六百五十九、右翼と左翼(これまでの認識と調査後の変化)丙、葦津珍彦氏(その二)「ロシヤ革命史話」

平成二十七乙未
三月六日(金) ボルシエヴィキより前の闘争
昭和四十二年に出版された「ロシヤ革命史話」は名著である。一八八一年のアレキサンダー2世暗殺事件では五名が死刑、約二十名が数十年投獄され獄死したものも少なくなかつた。
かれらが、そのテロリズムにも拘らず、人道主義の精神に強い憧れを感じてゐたのは、かれらが一八八二年に、獄中からロシヤ人民におくったメッセージを見ても明らかである。「(前略)われらの勝利の暁に、征服されたる敵に対し、残忍または酷薄の行為を加えることによって、革命の光栄を汚してくれるな。われらの不幸なる運命によってロシヤの自由が得られるのみでなく、さらに美しく、さらに人道的なる人間社会が生まれんことを願う、さよなら祖国よ、さよなら全人類よ」

一九〇五年セルゲイ大公を暗殺するため五人が広場の暗闇に集まつた。だがダイナマイトを投げる役目の男は投げず、五人は闇の中を逃げた。
「確かに大公は、馬車の中にゐた。だが大公の横に妃殿下が同乗してをり、殿下と妃殿下の間に二人の子供が座ってゐた。(中略)党は、罪のない子どもを殺す決議をしたのではない」と。同志たちは、ただ黙ってゐた。

ところが
新しく成長して来たマルクス主義では、このやうな詩情は、無視され否定されるにいたった。
マルクス主義のボルシエヴィキでは、集団的大衆の暴力闘争は、高く評価されたが、ナロドニイキから社会革命党にいたるテロの戦術は、前近代的なものと談ぜられた。かれらの階級的唯物史観によれば、自己犠牲による精神的感動とか人道主義とかいふものは、前近代の不合理なものにすぎない。暴力の行使は、できるだけ敵に対して大きな物理的打撃を加へ、できるだけ味方の犠牲を最小限度に止める、といふ原則によってのみ考へられねばならない。それこそが近代的科学主義の戦略であり戦術であると信じられた。


結論として
ボルシエヴィキは、他の諸党派とは、精神史的に全く異質の革命党だといってもいい。

三月七日(土) 二月革命
二月革命が誰によつて指導されたかについて
歴史家は、それを明らかにしえない。常識的には、それを自然発生的だったと称してゐる。トロツキーは、その名著「ロシヤ革命史」に於て、この自然発生説に対して、(中略)ボルシェヴィキなどの革命党が、無名の多数の革命的労働者や兵士を生み出してゐた事実を、重く見ねばならないと力説してゐる。それは無意味な節ではあるまい。けれども、自然発生説に反対するトロツキーその人でも、二月革命を指導した人物やグループの名をあげることはできない。

葦津氏がトロツキーの書籍を名著と呼ぶ。ここに葦津氏の公平さが現れる。「ロシヤ革命史話」は昭和四十二年に著されたが、おそらく葦津氏に限らず日本の言論はまだまだ正常であつた。さて、レーニンは二月革命のことを三月二日に知らされ、このとき既にニコライ二世は退位の宣言証書を手渡した後だつた。そもそもレーニンは二月革命の一ヵ月前にスイスの亡命地で次のように講演した。
われわれ老人たちは、おそらく生きて、このきたるべき革命の決戦を見ることはないであろう。

レーニンはマルクス主義を学んで革命家になつたのではないと葦津氏はいふ。
その兄が、ナロドニーキとして革命家となり、皇帝の暗殺を企てて死刑となったときに、自らの障害を革命に打ちこむことを決意して、母に語った。(中略)後日になって、かれはマルクスを学び、(中略)マルクスは、かれにとっては有利な武器であり、手段にすぎない。(中略)マルクスの文書を、アカデミックに精細に研究してゐるカウツキーなどとは異って、(中略)ここにレーニンが、ただのマルクスのエピゴーネン(亜流)ではなくして、独自のレーニン主義者となる根源がある。

