五百九十、山口県はなぜ菅、亜倍といふ悪質な政治屋を生んだか(その一、田中彰著「高杉晋作と奇兵隊」)

平成二十六甲午
七月十六日(水)
図書館で偶々本棚に田中彰氏「高杉晋作と奇兵隊」を見つけた。読み終へた第一印象はこれまで 木戸孝允は吉田松陰や高杉晋作と並ぶ善人、伊藤博文や山県有朋は菅や亜倍と並ぶ悪人といふ ものだつたが、木戸孝允も明治維新後に奇兵隊など諸隊を弾圧した悪人といふことが判つたことで ある。
ロシア革命の後にまづ革命系諸党のうち共産党以外が弾圧され、スターリンの時代にはライバルが 次々に殺害された。明治維新後の諸隊への弾圧はそれと変らない。そればかりではない。せつかく 鳩山政権が誕生したにも係らず菅といふ悪人が前原、野田など新自由主義勢力に魂を売つて悪政 を行なつた。これも同じ原理である。

七月十七日(木) 序と第一章
奇兵隊について読むのはこの本が初めてなのでこの本を紹介した。それだけに留まる。この本は 序が極めて悪い。アメリカ独立二百年の前年の話から始めてミニットマンがイギリス軍と戦つた話を 始める。高杉晋作と奇兵隊を論じるのにこの書き方はないだらう。といふことで序は無視して早速 本文に入りたい。
この本の書かれたのは1985年。まだプラザ合意の前だから今ほど西洋猿真似ニセ学者が国内に 幅を利かせることはなく、従つて本文は西洋からの視点ではない。第一章は高杉晋作が文久二(1862) 年、上海にゐるところから始まる。高杉は大組(明治元年に中士上等と改称)の二百石で松下村塾 の同門には
久坂玄瑞(義助、藩医、二五石)をはじめ、吉田稔麿(無給通、むきゅうとおり<下士上等>、扶持方 三人高一二石)や品川弥二郎(三十人通<準士下等>、七石)、伊藤利助(博文、家は畔組、くろ がしら[組頭])、山県小輔(狂介、有朋、無給通)

がゐた。高杉の石高の多さが目立つ。

天保二(一八三一)稔に瀬戸内地帯を中心に大一揆が起きた。長州藩は藩政改革に着手し、その 間に村田清風(大組、一六一石)、周布政之助(大組<中士上等>、六八石)の系譜の改革派と 坪井九右衛門(大組、扶持方五人銀二五〇目、<高直、たかなおし四七石>、椋梨藤太(大組、 四六石)の保守派に分かれた。ここでは改革派のほうが石高の大きいことが注目される。
改革派が正しく保守派が悪いとは一概には決められない。それはNHKの大河ドラマ「花神」( 昭和五十二年)で椋梨藤太は内田稔が演じてそれほど悪い役ではなかつた。勿論農民の 税金の上で世襲生活をする武士どもはけしからぬがそれは改革派も保守派も同じである。

七月十九日(土) 高杉晋作の漢詩
高杉晋作は元治元(一八六四)年、野山獄で二年前の上海行きを詠んだ。書き下し文は 田中氏とは別に作つた。
原文書き下し文
単身嘗支那邦        単身嘗(かつ)て支那の邦に到る
火艦飛走大東洋   火の艦大東洋に飛走す
交語漢韃与英仏    語を漢韃と英仏に交ゆ
欲捨我短学彼長    我が短を捨て彼の長を学ばんと欲す

高杉晋作の時代だけではない。山本五十六の旧家を見学したとき漢詩が掛けられてゐた。 日中国交回復のとき、田中角栄は北京で漢詩を詠んだ。あれから四〇年。日本は確実に悪く なつた。

七月十九日(土)その二 軍制改革
長州藩の軍制改革は尊王攘夷が発端であつた。
洋式の銃陣訓練となれば、それは銃隊操練が中心となるから、中間(ちゅうげん)や足軽など の軽卒の役割は増大する。これまでの石高を基準とした藩士の編成では対応できないのである。 (中略)すでに周布政之助は、万延元(一八六〇)年閏三月五日、宍戸九郎兵衛(大組、一二〇 石)あての手紙に、もはや軍事は歴々の上層武士のみの問題ではない、と述べていた。つまり、 下士から足軽・百姓までも動員すべきであり、藩士の所領では家数に応じて銃隊を編成し、それ に対応して諸氏を在郷させれば、いわゆる武士土着論が実行できるし、難渋民の救助にもなり、 かつ奢侈に流れる風俗を質素にもすることが可能だ、というのである。

