六百十、田中智学と牧口常三郎、戸田城聖。国柱会と創価学会、顕正会

平成二十六甲午
九月八日(月) 顕正会男子部大会、その一
仏教の瞑想の方法として阿弥陀仏や法華経や真言を信じる方法もある。日蓮についても私はそのように位置付けてゐる。 日蓮の予言が正しければ既に日本中が日蓮信者になつてゐなければならないのだが、さうなつてゐない。日蓮を嘘つきに しないためである。
そのようななかで顕正会の男子部大会が昨日あつた。動員は大変である。だから協力できることは協力し出席すると回答 し約束どおり昨日参加した。十二時開会で十二時に到着し受け取つた券は観客席の二列目でよい席であつた。早く行か ないとアリーナ席は取れない。しかし観客席も悪くない。
城内整理は女子部、婦人部が担当し、通路で弁当を食べる人、足の具合が悪いのか通路の椅子席でテレビ画面を見る人 たちなど多彩であつた。これら純粋な人たちの努力を無駄にしないためどうしたらよいか。それを考へながら指定された席に 座つた。余興の太鼓が終はり演奏と合唱が行はれてゐた。星落秋風五丈原の合唱もあつた。土井晩翠が作詞し作曲者不詳。 創価学会元会長戸田城聖の好きな曲で創価学会の幹部会ではときどき演奏されたが、顕正会でこの曲が聴けるとは想定外 の歓びである。
今回は田中智学に比較して牧口常三郎と戸田城聖、国柱会と比較して創価学会と顕正会を見たとき、どちらも後者は二つ である。ここに後者の欠点が生じる。そのような視点で論じたい。今回は日蓮、戸田城聖と過去の人は敬称を省くがこれは 一般向けだからである。国柱会の分裂した各団体の人や学会員や顕正会員と話すときは日蓮聖人または日蓮大聖人と 呼ぶし学会員と話すときは戸田会長と呼ぶ。

九月九日(火) 顕正会男子部大会、その二
入場したのがぎりぎりのため式次第がなかつた。だから記憶を頼りに書くと、大会では研修生として来日して顕正会に入会 し帰国後も信心を続ける中国人が登壇した。宗教はその土地に合つたものが一番よい。風土に合つたばかりか文化に 合ひ文化も影響を受けてきたからである。しかし欧米人で仏教を信仰したりアジア人でキリスト教やイスラム教を信仰する 人がゐればこれも尊重すべきだ。日蓮については日本から唐、月氏と西に広がることを予言したのだから西に広まるのは よいことである。中国にとつては日本の事情は関係がないが外国宗教の伝来以上に仏教再興といふことで温かく見守つて ほしい。国民の精神が安定することは国のためになる。

次に元幹部自衛官が登壇した。防衛大学校を卒業し幹部自衛官だつたが、自衛隊に顕正会が進出してゐるといふ虚偽を 流されて顕正会の自衛隊員は皆、へき地に飛ばされたりした。この方は顕正会活動ができなくなるので退職し、しかし今でも 顕正会の主に自衛官で構成される組織で活動してゐるさうだ。確かに今から十年くらい前だらうか。週刊誌に顕正会員が 自衛隊に進出してゐるといふような記事がさかんに載つたことがある。そのため顕正会員をへき地に隔離したのだらうが 今では上層部の誤解も解けたといふ内容であつた。そのようなことがあつたのだから防衛省はこの型を特例で幹部自衛官 に戻したらどうか。でたらめな風評で人事を行つてはいけない。

妙信講時代から信心を続けた老班長の亡くなつた話も紹介された。大会らしい立派な発表が続いた。唯一の欠点は拍手が 長い。勿論その発表内容に拍手を惜しまない気持ちは判るが、世間から余りに乖離が過ぎると世間から誤解の原因になる。 あと公称会員百六十万人にしては男子部五万人大会の出席者を無理やり集めた感がする。拍手の仕方や話の聞き方で 参加者がどの程度かは判る。無理な布教で脱落者が多く活動者は極めて少ないことが判る。

浅井会長の諸天善神と天界の話はよかつた。昭和四十五年辺りから創価学会は宇宙が一つの生命で諸天善神はその生命 の働きだといふ奇妙な説を唱へるに至つた。私は教義の唯物論化といふ言ひ方をしたが、正しく言へば日本が敗戦により 神道から西洋式唯物論に変化したことによる教義改変である。三十年間さう思つてゐたがミャンマー上座部仏教の経典学習会 に参加して天界と神々の話を聴いてますますこれが正しいことを確信した。上座部仏教も日蓮も天界の解釈は同一である。 ところが正信会の機関紙「継命」にも一回だが創価学会式の解釈が載つた。それに対して浅井会長は正しい諸天善神と天界の 話をされたのでよかつた。

