五百六十一(己)、1.生野善應師著「ビルマ上座部佛教史」、2.二つの瞑想法、シュウェジン派、モン族、分別説部
平成二十六甲午
五月三十日(金)「サーサナヴァンサ」
次に昭和55年に浄土宗光福寺住職、芝中・高等学校教諭の生野善應師がサーサナヴァンサといふミャンマー上座部の歴史を翻訳し、ビルマ上座部概要や地図、年表を追加した書籍を紹介したい。
『サーサナヴァンサ』は、がんらい、ビルマ上座部しかも特定の一系統の視座からの記述であるから、客観的なビルマ仏教通史とはいい難いものがある。しかし、E・メンデルゾーン教授をはじめ、現在のビルマ学の諸学者の多くは、これをビルマ上座部史を学ぶ基本的文献資料として扱っており、(以下略)
ミャンマーの仏教を紹介するのにE・メンデルゾーンを冒頭に挙げることはない。それでは西洋人を冒頭に出せば自分の著作が優れてゐるように見えるといふ兵頭裕己氏と何ら変らない、と云ふべきところだが生野善應師は偉い。昭和三八年から四一年まで米国クレモント神学校研究生として留学しながら欧米かぶれの傾向がまつたくないからである。これは昭和五十年代辺りまでは普通の傾向だつた。日本が変になつたのはプラザ合意以降に円高で急速に欧米文化が流入したことと、マッカーサの戦後の偏向教育のせいで米英仏帝国主義は正しいが日本帝国主義は間違つてゐるといふ奇妙な世界観を持つ人が増へたためである。私の感覚では帝国主義はすべて悪い。
五月三十一日(土)「十七年を掛けた貴重な著作」
私が『サーサナヴァンサ』を読みはじめてから、はや一七年になる。(中略)はじめは、英訳もあるからと気軽にやりだしたが、貧弱なパーリ語の知識のために、またビルマの知名、王名、官職名、独自の宗教用語が夥しくでてくるために、一読したもののさっぱり分らなかった。
その後、(中略)学術調査団に加わって留緬し、ビルマ僧院に比丘となって起居した折、師僧ティーラーナンダ副僧院長から『サーサナヴァンサ』に関する思いがけない事柄を知らされた。それは、この本がビルマ語の仏教史書を「下敷き」にしてパーリ語に抄訳したものである、ということである。
(中略)そこで、師僧の好意により入手した、ビルマ字版のテキスト『タータナウンタッパディーピカー』を定本に再出発し、師の講義を受けつつ(訪緬三回、手紙による質疑九回)、試訳してみたのが、この拙い訳文である。
拙い訳文といふのは勿論善應師のご謙遜である。これら以外にもタイ語訳を検討して指示を頂いたりビルマ語の訳し方と固有名詞の発音を質問するなど多くの方の支援を受けながら完成させた貴重な著作である。
今だつたら英語訳をそのまま日本語に訳して終了させる安直な書籍が多いだらう。それでは人名や地名が不正確なばかりか、パーリ語を英訳したときに消滅した厖大な情報を見逃すことになる。パーリ語、ビルマ語を駆使して日本語訳を完成させた善應師のご尽力は偉大である。
五月三十一日(土)その二「十章」
『サーサナヴァンサ』は十章あり、第一章は九地方に到達までの仏教史講話、第二章はシーハラ島仏教史講話、第三章はスワンナブーミ仏教史講話、第四章はヨーナカ王国仏教史講話、第五章はヴァナワーシー王国仏教史講話、第六章はアパランタ王国仏教史講話、第七章はカシミーラ・ガンダーラ王国仏教史講話、第八章はマヒンサカ王国仏教史講話、第九章はマハー・ラッタ仏教史講話、第十章はチーナ王国仏教史講話である。
第一章の九地方に到達までの仏教史講話は仏祖略伝、第一結集、第二結集、第三結集、九ヶ所へ大長老を派遣した話、長老相承からなる。九ヶ所へは受戒に必要な人数を随伴させて派遣した。
第二章のシーハラ島とはスリランカである。
第三章のスワンナブーミとはラーマニャ[モン族]三王国中の一つである。ラマーニャの解説として善應師は
居住域は、マータバン(Martaban)、ペグー(Pegu)やイラワジ川下流デルタ地帯を含む広い地域にまたがっていた。しかし、純粋のモン族の居住域は、シッタン川(Sittang)東岸からの下ビルマであった。その地域一帯を、特に、Suvannabhumiといい、(中略)現在のモン州がスワンナブーミと比定されえよう。
とある。
六月一日(日)「シーハラ島」
シーハラ島の仏教伝来と分派について長い歴史を述べて西暦三百年に入つた後、突然近世の話題が出てくる。それは[上座部大寺派の衰退]といふ節だからである。
