六百二十一、岡本古志郎氏の著書を読む(その三、「新植民地主義」)
平成二十六甲午
十一月十一日(火)
昭和三十九年
この書籍は昭和三十九年に出版された。東京オリンピックの年である。所得倍増計画が昭和三十六年に開始され四年目。
日本は得るものと失つたものがあり、私は失つたもののほうが多いと感じる。最初は得るものが多く徐々に失ふものが
多くなつた。三十九年は得るものより失ふものが上回つた最初の年ではないだらうか。
この書籍の「まえがき」は
「新植民地主義(neo-colonialism)という概念は比較的新らしい概念である。「新植民地主義」ということばは、多くの
アジア、アフリカの新興諸国の指導者や、民族解放運動の活動家の口にのぼるし、また、政府や民間の国際会議の宣言、
決議などにも見られるが、その実態および本質を科学的に解明する作業は立ちおくれていた。
新植民地主義は世界からなくなつただらうか。今でも続いてゐるしグローバリズムは新たな新植民地主義である。
最初の原稿枚数は一〇〇〇枚近くになったが、定価をできるだけ安くしたいというわれわれの希望から(中略)を全文削除、
(中略)をカットするなどの処理をせざるをえなかった。
この本の定価は五百五十円。今の価格にすると七千円くらいだらうか。まだまだ物が貴重な時代であつた。
十一月十二日(水)
戦後の世界情勢
アジア・アフリカ諸国が政治的独立を獲得むした事態を、ただちに植民地体制の崩壊と規定できるだろうか。(中略)レーニン
が指摘したように、帝国主義の時代には、さまざまの従属の形態がうまれるのであって、広義の従属国にはかなり広範囲な
国が含まれるからである。(中略)レーニンは『帝国主義論ノート」において、当時の世界の諸国家を次のような基準にもとづいて、
四つのグループに分類しているのである。
(一)金融的にも政治的にも自立している国家−イギリス、ドイツ、フランス、アメリカの四カ国。
(二)金融的には独立していないが政治的には自立している国−ロシア、オーストラリア、トルコ、西ヨーロッパの小国、日本、
中南米の一部の国家。
(三)金融的に従属し、部分的に政治的に従属している半植民地−中国など
(四)植民地および政治的従属国(以下略)
つまり日本は金融的には独立してゐなかつた。そのため大恐慌の影響を受けて大変なことになつた。そんなことは戦前戦中
戦後も皆判つてゐた。だから戦犯の遺族に年金を支給する法案に共産党も賛成したのである。ところが米ソ冷戦終結後は
帝国主義国勢力つまり(1)にすり寄る論調が社会破壊反日(自称朝日)新聞や国売り(自称読売)新聞を中心にさかんに拝米
をばら撒いてゐる。
十一月十五日(土)
戦争の原因は帝国主義といふ観点が最近は抜けてゐる
以上をまとめると近年における戦争は帝国主義つまり独占資本が引き起こしたものであり、帝国主義の大本がアメリカである。
こんなことは昭和五十五年前後までは一般常識だつたが日本では英語公用語が現れた辺りから突然、日本文化が戦争を引き
起こし、民主主義といふ名の拝米が平和勢力だといふ奇妙な主張が現れ出した。英語公用語論で明らかなように、社会破壊
反日(自称朝日)新聞はその中心勢力である。
戦争の原因は帝国主義でありその大本がアメリカ帝国主義といふのと、日本文化が戦争を引き起こしたからアメリカ崇拝と西洋
化が平和だといふのでは主張が正反対である。こんなでたらめを元の革新勢力、今の左翼崩れ、リベラル、拝米勢力は主張して
ゐる。悪質なものである。
このあとこの書籍は各論に入り、まづインドにおけるネルーの変節を述べる。この書籍はネルー批判を共産主義の立場で書き、
それはそれで地主勢力など自分の利益のみを追求する勢力を批判するので同感である。しかし共産主義勢力はどうなのか。
すべての権力者は権力亡者になる。この観点が必要である。しかし昭和三十九年はホーチミンの清貧の生活が世界に喧伝され、
それは米ソの宣伝合戦の結果だから批判すべきではない。しかしホーチミンが清貧をせざるを得なかつたのは米ソ冷戦に巻き
込まれたのが原因であり、本来は欧州または米ソで行ふべき戦争をアジアで引き受けたホーチミンの贖罪であらう。
十一月十六日(日)
アジアにおける新植民地主義
次は沖縄問題である。この当時沖縄はアメリカの占領下であつた。
沖縄がおかれている状態は、アメリカ帝国主義による新植民地主義的支配である。と同時にこの新植民地主義支配を日本独占
資本が支持し、補強している。
これは正しい。ただし日本独占資本とは決して一握りの人たちだけではない。大企業の社員といふ名の従業員は将来社長或いは
取締役になるかも知れないといふかすかな期待と、管理職くらいはなれるといふ大きな期待を与へられる。つまり独占資本は広範囲
の人が含まれる。
一九五〇年三月には、沖縄の"国旗(?)"を制定することが、ある程度まともに考えられていたようだ。(中略)軍意を受けた沖縄民政府
はすぐさま、当時首里の一角『美術村』で組織されていた美術家協会に正式に諮問を出し(中略)沖縄旗のデザインは、旗地を横に
三等分して上は青、中は白、下は赤で、青の部分の左肩に白い星をつけてあった。
アメリカは、ここまで考えていたのである。国際情勢からいっても、沖縄内部でまだ大きな大衆闘争が起っていないという情勢から
いっても(中略)この一、二年がアメリカ帝国主義にとって最後の機会となった。一九五四年からは「島ぐるみ」の土地闘争がはじまった。
この闘争が、沖縄を「独立国」として日本から分割することを試みたアメリカ帝国主義の計画を永久に葬ったのである。
アメリカは更に日本政府にたいして沖縄への立入りを禁止した。
日本政府の「高官」といわれる人物が沖縄を訪問するようになったのはごく最近のことであり、こういう「高官」を沖縄に呼ぶことが
むしろ得策だとアメリカが考えはじめたのは新安保条約締結以後である。
その後アメリカは沖縄を返還したほうが得策だと考へたし、左翼を左翼崩れにして拝米反日勢力にしたほうが得策だと考へたし、
新自由主義を育成してグローバリズムで海外負債を一掃することが得策だと考へるに至つた。
次はマレーシアで本文の引用は避けるが、興味深い注釈がある。
マラヤとシンガポールを単純に合併すると、人口比率ではマラヤ人の三五三万にたいして、中国人は三七五万(うちシンガポール
では一三〇万)、インド人その他は八八万、と中国系が優勢になってしまうので、英領北ボルネオ諸地域を加えて、マラヤ人の優位
をはかった。(「マレーシア連邦」内では一〇〇〇万の人口(中略)、マラヤ人が四一.五%、中国人が三八%を占めることになる。)
第二に、シンガポールの住民は「マレーシア連邦」のなかで他地域と対等の加盟者とはならず、代表選手つけんその他で大きな制約
をうけることになった。
この書籍は昭和三十年代の日本の思考を伝へる記帳なものである。いやこの本ばかりでない。昭和五十五年あたり以前の書籍は
米ソの冷戦下でどちら側に付くかといふ苦渋の選択はあるものの、文化的には拝米の偏向のないものである。今後の日本の独立を
考へるときに貴重な文献となることは間違ひない。(完)
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