六百七十五、飛騨旅行記

十年ほど前に心理の変化を記録すると後に役立つと考へたことがありました。今回は旅行を記録してみました。だから内容が詳細過ぎて退屈かも知れません。そのときは次に移つてください。

平成二十七乙未
三月八日(日) 四十年ぶりの飛騨
今年の春は大分か徳島の旅行を計画した。昨年の山口、沖縄で国内すべての都道府県を旅行したことになつた。しかし詳細に考へると大分と徳島は他に行く途中で通過したに等しい。そこで大分の格安航空券を探したところそれほど安くない。福岡は安いが大分まで鉄道で往復するから高くなる。といふことで今春は青春18切符で飛騨を旅行することにした。
飛騨は私が二十歳くらいのとき家族みんなで一回行つたことがある。松本から上高地で一泊、平湯で一泊。私の母は松本の出身なので昔はよく松本の祖父母の家(最初は東筑摩郡、後に松本氏に合併し浅間温泉)に泊まつた。そこから上高地や美ヶ原に行くのだが、上高地から先の岐阜県側には行つたことがない。だから島々、沢渡、白骨は知つてゐても、平湯といふ地名を聞くのは始めてだし、濃飛バスといふバス会社を聞くのも初めてだつた。
私の母は松本電鉄に勤務し、車掌ではなく本社だつた。夏になると上高地の案内所に勤務し電鉄の宿舎に指定された旅館が前回の旅行で偶然泊まつたところだつた。経営者とも顔見知りだつたといふ。バス会社と仲良くすれば宿泊客を紹介してくれるしそもそも夏の間、宿舎としてずつと利用してくれる。だつたら挨拶に行けばと言つたら既に経営者の代が替つて判らないといふことだつた。平湯では旅館の池に鯉がゐた。高山から特急に乗り新幹線に乗り換へたから特急は岐阜ではなく名古屋が終点なのだらう。新幹線の車内で雨が強くなり天井から豪雨の音が車内に伝はつたことを憶えてゐる。速度を落としたぶん遅れて東京駅に着いたと思ふ。

そんなことを思ひ出しながら岐阜駅に着いた。私の乗るのは普通列車だが特急飛騨は名古屋発でやはり四十年前の乗り換へ駅は名古屋だつた。

三月九日(月) 高山市内
(一)昨日は早朝に家を出て夕方高山駅に到着。ホテルは駅の近くだつた。ホテルの裏側の道を少し進むとスナックなどが道の両側に並ぶ繁華街があつた。飛騨国分寺の三重の塔の先まで繁華街は続いた。鍛冶橋から中央通り(国分寺通り、国道158号)を小さな上り坂の手前で折り返し、帰りに三町の古い町並みを往復し、中央通りから見える老夫婦の経営する食料品スーパーで夕食を買つてホテルに戻つた。個人経営の店は応援しようといふ気持ちになる。
(二)今朝は五時にホテルを出て駅の時刻表を見ようとしたがみどりの窓口が閉まつてゐるので時刻表がない。上りと下りの出発時刻表はあるが富山に何時に着いて帰りは何時に乗ればよいか判らない。本数の少ない線は始発駅から終着駅までの時刻表を張り出しておくべきだ。駅前中央通りは街灯が肌色で暖かい。日本は蛍光灯色ではなくこの光が合ふ。この通りの終点から国道158号を松本方面に急坂になつて1停留所歩いた。二車線で車はほとんど通らない。この道を歩くと平湯まできりがないから1停留所に留めた。次に東山遊歩道を歩かうとしたが暗くて道が判らない。そのまま戻つて宮川朝市でおみやげのつけもの三袋500円を買つた。人のよささうなばあさんの屋台だつた。自家で漬けるさうだ。コンビニで朝食を買ひホテルで食べた。
(三)再び散歩に出掛け、飛騨総社に行つた。立派な神社ではあるが明治維新の四十八年前に再興され明治二十年に造営された。次に桜山八幡宮に行つた。川の手前から参道が始まる。下二之町大新町の古い町並みを見てホテルに戻つた。そして退出の手続きをした。
(四)荷物を持つて踏み切りを渡ると期せずして公園に蒸気機関車と除雪車が展示してあつた。除雪車に高山客貨車区 高山駅常備と二行に書かれてゐるのを感慨深く眺めた。かつて客車の車側に書かれた片仮名二文字は常備駅名でありなぜ客貨車区名ではないのかを国鉄の人も判らず調べたことがある。最初は操車場のほとんどは駅構内で研修庫とその周辺だけが客貨車区だからかと想像したが、結論はかつて検車区と車電区に分かれた組織を後に客貨車区にしたが統合前のなごりである。ここで車内清掃はかつては駅の担当ではなかつたかといふ気もする。このように鉄道会社も分からないことを調べるのはよいが、JRになつてからはかつての役所であるが故の組織の美しさが消えたしそのため鉄道会社の判らない事項はない。つまり鉄道の写真を撮つたり調べたりするのは無駄である。だから今では新幹線が開通しようが新しい車両が出てこようとまつたく興味がない。
踏み切りを渡つたのは国分尼寺史跡に行くためだつた。辻ケ森三社の境内にあり、この神社には立派な拝殿がある。高山に来る途中で鉄道の窓から拝殿のある神社が幾つかあつたが、なるほど拝殿とはかういふものなのかと納得がいつた。
(五)中央通りの立体交差で線路をくぐり、花見の足湯に行つた。8時から無料である。8時を過ぎたが足をつけると冷たい。なるほど8時にお湯が出るが湯ぶねには前夜の水が残つてゐる。足は濡れて冷たい。足を伸ばすとかろうじて足に湧き出るお湯が掛かる。何とか両足にお湯を掛けて拭いた。高山陣屋に向かはうとすると中国人夫婦の観光客がゐた。ここのホテルは立派だから中国では高額所得者なのかも知れない。
高山陣屋は外から見るに留めた。時間がないし観光客向けの施設はほとんど入らないことにしてゐる。ふだん訪問しない土地は全体が観光地といふのが私の考へである。陣屋の前でも朝市がある。こちらは観光客向けといふ印象を持つた。駅前中央通りを駅に向かつたが早朝の暗いときと異なり、十時前といふ事情を考慮しても変哲の無い寂れた道路であつた。高山バスターミナルに寄つた。一車線一ホームでポールが6つある。待合室と乗車券売り場と飲み物自動販売機とコインロッカーがある小じんまりした規模だが落ち着いて感じがよい。松本のバスターミナルのようにごつた返さないところがよい。それは夏山シーズンではないためかも知れない。