ところで、以降、長い時間が経過し、邪見の外国人(善應師の注釈でポルトガル人、イギリス人、オランダ人、アラビア人、アルメニヤ人)の脅威によって、楞伽島では仏教が後退してしまい、僧伽[定数]を充たすに足るだけの比丘僧伽すら存在していないマハー・ヴィジャヤバーフ[Ⅳ世]王時代には[一五〇九-一五二一年]、ラーマニャ地方から僧伽を連れて来て、仏教を確立させた。
その後、また、ヴィマラ・ダンマスリヤ[Ⅰ世]という王の時代には[一五九二-一六〇四]、レッカプール王国(善應師の注釈でビルマのアラカン地方)から僧伽を連れてきて、仏教を確立させた。その後、また、ヴィマラ[・ダンマスリヤⅡ世]王の王の時代には[一六八七-一七〇七年]、同じくそこから僧伽を連れてきて、仏教を確立させた。その後、また、キッティ・シリ・ラージャーハという王の時代には[一七四七-一七八二年]、シャーマ王国[シャム国]から僧伽を連れてきて、まさに同じように行なった[仏教を確立させた]と[いう]。
次の節[シーハラ島における書冊記載以後の仏教確立について-書冊記載以後]で話は古代に戻る。
その後、勝者の教[仏教歴]が八九〇年を経た、ブッダダーサという王の時代に[三六二-四〇九年]、説法者である一長老が、律蔵と論蔵を除く、残りの経蔵をシンハリ語に翻訳し整理して措いた。(中略)勝者論[法論]九三三年[九三〇年の誤か]にて、シーハラ島で六六王を数えるに至ったとき、ブッダゴーサ[仏音]という長老がシーハラ島へ行って、シンハリ語で記載された義疏所をマダガ語に翻訳して刻記した。(以下略)
(一節おいて)以上のように、パーリ語に教法を転訳しおえたのちは、阿闍梨、弟子、またその弟子の継承によって、シーハラ島では、勝者輪[仏の威光]が日中の太陽の如くに戯れた。
六月一日(日)その二「スワンナブーミ」
ラーマニャ王国へは七次に亘つて仏教が伝はつたといふ。最初の二次は神話である。第一次は
世尊の正等覚後ちょうと七週間が経過した時のアーサールヒ月白分第五日よりラーマニャ王国に仏教が確立した。
第二次は
世尊は、現等覚してから八年目に、数百の比丘たちと一緒に、ラーマニャ王国のスダルマプラへ虚空よりやって来た。
第三次は
世尊が般涅槃してから二三五年すぎ、スワンナブーミ[金地国]なるラーマニャ[モン族]王国へ来たる、ソーナ長老とウッタラ長老の二長老は、羯磨に適せる五群比丘とともに、佛教を確立させた。
第四次は
その後一六〇〇[年]経たとき、まえに述べた三原因によって仏教の生起、定着せるラーマニャ王国が、村邑を掠奪する盗賊の恐怖、悪性の熱病の恐怖、佛教の怨敵による恐怖、この三恐怖によって混乱した。その頃、其処では、仏教は衰微した。(中略)その時機に、ウッタラージーワ長老は、満二十年のサパダという沙弥を伴って、シーハラ島へ赴いた。
以下同じ様にシーハラ島へ比丘を派遣することが第七次まで続く。
六月一日(日)その三「アパランタ王国」
さて、いま、ミャンマー地域のアパランタ王国における仏教史を語ろうと思う。
(節の題名略)われわれのミャンマー王国では、実に、スッパーダカ渡し場の商人部落[コンテー村]に住むスーラポンニャとマハーポンニャの兄弟によって、世尊在世より後、丁度二〇年の時を経て以来、仏教を確立した。しか浸潤して確立していたのではない。従って、再び、仏教を確立させるために、マハー・モッガリプッタ・ティッサ長老は、ヨーナカ人のダムマラッキタ長老を派遣した、と[いう]。
この後、世尊が山中のタッサバンダといふ仙人に法を与へ、コンテー村の長者等にも法味を飲ませたといふ神話で第一次確立は終了する。次に第二次で
世尊が般涅槃してから二三五年経ち、第三合誦をすませると、、最後にマハー・モッガリプッタ・ティッサ長老は、自分と共住の弟子ヨーナカ人のダムマラッキタ長老を、四人の比丘らとともに、アパランタ王国へ派遣した。アパランタ王国とは、われわれのミャンマー地域のスナーパランタ王国にほかない。そこでその事を以下に述べたのである。
ヨーナカ人のダムマラッキタ長老もアパランタ王国に到着するや、『火蘊喩経』(Aggikkhandhopama sutta)によって、王国住人に信仰あらしめた。七万人ほどの人びとに法味を飲ましめた。また、王国住人の多数が仏教へ出家した。王族からも千人ほどが出家した。
第三次で
ヨーナカ人のダムマラッキタ長老がアパランタ王国に到来して、タンバディーパ王国をも廻り、タムバディーパ王国住民に法味を飲ましめさえした。(以下略)