九月十日(水) 田中智学と牧口常三郎、戸田城聖
田中智学は中山法華経寺系の末寺で出家したが明治維新後に還俗し、在家団体を創設し幾たびの名称変更を経て国柱会 と名乗つた。大石寺末の講中と横浜問答と呼ばれる法論になつた。このとき智学は大石寺の教義は駄目だとすぐに判断した。 その理由はすべての本尊が戒壇本尊の写しだとする大石寺の歪曲した教義であらう。しかし中山法華経寺系或いは身延山 久遠寺系から見ると大石寺を含む富士門流の教義に日蓮の真意を伝へることを知り、富士門流ではあるが教義の大きく異なる 北山本門寺と関係を深めた。
牧口常三郎は創価教育学会といふ教育学の団体を創設したが、後に大石寺末の東京池袋常在寺の講中から布教されて入信 した。その後、創価教育学会は大石寺末の信徒になることを入会条件として宗教色を強めたが日本全体への布教まで考へた 訳ではなかつた。末寺が数十に過ぎない弱小宗派に所属しただけだつた。戦後戸田城聖は創価学会と改め完全な布教団体と して躍進したがそれは個人関係に頼つて布教をするといふ禁じ手を使つたからだつた。しかし当時の日本の惨状を考へれば、 また破竹の勢ひで増大する信徒数から考へれば不況は短期間に終るから禁じ手も許された。さう解釈すべきだらう。

しかし将来の布教完成まで見据へて教義を精選した田中智学と、布教達成を考へなかつた牧口とそれを引き継いで布教を完成 させようとした戸田で、後者の欠点が昭和四十年以降に現れることとなる。

九月十一日(木) 国柱会と創価学会、顕正会
この関係は単独団体としての国柱会と、複合団体として創価学会とその路線を引き継いだ顕正会にも見られる。浅井甚兵衛は戦前 に品川妙光寺で入信し昭和十七年に東京妙信講を結成、昭和二十三年に講中ごと池袋法道会(現、法道院)に移りそこの講中と統合 して講頭になつた。主管は早瀬道応で後に宗務総監として六十六世細井日達管長と池田大作創価学会会長路線を支へ、しかし第一次 宗創紛争のときに学会寄りと見做されて総監を辞職することになるがそれは後の話である。その後、法道会の講中から分離し妙信講を 名乗つた。
あちこち所属を変へること自体は悪くはない。創価学会初代会長牧口常三郎も常在寺に入信したが後に中野教会に移動し、そこでも 主管と不仲になつた。

妙信講の初代講頭浅井甚兵衛は戦前からの活動家だが法道会から独立する辺りから創価学会路線の後継団体と言へる。宗門は 戦後まもなく一寺一講中を宗制宗規で規定し末寺の講中は法華講何々寺支部として統合された。妙信講は宗務院から公認されない 状態だつたが、後に六十五世堀米日淳から特例で法華講支部妙信講として認証された。日淳は若い時代は中野教会主管として牧口、 戸田を指導し、池田大作の持つお守りご本尊は「中野教会信徒 池田大作」と書かれてゐる。ここにも創価学会と顕正会の接点がある。

九月十四日(日) 創設時と後継時の相違が生む欠点
以上見てきたように創価学会と顕正会はともに、創設時と後継時で性質が異なる。だから創設時に戒壇本尊根源論の欠点を見逃した。 もう一つ貫首絶対論があるが当時はまつたく問題にはならない。前貫首が複数存在し特に五十九世堀日享は権威主義の嫌ひな方だつた。 宗会や参議会も正常に機能した。ところが昭和三十四年に六十五世堀米日淳が六十六世細井日達に相承しその二日後に遷化すると、 前貫首は存在せず創価学会が会員数を増大させた時期でもあり細井日達、池田大作の両氏による宗内独裁体制になつた。得度する弟子 は末寺の住職ではなく貫首の弟子となり( 創価学会が作成したと思はれる動画へ)、末寺は棟札を書くことを禁止され、宗会は定員しか立候補せず、宗務総監は貫首が指名 することになつた。
日達は次に相承せず遷化し、戒壇本尊は日禅授与の本尊を模刻したことも明らかになつた。ここに創価学会と顕正会がそれぞれ二段階 故に見逃した欠陥を克服したことになる。今後創価学会と顕正会がすべきは、大石寺だけではなく旧本門宗全体の隆盛、更には日蓮宗を 含む日蓮門下全体の隆盛を考へるべきだ。江戸時代に大石寺の高僧となる僧侶は細草団隣で学び、ここは旧本門宗だけではなく法華宗 本門流、本門法華宗の僧も学んだ。創価学会が出現してから大石寺は特に他の門流を排斥するようになつたが、細草壇林の時代に戻る べきだ。