三月九日(月)その二 飛騨古川
(一)最初7時42分発で富山に9時56分着、10時27分発で高山に12時29分に戻る。それから高山市内を観光して下呂に向かふ予定だつた。ところが午後から雨がふる。そこで先ほど書いたように最初に市内を観光した。高山を9時39分に出て富山まで往復するか飛騨古川に寄るかは車内で考へることにして結局後者を選んだ。古川では2時間21分の時間がある。
(二)殿町通りの町並み、これは見逃した。次に瀬戸川と白壁土蔵街、これは道路をタイルに張り替える工事をして歩けないのでちらつと観るに留めた。次に国登録有形文化財の八ッ三館といふ旅館を外から観て野麦峠文学碑と本光寺を観た。次に壱之町通り、弐之町通り、三之町通りの町並みを観た。
(三)飛騨古川まつり会館はお奨めである。係員が皆、親切に説明してくれた。絵馬を描く実演(会期中のみ)の説明を聴き、ビデオを観て、屋台の説明を聴いてからそれらを観てコンピュータで操作されたからくり人形を観た。

三月九日(月)その三 猪谷
(一)飛騨古川12時16分発の富山方面猪谷止まりに乗つた。ここは富山県である。猪谷関所館は月曜で休館だつた。食品スーパーが廃業して建物が残つた。車道を渡つたところに川があり天然記念物「猪谷の背斜向斜」の説明板があつた。この位置からはダムの影響で水没し見る事はできないらしい。
(二)駅前の土産食品店で、昼食としてアンパンとポテトチップを買はうとするとアンパンは差し上げるからもう一つ何か買つてほしいといふ。そこでポテトチップを更に一袋買つた。アンパンは日にちを過ぎたので無料だつたが健康に害がある訳ではない。二十年前にカリフォルニアに長期出張したとき、日本食材店に買ひに行くと期限を過ぎたものがほとんどでそれ以来、全然気にならなくなつた。袋に宣伝を入れますといつて横5cm縦8cmの四つに折つた小冊子を頂いた。「お土産・ご贈答に(昭和天皇・今上天皇献上品)はちみつ 関所せんべい」とある。片やはちみつと関所せんべい、片やポテトチップと日付の過ぎたアンパンといふ若干の違ひはあるが、天皇様と同じ店のものを食したのである。「猪谷駅かいわい ご案内」とあり中のページは猪谷関所館、西禅寺、東猪谷の野仏、神通峡、籠の渡し、常虹の滝、猪谷駅舎の小さな写真と説明がある。高山本線高山富山間のの23往復の時刻表、富山駅前行きの富山地鉄バス十一往復濃飛バス二往復の時刻、神岡経由平湯温泉行きの二往復のバス、三往復の飛騨市循環ふれあいバス、猪谷駅周辺の略図もある。田舎の人情を感じさせる小冊子であつた。
(三)駅には「神通峡ふらり旅」と書かれた最後の一冊の小冊子があつた。表紙には「ぼくたちの大好きな神通峡。小学6年生11人で、ガイドブックにまとめました!」「神通碧小学校のマスコットキャラクター「ミドりん」」とある。二頁目は目次、三頁目は笹津駅から楡原駅を通つて猪谷駅までの沿線の手書きの地図がある。三ページ目は「<特産物>らっきょう」とあり
<よさの秘密>
○シャキシャキ−−−−−−−−
                     │−豊かな自然のおかげ
○小つぶだけど、しまっている−−
○長期保存できて新鮮
※1年たってもシャキシャキのまま
○有名(ラジオや新聞でしょうかいされた)
○おいしい−−−−−−−−−−やさしい人々のおかげ