ここまで周布政之助の主張に全面賛成である。長州藩の改革派に悪い印象しか持たないのは 明治維新以降先の大戦に至るまで明治政府のやつたことが余りに悪いからである。しかし後に 高杉晋作は病死、周布政之助は切腹する。悪いのは改革派ではなく改革派の後に生き残つた 連中である。ここで鳩山政権の後に生き残つた菅や亜倍との共通点が浮かび上がつてくる。
文久三(一八六三)年四月、藩は村々の「頭(かしら)百姓」 層をよび出して外圧の危機をアピールした。壮年の者は農業の合間に訓練をし、裕福な者は 刀・弓矢・鉄砲などの武器を整備するように諭したのである。


奇兵隊は高杉晋作の発案だといふ書籍が多いが、藩が農民町民の武装を進め、高杉はその うちの有志で奇兵隊を作つた。奇兵隊を藩に認めさせ金を出させ、豪商からも寄付を集めた その力量こそ評価すべきだ。

七月二十日(日) 文久三年の政変
文久三年の政変で尊攘派は京都を追はれた。長州では保守派の坪井九右衛門、椋梨藤太が 藩執行部の責任を追及し、周布政之助、毛利登人、前田孫右衛門は九月一日解任された。 そして奇兵隊解散論が起きた。
そのころ京都を追はれた三条実美ら七卿が長州に到着し尊攘派は反撃を試みた。九月十日 高杉晋作が政務座役に返り咲いた。そして周布、毛利登人、前田は復職し、椋梨らは隠居や 遠島、坪井は切腹を言ひ渡された。
私が改革派に不信を持つ二つ目の理由はここにある。反対派を遠島や切腹にしては駄目である。

七月二十日(日)その二 奇兵隊の組織
奇兵隊の入隊者は伍といふ五人前後の組織に所属し、伍は伍長が掌握し、奇兵隊総菅が 伍長を指揮する。総菅の元で伍長会議があり、隊内の意見はここで決定された。
高杉は、奇兵隊士の一言一行は防長二国の「人民手本」でなけ ればならないから「各伍相調、愚物軽薄物早々沙汰せよ」と命じている。
人数が増えると五つ程度の伍で隊を編成するようになつた。伍長会議は隊長・伍長会議に なつたが、元治元(一八六四)年前後から隊長会議に比重が移つた。この年は
修験僧一五名が奇兵隊に協力して玄武隊と称した。
維新の後に明治政府は神仏分離は廃仏毀釈を行ひ、修験道に至つては実質的に消滅した。 そればかりではない。奇兵隊をはじめ諸隊を弾圧し多数の刑死者を出した。功績者を使ひ捨て にする実に悪質な行為だがそれは後の話である。

七月二十日(日)その三 第一次長州征伐
幕府軍の第一次長州征伐を前に、藩は保守派が圧倒した。御前会議の終了後に周布政之助 は自尽した。そして改革派の面々は罷免され椋梨藤太ら保守派が復帰した。そして藩は各隊に 解散命令を下した。各隊は次の諭示を隊内に伝へた。
一、礼譲を本とし、人心にそむかざる様肝要たるべく候。礼譲とは尊卑の等をみださず、其分を 守り、諸事身勝手無之(これなく)、真実叮嚀(ていねい)にしていばりがましき儀無之様(これなき よう)いたし候事。
一、農事の妨(さまたげ)少しもいたすまじく、猥り(みだり)に農家に立寄べからず、牛馬等小道に 出遇(であい)候わば道べりによけ、速に通行いたさせ可申(もうすべく)、田畑たとい植付無之候 所にても踏みあらし申まじく候。
一、山林の竹木・櫨(はぜ)・楮(こうぞ)は不及申(もうすにおよばず)、道べりの草木等にても伐取 (きりとり)申まじく、人家の果物鶏犬等を奪候抔(など)は以(もって)の外に候。
一、言葉等叮嚀(ていねい)に取あつかい、聊(いささか)かもいかつがましき儀無之、人より相した しみ候様いたすべく候。
一、衣服其外の制、素(もと)より質素肝要候。
一、郷勇隊のものはおのずから撃剣場へ罷出(まかりいで)、農家の小児は学校への参り、教を受け 候様なずけ申(もうす)べく候事。
一、強き百万といえどもおそれず、弱き民は一人と雖どもおそれ候事、武道の本意といたし候事。


毛沢東の三大事項八項注意に匹敵する諭示である。田中氏は第一条の「礼譲」「尊卑の等」を以て 第一条をタテの関係、第二条以下を横の関係とするが、私は第一条もヨコの関係だと解釈する。 決して石高だとか身分とは言はないからである。
保守派の藩は戦ふことなく幕府軍に屈した。禁門の変の責任者の三家老四参謀を切腹・斬首にした。