かつてソ連とその影響下にある国々は後にソ連と不仲になつた中国も含めると地球の1/3に及んだ。だからマルクスレーニン主義はあつてもマルクス主義は、少なくとも日本にはなかつた。その時代にレーニンの特異性を見抜いた葦津氏は見事である。
かれは、ブルジョワ国家の戦争を、ただ否定し反対するのではなくして、「戦争を転じて内乱へ」との新理論を提唱した。(中略)西欧社会主義者(マルクス亜流)の多数は、これを狂気と評した。レーニン自らでさへもが、かれの意欲の達成されるのを、生前に期待することはできなかった。

ここで、だから西欧社会主義が一番よいと短絡させてはいけない。日本では昭和六十年辺りからこのような人が増えたが、西欧社会主義はマルクス亜流であるばかりか西洋近代主義亜流である。私がベトナムなどの民族解放反植民地闘争は正しいがアジアにおける西欧社会主義は間違つてゐるといふ理由はここにある。後者は社会を破壊する。上野千鶴子がその典型である。

三月七日(土)その二 二月革命から十月革命へ
だが歴史の歩みは、いかなる天才の予測や分析も及ばない動きを見せる。レーニンにとって、革命は、測らずも忽然として眼前に現はれて来た。この時に、かれは−−平凡人のやうに歴史の大きな動きに驚嘆し、あるひは感激して、時の大きな流れに自らを流されてしまふことはなかった。(中略)かれは懸命に考へ、全力を投入して、この新しい歴史の流れを、自らの革命的意欲によって引きづって行かうと決断した。ここに革命家レーニンの本領がある。(レーニンのエピゴーネンは、日本にも外国にも、すこぶる多いが、その多くはレーニンによって革命を学び、あたかもカウツキーがマルクスを学んだやうに、レーニンを学んでゐる。そのやうな気風の中からは、時代おくれの教条主義が残るか、それとも世の俗流の圧力のもとに修正主義が生じるのみであって(以下略))

ここで注目すべきは括弧の中である。時代おくれの教条主義か、俗流の圧力による教条主義といふ部分は貴重な指摘である。葦津氏は批判しないが、レーニンの発した次の電報は批判に値する。
われわれの戦術は、つぎのとほりである。新政府をまったく信頼せず(中略)とくにケレンスキーに疑ひをもつ。プロレタリアートの武装が唯一の保障。ペトログラード市議会の選挙の即時施行。他党との接近は、いっさい不可。(以下略)

他の政党への誠意がまつたくない。この点で、私より葦津氏のほうが親レーニンといへる。さてレーニンがスイスからペトログラードに帰る方法がない。そこで
ドイツ帝国の陸軍特務機関(その最高指揮官はルーデンドルフ)との取引きが成立して、ドイツ陸軍の封印列車で、ドイツ領を通過してロシヤに帰ることになった。(中略)おそらくこの破格の特権と便益とを与へるために、ルーデンドルフ将軍が、重大な条件を課し、レーニンがその条件の実行を約したのは確実だと思ふ。

三月十四日(土) ソ連の誕生と崩壊
十一月七日(十月二十五日)レーニンを首領とするソビエート政権が成立した。しかしこの時、この政権を樹立したボルシエヴイキが人民多数の支持をえてゐたわけではない。(中略)多くの党派は、投票を集めえても、ボルシェヴイキのやうな武装組織を有たなかった。(中略)かれらは、レーニンの真意と決断を解することができないで「こんな政権は、間もなく自滅するだらう」と考えてゐたのである。それは政治的に無知な軍人ばかりでない、マルクス主義の長老プレハノフでも、ゴリキーでも、レーニン政権に反対の新聞論文を書き立ててゐた。

レーニンはマルクス思想の異端だつた。しかし十月革命がありソ連が誕生したからこそマルクス主義といふ言葉も生まれたのではないのか。ロシア革命がなければマルクスは理論家の一人に過ぎなかつた。マルクスが理論家の一人ではなくマルクス主義になつたため葦津氏のいふ教条主義や修正主義も生まれた。
ソ連が崩壊した今我々のすべきことは、もし十月革命が無ければその後の思想推移はどうなつたを考へることだ。マルクスの思想は資本主義といふ生活破壊、社会破壊、秩序破壊の対策だと気付く。だとすれば左翼崩れの人たち、特に上野千鶴子のように更に社会を破壊してはいけない。資本主義で破壊された世の中の再構築を考へたとき、左翼と右翼は区別する必要がなくなる。(完)


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