九月十五日(月) 地域性の維持
日蓮が日本で生まれた以上、日本に合つた地域性を持ち、仏教が末法には来たときと逆に日本からインドに広まると日蓮は考へたから そこに東アジアの地域性も持つ。戸田城聖氏は日本と東アジアの地域性を持つてゐた。それは大楠公と星落秋風五丈原の歌を好んだこと にも現れる。しかし池田大作にはない。私が世間でいふ民族性(私は民族といふ語はほとんど使はないから地域性)を持つのは、池田大作 のいふことではなく戸田城聖のいふことなら正しい。そのことに気が付いて古本屋で戸田城聖の書籍を購入し読んだことが大きい。私の 地域性(民族性)は戸田城聖ゆずりである。
日本全体を見回すと世代間の引継ぎがうまく行つてゐないから池田氏だけの責任ではない。一方で日顕師は地域性を持つ。戦時中は海軍 に学徒出陣し終戦時は中尉だつた。だから丑寅勤行で居眠りすると多少は暴力を振ふことはあるかも知れない(創価学会が作つたビデオは 誇張が過ぎる)。しかし総坊や正本堂を建て直し西洋化の行き過ぎを補正してその点は立派である。一方で今の日如師は不明である。御書 英語化委員会を立ち上げ再び西洋化路線に戻つたように思へる。浅井昭衛氏は地域性を持つ。おそらく戸田城聖氏と同等である。(完)

九月十七日(水) (付録)最勝閣
田中智学は中山法華経寺の末寺で出家したが、後に富士系の教義を知り富士戒壇論を唱へた。そして駿州三保に最勝閣を建立した。これまで 最勝閣についてはほとんど気に留めなかつたが、調べるとなかなか奥深い。清水市街から羽衣橋といふ木造で長さ500mの橋が掛けられた。 三保の人たちにとつては半島をぐるつと廻る手間が省けて好評だつた。橋の先に竜宮城のような最勝閣があつた。最勝閣は羽衣橋から左に 入つた、今の中部電力新清水発電所の先である。最勝閣から北西を見るとその先は海で富士宮を経て富士山に至る。戒壇建立地の背後に 富士山を観る最景勝の地であつた。近衛文麿や北原白秋が長期に滞在した。
ところが清水港の工事で北西が埋め立てられることになつた。現在日軽金の工場がある場所である。海が埋め立てられると戒壇や富士山との 間が工業地帯になつてしまふ。智学は昭和の始めに最勝閣を撤退した。これで日本は駄目になるといふようなことを言つた。

九月二十三日(火) (付録)大宮正因寺
顕正会男子部大会の行はれた大宮に正信会の正因寺があつた。昭和三十年に創価学会二代目会長戸田城聖により寄進され開基は六十四世 水谷日昇である。初代住職は矢島秀覚だつた。戦時中に創価教育学会初代会長牧口常三郎が獄死し、戦後に戸田が会長空席のまま理事長と して活動を開始したが経営する信用組合が大蔵省から事業停止になり理事長を辞任。後任の理事長が矢島周平で戸田が会長就任時に辞任し 後に出家して矢島秀覚となつた。
当時の本堂をそのまま残し新しい本堂が手前にあつた。新しいといつても昭和四十二年だから畳敷きで暖房は石油ストーブである。日本が 経常黒字となる以前の古きよき時代だつた。二代目住職は矢島覚道で初代のご子息である。第一次宗創扮装のときは正信会に属し、日達師遷化 の後は顰斥(ひんせき、僧籍剥奪)になつた。すべての正信会寺院は宗務院側と裁判になつたが、現住職が在職中は立ち退きを求められないこと で判例が確定した。だから昭和四十年代のなつかしいの建物が残つた。数年前に参詣したところ御影像も安置されてゐた。ところが今年六月に 住職が亡くなつた。そして宗務院側に明け渡された。明け渡されたときの法要の写真が宗務院側の雑誌に載つたが畳敷きなのに皆がパイプ椅子 に座つてゐる。ずいぶんあきれた連中である。


大乗仏教(日蓮系)その十四
大乗仏教(日蓮系)その十六

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