六百四十一、「新・資本主義宣言」を読む(その二)

十二月四日(木) 第四章
永田良一氏の第四章は優れてゐる。といふより永田良一氏の経歴が優れてゐる。八三年聖マリアンナ医科大を卒業し医師になり、しかし その二年前に株式会社新日本科学取締役に就任、九七年CEO。二〇〇八年に高野山大学修士修了(密教学)。医師と密教の関係にも 興味は持つが、それ以上に永田氏の事業意欲、実行力である。
私は、二〇〇五年四月、「がん粒子線治療研究センターを開設して、がん患者さんを治したい」という大きな欲を持ちました。(中略)百億円 以上の資金を集めて六年がかりでそれを成就させました。当初、周囲からは不可能だといわれていましたが、このような社会的利益に通じる 大欲というのは不思議と皆が助けてくれるものです。

永田氏はWHO憲章の「健康の定義」について従来の「肉体的、精神的、社会的」に「霊性的(spiritual)」を加へることを指摘した。ここも重要 である。

十二月六日(土) 討論「貨幣システムについて」、第五章
二回目の討論は批判すべき部分が多い。
水野 本題である「資本主義」について、山田さんは「大好き」といわれました。
山田 はい、大好きです。なぜかというと、資本主義が根付いていない国に行くのがといて苦手なんですね。香港や シンガポールという、まさに資本主義が今交流しているところに行くと、非常に快適に過ごせる。

今では世界中を探しても資本主義以外の国は少ない。北朝鮮、キューバくらいか。資本主義より前の経済と資本主義には本来差がない。今でも 個人経営が可能だからだ。つまり山田氏のいふ資本主義とは先進国(先進国とは地球を破壊する悪魔の度合が先に進んでゐる)経済の意味で それは単なる贅沢病である。同じように
古市 僕は資本主義という制度を含めて、資本主義が好きです。今日も、ブランド物のバッグを持っていますが(笑)。 やっぱり資本主義の便利さには、なかなか抗えません。

古市氏に欠けてゐるのは資本主義が地球を滅ぼさうとしてゐることへの言及である。また資本主義とその前の経済は封建政治による堕落分を 除けば本来は差がないが、資本主義は経営陣と株主の良心を喪失するといふ特徴を持つ。それが資本主義の堕落だといふこともできる。個人 経営者なら金欲や名誉欲、支配欲の固まりのような人がゐる一方で良心的な人も多い。その比率は国民の比率に比例するが、資本主義になると 株主や経営者の良心は互いに相殺されてしまふ。そのことを無視して資本主義を改良しようとしても無理である。

渋澤健氏は第五章で、渋澤栄一は「資本主義」とといふ言葉はほとんど用いず「合本主義」を用いたことを述べてゐる。翻訳のときにどう訳すかは 重用である。資本主義といふといかにも金儲けだけになつてしまふ。ここは渋澤栄一に学び合本主義で行くべきだつた。

十二月八日(月) 第六章
第六章「足し算から引き算の時代へ」は黛まどかさんといふ女流作家である。十数年前に
その頃ちょうど「美しい日本」「和」「武士道」といった言葉が飛び交い、日本はちょっとした「日本ブーム」でもあった。しかし仕事で地方に赴く度に 私はある種の違和感を覚えていた。後継者不足に喘ぐ農林水産業や地域産業、伝統工芸、本来の意味が薄れ観光化されていく祭や伝統行事、 荒れた山林、里山の消滅と共に失われゆく文化的景観等々、地方にある日本の精髄をなすものが、経済的な利益や効率、グローバル化などの 陰で息も絶え絶えの上京なのだ。

は同感である。黛さんは文化庁「文化交流使」として一年間フランスに滞在したが
一年間フランスで生活したことがあるが、その時に一番印象的だったのがフランス人は老若男女が「公」の意識を持っているということだった。 フランスではストが多い。バスに乗っていたら突然降ろされたり、来るはずの電車がこなかったり(中略)でも彼らは言う。「そうやってみんな自分の 権利を勝ち取っているのだから、少々不便でも他人の時にも協力しないとね。僕達はそうやってこの国を作ってきたのだから」

日本とフランスの違ひは二つる。日本は精神的に独立国ではない。日本の労働組合はアメリカから政治的に押し付けられたものが堕落したもの だから公の心を持たない。対策として企業別組合はやめるべきだ。
現在の経済のしくみの中でグローバル化が加速しているが、グローバル化によって世界の隅々までが均質化することに多くの人は懸念を持っている。