とある。確かに駅前の土産食品店と云ひ、この小学生の作つたパンフレットと云ひ、やさしい人々である。五ページ目にはらっきょう天ぷらの作り方が載つてゐる。六頁目は「えごま」である。
神通峡の西部では、えごまというシソ科の1年草が栽培されています。
毎年3月の初めの休日にはご平祭りというお祭りがあり、えごまを使用したご平もちを食べれます。
秘密(中略)ご平祭りで販売されるご平もちは、えごまももち米も地元で栽培された物を使っています。(以下略)


とある。えごまの効果としてアレルギー軽減、がん予防などが書かれてゐる。七頁目はえごまの料理法と、道の駅「林林」で売つてゐることが書いてある。更に
はまだ、神通峡の特産物にえごまが入ってません。でも、えごまを知ってもらいたい、食べてもらいたいと思っている方がたくさんいます。

八頁目は特産物のまとめで
生産者が少ない
  ↓
だからこそ私たちが広めます!
ぜひ食べてください!

とある。九頁目は前に出て来た「林林」「ごへい祭」とともに楽今日館といふ岩稲温泉の紹介がある。らっきょうが販売され、入浴は大人610円、小人310円、朝10時〜夜10時(12月から2月までは9時)まで、第2、4月曜(祝日のときは翌日)と1月1日が休みである。
十頁目は<<歴史>>と大して旧飛騨街道について調べてある。<交流>では海の幸、薬、木材が古くから行き来した。とある。
<特ちょう>では
1 重い荷物を運ぶために、昔は舟や牛を使った。
2 番人が厳しく通行のために税金をとった。
とあり、横にえぇ〜がっくり なんで?とあるのでこれについて解説しよう。今は確定申告があるが江戸時代は今みたいに調べられないから違ふ方法を用いた。農民は土地の広さに応じて年貢を、町民は冥加金や運上金を払つた。江戸時代の関所は治安維持が目的で通行料を取らないのが普通だが物流業から通行料を取つたとしても不思議ではない。我々はどうしても現在の状況はどんなに不都合があつてもそれを正統だと考へやすい。消費税といふ間違つたものや地球温暖化が進むのに相変はらず石油を消費する現代人は、200年後の人類からはえぇ〜がっくり なんで?と驚かれることだらう。現在は小学校六年でも中学、高校と進むにつれてだんだんそのことが判るようになる。大人になつても判らない菅、野田のような人間には間違つても成つてはいけない。十一頁目には猪谷関所館の説明がある。毎年九月に猪谷関所飛越ふれあい祭りが開かれとてもにぎやかな祭りなのでぜひ来てみてください。とある。
十二〜十三頁には畠山重忠の命日の七月二十二日か海の日に行はれる「重忠祭り」、十四〜十五頁には「百万石行列」について
1 交流
元々、東猪谷は、加賀藩だったため、今の石川県との交流があった。
2 由来
江戸時代。加賀藩の人が来た時、百万石行列を教えその後20年ごとの、社殿の建てかえの時、奴踏み行列を始めた。
3 意味
社殿の建てかえの間、御旅所におられた神様が帰る事を、先導する事。


とある。しかし東猪谷の人数が減少し祭りの人数不足になつた。小冊子には受けつぎたい!!と書かれる。十六〜十七頁には「重忠伝説」「関所とは」「百万石とは」と題して勉強の成果が書かれる。十八〜十九頁には十一人が一言づつ担当した頁名とともに載つてゐる。そして最後に
ありがとうございました!
<私達が作りました!>
私達は、1学期から調べてきて知った「神通峡のみ力
(魅力)」をたくさんの人に氏ってもらい、もっと素敵な地域になってほしいと思いパンフレットを作りました。

とある。地元のことを思ふ感心な十一人である。といふことでパンフレットの全頁について紹介をさせて頂いた。


(その二)へ

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