六百九、1.J法律事務所六十年、2.J出版社と自由法曹団

平成二十六甲午
九月六日(土) 労働J法律事務所の誕生
私は労働弁護士の講演を聴く機会は多いが訪問した事務所は一回だけである。四年ほど前に或る 組合員の付き添いでJ法律事務所を訪問した。たくさんの労働弁護士が所属し、今年六十周年 を迎へた。J事務所の広報誌に六十周年を記念して「クローズアップJ法律事務所」といふ特集が あつたので、紹介したい。
1954.5に港区芝田村町の労働法律J社に労働J法律事務所として誕生した。日本初の労働 弁護士の共同事務所である。
1954.6 【ほとんどが民間労組事件】組合活動が活発になった このころ、全国金属、全国一般、全印総連などの中小の民間労組事件が多かった。労働組合を 結成すると同時にストライキ宣言をして闘争に入るので、弁護士は多忙を極めた。弁護士が 労働者の相談相手となり、事件を一緒に闘うというパターンがこの時代からは大変多かったと いえる。

九月六日(土)その二 砂川基地闘争
1955.5 【砂川基地闘争】5月4日、政府の砂川米軍基地拡張の 発表と同時に展開された闘いは、砂川町議会の「基地拡張絶対反対の緊急動議」満場一致の 可決で町ぐるみの闘いとなった。久保田昭夫弁護士らが闘いに参加し(中略)1968年12月、 政府は基地拡張計画の中止を発表。闘いは終わった。

九月六日(土)その三 事務所移転と名称変更
1973.4 取り扱ふ事件が公害薬害被害者、消費者に拡大したため、名称を労働J法律事務所 から今のJ法律事務所に変更。五月に港区芝西久保巴町から現在の有楽町に移転した。

九月七日(日) 労働法律J社
次に労働法律J社についてインターネットで調べると、
1949年11月、産別会議法規対策部に結集する自由法曹団の労農弁護士・学者・運動家が、産別会議解体の中で、(中略) 労働判例の紹介、解説、検討を目的に創刊した雑誌『労働法律旬報』の刊行とともに労働法律J社は設立されました。


とある。1961年、労働法律J社から労働J社に社名を変更、84年に文京区目白台に移転、96年社名を現在のJ社へ改め、 生活・健康・福祉など、より人びとの生活に密着したジャンルの企画の開発に取り組みと ある。今でも共産党系の自由法曹団と関係が強い。J法律事務所は旧社会党系の労働弁護団と関係が強いから二つの流れに分かれた。

九月七日(日)その二 自由法曹団
自由法曹団が共産党系だといふことは知つてゐるがそれ以上のことは判らないので、この機会に調べることにした。ホームページを見ると
1921年(大正10年)に神戸における労働争議の弾圧に対する調査団が契機となって結成された 弁護士の団体です。2011年には創立90周年を迎えました。広辞苑でも「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利の擁護伸張 を旗じるしとする。」と紹介されています。
団の目的は、「基本的人権をまもり民主主義をつよめ、平和で独立した民主日本の実現に寄与すること」であり、「あらゆる悪法とたたかい、 人民の権利が侵害される場合には、その信条・政派の如何にかかわらず、ひろく人民と団結して権利擁護のためにたたかう」(規約2条) ことです。


とある。共産党系の団体で気になるのは、弁護団が自由法曹団、商工団体が民主商工会。両方集めると自由民主党である。封建時代 にあつては自由と民主主義を求めることは必然である。しかし達成した後で叫ぶと社会破壊と新自由主義に陥る。ここで資本主義は自由と 民主主義が不十分だといふ言ひ方もあり、共産党系の団体はそこを目指すのだらう。

しかし民主主義は本当は悪魔の思想である。51%を確保すれば49%を切り捨ててよいといふ恐ろしい方法である。過去の海外では ユダヤ人虐殺、今の日本では非正規雇用者の切り捨てはまさに民主主義の欠陥である。
別の見方もあり、今の日本は新聞とその子会社のテレビ局が拝米反アジアか拝米反日だから極めて偏つてゐる。日本にはニセ労組連合 が最大の組織だがこれはユニオンショップと組合費天引で発生した寄生虫組織だから労働組合ではない。だから日本の民主主義は偽物の 民主主義だといふ言ひ方もできる。本物の民主主義にするには選挙が始まる一ヶ月前から選挙の報道は一切禁止し、選挙ポスターに顔写真 は禁止し、経済団体、労組、宗教団体による推薦も禁止し、議員の歳費は最低賃金または国民の平均賃金にして秘書は廃止する。ここまで やればかなり良くなる。しかしこれでも不十分である。まづ民主主義は手段であつて目的ではない。ここをはつきりさせないと、菅や野田や その亜流がこれからも出てくる。(完)


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