この意見も賛成である。

十二月十二日(金) 討論「国民の成熟について」
三つ目の討論を読んであることに気が付いた。中谷氏と田坂氏は自分が担当する章ではよいことをいふのに、討論では極めて悪い内容である。本音が 出たと見るべきか、あるいはシロアリ民主党の古川元久氏が共著なので討論会がその方向に引き摺られたのか。
古川 与那嶺潤さんという歴史学者が、『中国化する日本』という本を書いています。過激な書ですが、たいへんに興味深か つた。まず前提として、中国は宋王朝以来、ものすごい競争社会であったというんですね。そのうえで、「中国化」とはグローバル化の波にすべて洗われて しまう状態だと述べているんです。いわば江戸時代のような、穏やかな共同体を中心とした社会の対極なんですね。(中略)江戸的な考え方はもうあきら めて、グローバル化の波に順応しろ、と説いています。

これは悪質な文章である。江戸時代は穏やかな社会だつたが、その前の安土桃山時代や戦国時代は競争社会だつた。欧州は更にひどく産業革命以後 は戦争の連続だつた。そして西洋派角グローバル化が日本に押し寄せた。つまり中国は何の関係もないのに無理やり中国を悪者にする。実に悪質である。 田坂氏はこれほど悪質ではないが
田坂 「多様な価値観の共存」とは、「異なった価値観を持つ人や国家同士が、お互いの異なった価値観を我慢して認め合う こと」ではありません。「多様な価値観の共存」とは、そもそも、自分の中に「多様な価値観」が存在することを認め、受け入れるという「心の問題」なのです。

まづ米ソ冷戦終結以後の世界は、アメリカが価値観を押し付けることの連続である。或いは産業革命以降は西洋が価値観を押し 付けることの連続である。田崎氏はそれらを無視した。次に心の問題となると世界各地の多様性を曖昧にしてしまふ。アメリカが何か押し付けても、「あなた の心にもアメリカ的なものがあります」で済まされてしまふからだ。田坂氏は次に
田坂 人類の長期的な未来に対しては、根本的には楽観的でありたいと思いますが、やはり、地球規模での環境破壊、さらには、 テロリズムやパンデミックの可能性まで考えると、短期的には厳しい状況が到来すると考えています。

冗談ではない。環境破壊による食糧危機、水不足で動乱、戦争が勃発する恐れが高い。それを経て一部の人類が生き残る可能性はある。私は大気中の酸素 不足で人類は滅びると思ふ。恐竜の歴史から学ぶべきだ。例へわずかな人類が生き延びたとしてもそれは田坂氏のいふ短期的に厳しい状態ではない。長期的 に厳しい状態である。
次に中谷氏が
中谷 戦前のことを振り返ると、大正デモクラシー以降の民主主義がさらなる成熟を見せていればよかったのに、結果はそうは ならなかった。今も同じでしょ。

といふが、大正デモクラシーがなぜ壊れたかはアメリカ発の世界大恐慌で日本の農村派たいへんなことになつた。そのとき政治屋どもは何もしなかつた。今の シロアリ民主党と同じである。だから国民は軍部に救ひを求めた。悪いのはシロアリ政治屋どもである。それなのに田坂氏は
田坂 ブレヒトの戯曲「ガリレオの生涯」の中で語られる言葉、「英雄のいない国が不幸なのではない。英雄を必要とする国が不幸 なのだ」

と述べる。そして中谷氏の、最近は(この書籍が発行されたのは昨年七月)橋下期待感がかなり高いといふ発言に対して
田坂 現在の日本にあるのは、明らかな「英雄待望論」です。問題は、英雄の側にあるのではなく、容易に英雄を求める国民の側にある。

これは明らかに間違つてゐる。問題は英雄の側でも国民の側でもなく、国民が正当な制度で議員を選んだにも関はらずシロアリ化して しまつたシロアリ民主党のシロアリどもにある。そこをはつきりさせないといけない。国民を批判する田坂氏には呆れる。

十二月十三日(土) 第七章
第七章は田坂広志氏の「目に見えない資本」を見つめる日本型資本主義の原点へである。
一、「操作主義経済」から「複雑系経済」へ
二、「知識経済」から「共感経済」へ
三、貨幣経済」から「自発経済」へ
四、「享受型経済」から「参加型経済」へ
五、「無限成長経済」から「地球環境経済」へ


これらが何かについて田坂氏は
これからやってくる「新たな資本主義」とは、我々日本人から見るならば、何かの「懐かしさ」を 感じるものになっていくでしょう。

と述べる。完全に同感である。田坂氏は一人だといい主張を書くのに討論になると突然悪くなる。不思議だがその理由は本の最終頁の次の頁(といふことはもはや 頁が振つてゐない)に書いてあつた。
本書の著述は、二〇一二年九月〜一三年四月に行われた、「『新しい資本主義と成長』を考える会」(古川元久主宰)での論考をもとにしています。

新しい資本主義はよしとして成長を求めては駄目である。シロアリ民主党はやはり撲滅する以外にない。(完)


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