な思ひをして岐阜城の下(岐阜公園)に到着した。信長居館跡を観た。なるほど山の上は軍事施設である。山の下は居住地区である。次にロープウェイの駅へ行つた。乗る訳ではなく駅と付属するみやげ物店内を見て長良川に向かつた。
長良川手前の中国庭園と鵜飼船の製作所を見学した。川崎にもあるが中国庭園は貴重である。田中角栄首相が訪中し国交を回復した。当時の日本にはまだアジアの意識があつた。鵜飼船の製作所では丁度団体客が到着したのでいつしよに見学した。市の経営なので一人でも見学できると思ふが団体といつしよのほうが気楽である。
橋を渡るとき風が強く傘が壊れさうになるので折りたたんだ。鵜飼の博物館があるはずだが場所が分からず代りに鵜匠の看板のある家が並ぶ路地に出た。中から鵜の鳴き声も聞こえた。もう一回その通りを過ぎて川にある六艘の船を見て橋を戻つた。博物館は別に見たいわけではないので探さなかつた。バスで駅に戻つた。かなりの距離だつた。一つ手前で降りて再度ローソンで昼食を買つた。このときは各所の歩道の雪かきが済んで歩きやすかつた。
帰りは予定より早い電車に乗つたので途中で浜名湖の弁天島に寄つた。一時間半ほどで島を一周し線路の反対側の海岸も見て首都圏に戻つた。


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