実に、わがミャンマー[ビルマ族]地域タンバディーパ王国のアリマッデナ城市にて、タムダリッと称す領土守護者が即位した。それ以後、アノーヤター王まで、タマティという名の地方を本拠に、三十人ものアリー僧[偽沙門の一種]が六万の弟子たちに教誡を与え、徘徊していた。
ところで、そのアリー僧の教義は、こうである。―
「もし人が殺生をしようと欲しても、かくかくのパリッタを誦唱して、その悪業から彼は完全にまぬがれるであろう。(以下略)その事を聞いて功徳を積めるアノーヤター王はその教義を喜ばなかった。(以下略)
その頃、アリマッダナ城市にシン・アラハンが到来し、仏教を確立させた。(中略)シン・アラハンに帰信してからは、その以後[王は]そのアリー僧たちの固定せる務めを破って、仏教を浄信した。
これが、ミャンマー地域タンバディーパ王国内のアリマッダナ城市における、シン・アラハン長老に縁る第三次の仏教確立[である]。
アパランタ王国の話は一一七ページに始まり三三二ページまで続く。この書籍は本文が三四七ページまでだから大半がアパランタ王国の話である。
六月一日(日)その四「ビルマ上座部概史」
三四八ページからは善應師の著述された「ビルマ上座部概史」である。ビルマ族とモン族は本文で取り上げたので、シャン族の部分を紹介しよう。
ヤワナ人とはシャン族を指す。サルウィーン川以東のシャン高原を居住地区とする民族であった。『教史(佛教史概要の略)』ではシャン族諸国を一括してヨーナカ国と称し、その諸国とは、カンボージャ、ケーマーワラ、ハリブンジャ、アユッダヤ(ローマ字略)である。
そして
ワナワーシ国仏教史は、プローム周辺国家の仏教史を内容としている。(中略)ピュー(驃)族の国の仏教に就いてふれた箇所と考えられる。
また、マハーラッタ佛教史があるが、この国は、マハー・ナガラ国(ローマ字略)といい、シャン州東部のマイン・セ(ローマ字略)やチャイン・ヨウ(ローマ字略)を含むアンコール帝国であろう。さらに、マヒンサカ国仏教史はアラカン地方の仏教史を語ったものといい、アラカン族の宗教にふれていると考えられる。
教史はセイロン史書と第三回結集で派遣された長老、布教状況が同一だといふ。しかし派遣先はビルマとは無関係のインド国内である。スワンナブーミだけが実在である。モン族やシャン族をビルマが支配するようになつた。だからモン族と同等に扱ふ物語を作つたのだつた。
六月二日(月)「二つの瞑想センターとモン族と」
ミャンマーの著名な瞑想僧はマハシ・セヤドーとパオ・セヤドーである。マハシ・セヤドーは1938年モン族居住地域タトンのミングン・ジェタヴァナ・サヤドーから瞑想の指導を受けた。ミングン・セヤドーは1911年初めて僧俗を問わず受け入れる瞑想センターを設立した。
独立直前の1947年11月ビルマの大富豪ウ・トウィンと、独立後の初代首相ウ・ヌーなど九人の在家が仏教教義ヌガハ協会を設立し瞑想センターを計画、マハシ・セヤドーを指導者として迎へた。ウ・トウィンの資金援助と初代首相ウ・ヌーの支援で国民に広まつた。
それとは別系統の瞑想がモン族のパウ・セヤドーでモーラミャインに瞑想センターを設立しもう一つの大きな流れになつた。マハシ・セヤドーもパウ・セヤドーもシュウェジン派である。
六月三日(火)「分別説部」
上座部は根本分裂のときは名称が現れるがその後は名称がなくなる。しかし今回の特集でミャンマー、タイ、スリランカなどの上座部は分別説部(ヴィバッジャヴァーダ)だといふことが判つた。正量部の説によれば、分別説部は説一切有部から別れた。一方で大衆部の説は、根本分裂のときに上座部、大衆部、分別説部に分れたといふ。いずれにせよ広いインドに広まつた各部である。部派は違つても大衆部を除いては釈尊の時代そのままに活動をしたことは間違ひない。
六月七日(土)「すべての宗教の独自性保持と共通原理」
上座部仏教のマハシとパウ、大乗仏教の黙止禅と公案禅。これらの違ひを考へ合はせれば、前にも書いたことがあるが、大乗仏教で阿弥陀仏やX経に帰依するのも瞑想なのだと気が付く。そればかりかすべての宗教は創造主(XX教、イスラム教)に礼拝する、神々や先祖や霊や道理に礼拝する(ヒンドゥー教、神道、儒教、道教)といふ違ひはあつても、すべてはそのことにより瞑想するのだと気が付く。すべての宗教は共通の原理を持つ。(完)
上座部仏教(20)へ
上座部仏教(22)へ
メニューへ戻る
(戊)へ
次へ