六百二十一、岡本古志郎氏の著書を読む(その二、「平和の探求」その他)

平成二十六甲午
十月二十六日(日) 第一章平和とは何か
「平和の探求」は昭和五十年に時事通信社から発行された。岡倉古志郎ほか二名が編者、編者を含む九名が執筆した。 最初の節は編者の一人で東京大学東洋文化研究所教授、日本平和学会会長の関寛治氏による「平和とは何か」である。 死者数が近代になるほど増える。ナポレオン戦争は一日233人だつたがバルカン戦争は1941人。第一次世界大戦は 5441人、第二次世界大戦は7738人、ヒロシマは80000人。また第一次世界大戦では死者の13%が非戦闘員だつた が第二次世界大戦では70%、朝鮮戦争では84%、ベトナム戦争では90%に及んだ。
関寛治氏は良心的である。といふか昭和五十年はまだ日本の言論は拝米に毒されてはゐなかつた。これらの数字こそ 平和運動は先頭に掲げるべきだが、それではアメリカが悪者であることがばれてしまふ。日本の平和運動が慰安婦ばかり 取り上げるのはこれが原因であらう。平和運動のふりをして拝米を進める。反社会反日(自称朝日)新聞やニセ新聞東京 パンフレットがさういふことしか報道しないのが原因とはいへ、日本の最近の平和運動はでたらめが過ぎる。

十月三十日(木) 第二章平和と科学者
第二章の第一節「平和に対する科学者の責任」は岡倉古志郎の著作である。
ベトナム戦争は、世界最大最強の、そして科学・技術、あるいは生産力のレベルの最も高いアメリカが、ベトナムという文字 どおり小さな民族、小さな国家に対して向けた、前例のないほど大規模かつ長期にわたる侵略戦争です(以下略)
例えばジョンソン、ニクソン両政権下(一九六五〜七三年)の八年間だけでも、インドシナで使用された砲爆弾の総量は 一四三八万トンといわれていますが、これは第二次世界大戦中アメリカがヨーロッパ・太平洋・来たアフリカなどの全戦線 で用いた六〇一万トンの実に二.五倍に達しますし、核兵器に比して破壊力、殺傷力の劣らないナパーム弾、多数の人間を 殺すだけの目的をもち、しかも負傷者の手当てができないように工夫された非人道的なボール爆弾やパイナップル爆弾など、 さらに農薬(枯葉剤)を使う「枯葉作戦」等々、(以下略)


つまりベトナム戦争は第二次世界大戦と同等若しくはそれ以上の残虐な兵器がアメリカにより多用された。日本では社会党が 消滅して以降の平和運動がどうも胡散くさいと思つたが、これで理由が判つた。ベトナム戦争を誤魔化すためであつた。旧社会党 や平和運動に本人が意識するかしないかは別にして拝米工作員が入り込み、反日平和運動といふ米英崇拝運動に変へてしまつた。

十月三十日(木) 第四章平和の課題
第四章の第四節に東京大学名誉教授、日本学術会議会員江口朴郎「民族自決と平和」が載つてゐる。題名自体が昭和三十年代、 四十年代の懐かしい香りがする。ここでは
マルクス主義の主張は、民族的解放は階級的革命と被圧迫者の国際的連帯の線に沿ってしかありえない、ということにあった。

この当時は地球の1/3を社会主義国が占め、ベトナム戦争はベトナム民族解放戦線が優勢だつた。だからこのような表現を 用いたことは十分に理解できる。しかし中国の文化大革命の失敗、ポルポトの虐殺、ソ連と東欧の崩壊を目の当たりにした後では
欧米による地球温暖化と引き換えの経済攻勢と、それを土台にした西洋文明攻勢に対して、非西洋地域は地球滅亡に巻き込まれる ばかりか社会破壊により生活が不安定になる危険をも背負はされた。非西洋地域は西洋の地球保護主義者、宗教者、伝統主義者、 労働者、農民、商工業者と連帯し、資本主義を終了させるべきだ。

米ソ冷戦終結後は、江口氏のような良心的な主張が滅亡した。特に日本ではマスコミの偏向と相まつて民族運動を危険なものと 国民に印象付けようとして二十五年間を経過した。西洋、中でもアメリカによる地球破壊と世界各地域の社会破壊に反対すること こそ真の平和運動ではないだらうか。

十一月一日(土) チリにおける革命と反革命
昭和五十年に大月書店から出版されたこの書籍は、大阪外語大教授岡本古志郎と千葉商科大助教授寺本光朗が編著者、その他 関西大教授など五名が執筆者である。この場合、執筆者の肩書きや氏名は関係ない。大切なのは昭和五十(1975)年である。なぜなら ベトナム戦争が終結した後のソ連中国陣営の醜態が表面化する以前だからである。このように言つても決して米帝国主義側を誉めた訳 ではない。共産主義は党内の反主流派を滅ぼす。実に嫌な行為だが地球を滅ぼす訳ではない。それに比べて米帝国主義は地球を 滅ぼす。これは絶対に許されない。悪魔と同等若しくは悪魔以上の行為である。つまり人類が数千年間に亘つて考へてきた悪魔とは コロンブスの大航海時代に現れた米帝国主義のことであつた。
大月書店から出版されたことも貴重である。戦後に創業しかつてはマルクス主義を扱ふ出版社であつた。