七月二十日(日)その四 功山寺決起
西郷隆盛が馬関に来て五卿の九州移転を画策し、高杉はこれに反対した。奇兵隊総管の赤根武人 が藩との妥協を試み妥協が成立すれば五卿移転は解決するはずだつた。、諸隊は赤根に傾いた。
高杉は諸隊を説得したが諸隊は動かなかつた。高杉は同調した力士隊の伊藤博文など少数 で功山寺で決起した。翌日藩は諸隊への人馬継ぎ立て、米銀貸与、食料その他の売り渡し禁止を 藩内に命じた。その二日後に諸隊が萩の藩政府攻撃のため伊佐村に集結した。赤根は脱藩した。
この日、改革派の前田孫右衛門、毛利登人、大和国之助、渡辺内蔵太、山田亦介、楢崎 弥八郎、松島剛蔵らは斬られた。
藩政府は軍を出し諸隊に兵器の返納、隊員の帰家を命じた。ここで両軍は激突し、 もっとも激しい戦いが絵堂の会戦である。
田中氏は会戦の内容には触れないが調べて驚いた。一月六日から十六日までの死者は藩が四十名、 諸隊が二十四名である。藩は敗北でも何でもない。しかしその後、中立を自称する藩士二百名による 鎮静会議員の斡旋を双方が受け入れて保守派は退陣した。椋梨は脱走を試みたが津和野で捕はれて 断罪になつた。NHKの大河ドラマ「花神」では赤根武人と椋梨の処刑はそれぞれ赤根、椋梨に同情的 に描かれてゐた。明治維新後の諸隊への弾圧を考へれば同情的なのは当然である。

七月二十日(日)その五 攘夷から開国倒幕へ
慶応元(一八六五)年三月一五日、鎮静会議員を中心に干城隊が組織され、 公認された。(中略)「有志」の隊としての諸隊に対し、これは世禄隊といわれた。(中略)高杉は藩主を ふたたび山口へ戻し、その山口に干城隊を「常居」させ、その干城隊が「政府の命を請け、諸隊に号令」 する体制を念頭においていたのである(中略)。彼らは正義派から脱皮し、討幕派として転生していた。 討幕派は、攘夷よりも開国を、幕府との妥協よりも武力決戦をめざしていた。

攘夷から開国に転じたのは四ヶ国軍艦による馬関攻撃が一つの理由ではある。しかし藩の実権を握り 藩内の士族、農民、町民に対し攘夷のふりをする必要がなくなつたことが大きいのではないか。更に 言へば嘘をついて騙す必要がなくなつたことだ。菅と亜倍の嘘の根源である。

第二次長州征伐では、長州軍が、石州や小倉方面での占領地で民心の 動向に留意し、民政への配慮を払っていることは注目してよい。(中略)対する幕府軍は、本営大坂城 周辺も近畿一帯におこる一揆・打ちこわしのときの声におびやかされ、先鋒総督自身も紀州藩内の農民 の不満をおさえきれなくなっていた。江戸でもつぎつぎに打ちこわしがおこり、(中略)欧州でも諸物価の 値上りや農民生活の困窮が私的され、国内戦争反対の叫びがあがっていた。


七月二十一日(月) 諸隊の半分を使ひ捨て
鳥羽伏見から函館までを戦つた諸隊は長州に凱旋した。しかし明治二年十一月藩は諸隊を常備軍に 改編する通達を出した。
この「精選」によって排除された諸隊の隊員たちは、諸所に集合し、不穏な動きを示していたが、明治 二年一二月一日夜、彼らは歎願の趣ありと称して山口を脱し、多くは瀬戸内の三田尻一帯に走った。

どの隊もほぼ半分で合計1200名に達した。しかも
脱隊兵士は農民出身が半数を占め、町人や社寺出身者を合わせると六一%、陪臣まで含めると、約 七八%に達する。反乱の主体がどこにあったかがわかろう。

かつては農民や町民を武装しておいて用が済めば使ひ捨てにする。悪質な連中である。菅や亜倍といふ 悪質な政治屋がなぜ出現したかもこれで判るといふものである。
脱走者探索の名簿のなかには、国木田独歩の小説「富岡先生」のモデルといわれる富永有隣や大楽( だいらく)源太郎らの名もみえる。
富永有隣は(中略)野中獄中で吉田松陰と相知り、免されて松下村塾の賓師として松陰を助けた。慶応 二(一八六六)年の四境戦争では鋭武隊を率いて戦ったが、諸隊反乱の巨魁の一人と目されたのである。
大楽源太郎は(中略)僧月性(げっしょう)の感化をうけ、(中略)功山寺決起には佐波郡防府一帯の 有志や浪士からなる忠憤隊とともに参加した。


尊皇攘夷の運動には月性のように僧侶も参加したが明治政府は廃仏毀釈を行なつた。だから翌年再び 反乱が起きた。
寺院が拠点とされ、リーダーのなかに僧侶がいるのは、当時進行していた廃仏毀釈運動とも関連すると みてよい。

山口藩では強硬な弾圧が行なはれたがその中心に木戸孝允と広沢真臣がゐた。(完)


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