十一月二日(日) 非同盟運動基本文献集
昭和五十四年に新日本出版社から発行され、著者は岡倉古志郎、壬生長穂である。一九四七年から一九七六(昭和五十一)年までの 文献を集めた貴重な資料である。残念ながらソ連崩壊後はこの資料を活用できる世界情勢にない。否、この分析は正しくない。日本に 於ける昭和五十年辺りからの国際収支の黒字、特にプラザ合意以降は日本を先進国意識丸出しの奇妙な国にしてしまつた。そのことが 資料を活用できない理由である。いつかこの資料が活用できることを強く願ふ。

十一月二日(日)その二 バンドン会議と五〇年代のアジア
昭和六十一年に大東文化大学東洋研究所から発行され、著者は岡倉古志郎ほか九名である。第一章第一節「第二次大戦の勃発と 展開」に気になる表現が現れる。第二次大戦の始期は一九三九年のナチスドイツのポーランド侵入、終期は一九四五年日本の降伏 とすることに対して
だが、五〇年代央の史学会における第二次大戦の起点および性格をめぐる論争のなかで強調されたように、(中略)日本帝国主義の 侵略戦争に対して長期にわたる反ファッショ抗日民族解放戦争を闘った中国人民のたたかいが不当に軽視される、という異議申立がある。

このこと自体何ら問題はない。戦争の被害を受けた中国が史学会で議論するのはよいことである。五〇年代にあつたとして不思議はない。 ところが日本ではソ連崩壊後にやたらと日本の侵略やあげくは従軍慰安婦ばかりを騒ぎ立てる社会破壊反日(自称朝日)新聞のような 悪質な連中が出てきた。戦争に反対するふりをして日本の欧化をねらふとんでもない帝国主義者どもである。昭和六十一年といへば ベトナム戦争が終つて十一年、ソ連崩壊の六年前。東欧では反ソ蓮の動きが目立つた。西洋列強の帝国主義や戦後のベトナム戦争が 風化し国内で社会破壊反日の動きの萌芽と捉へることができる。尤もこの本はすぐ直後に
これ以上深入りするつもりはないが、なぜこのようなことに言及したかといえば、大戦の政治的結果のうちの重要なもののひとつである 民族解放運動の高揚、(以下略)

とあるように悪質なものではない。この本の残りの部分は昭和五十年に書かれたと言はれても気付かないくらい良質なものである。

十一月九日(日) 非同盟研究序説
昭和六十四年に新日本出版社から発行された。まづ「まえがき」に
非同盟運動は、創始以来、その目的と原則として、反帝国主義、反新・旧植民地主義、反大国主義・覇権主義、異なった社会経済制度を もつ国家間の平和的共存、反軍事ブロック、国際社会の国際政治・経済秩序の民主的改編などを一貫して堅持してきた。

これは今でもそのとおりである。かつての社会党はこの路線だつた。唯一駄目だつたのは非武装中立でその非現実的主張から与党には なれなかつた。しかし社会党がシロアリ民主党と社民党に分裂すると、前者は帝国主義、新植民地主義、大国主義、軍事ブロック、後者は 西洋式社民党になつてしまつた。どちらもアジアの感覚に合はないから衰退した。前者は小沢一郎氏がアジア的なものを持ち込んでくれた おかげで政権を奪取したのに、小沢氏を追い出してシロアリ化してしまつた。
第一部第二章『非同盟の論理と倫理における「アジア的なもの」』では
戦後アジアの新興独立諸国の国家元首、政府首脳たちの平和にたいする、あるいは平和的共存にかんする認識ないしは発想のなかには、 仏教やヒンドゥー教などの宗教思想の投影があり、また、それが「アジア的アプローチ」とも重なりあっていることが看取される。

また非同盟運動の組織・運営の特色として
徹底的な意見交換、異なった意見の可能な限りの調整をめざす協議、そして最後には、多数決を排した「コンセンサス方式」と呼ばれる決定 方式が定められている。

これはバンドン会議にインドネシアが組織・運営に特別の責任を有し
「ムシャワラー」(スペル省略)(討論と協議、話合い)と「ムハカット」(スペル省略)(合意、意見の一致、コンセンサス)というインドネシアの 伝統的な知恵と工夫を基礎にしたとしても不思議ではない。

日本で会議の決定は多数決を採るだらうか。法律で決まつてゐるものは形式的に採決する場合もあるが、普通は合意に基づく。西洋には 西洋の長い歴史がある。アジアにはアジアの長い歴史があるから、それに基づかなくてはいけない。非同盟運動の運営方式こそアジア、 アフリカ、中南米の伝統遺産といへる。


(その一)(その三)

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