五百五十一、西の細道(その三、貨物の大動脈)


平成二十六甲午
三月二十日(木)「山陽本線と山陰本線」
山陽本線に乗ると貨物の大動脈を実感する。旅客列車とコンテナ列車が交互に来る。このことは東海道線の静岡から先でも感じた。倉敷はホテルが線路の脇のため夜中も貨物列車がひつきりなしに来るのが聞こえた。
それに対し山陰本線は寂れてゐる。列車の本数が少ない。まだ平行する美弥線のほうが本数が多い。山陰本線の下関長門市間は、美弥線の厚狭長門市間と同じで山陽と山陰を結ぶ。美弥線は車内に乗車証明カードがあり、これを提示すると秋芳洞、金子みすゞ資料館などが割引になる。美弥線利用促進協議会といふ沿線三市の取り組みである。しかし秋芳洞は美弥駅からバスで30分。山口や新山口からもバスで行けるから集客には苦しい。
蒸気機関車は山口線だけではなく美弥線や山陰線でも走らせたらよい。山口線だけだと乗客も飽きて集客力が落ちる。今は山口線の一部区間が不通になり津和野まで走れなくなつた。さのため津和野の転車台が使へず帰路はディーゼル機関車が先導する。この方式だと転車台のない区間も走れる。厚狭から仙崎、仙崎から下関と美弥線、山陰線の集客に繋げるべきだ。

三月二十一日(金)「みすゞ潮彩」
「みすゞ潮彩」号といふ観光列車が仙崎と新下関の間を走る。七年前に運行を開始し景色の美しい三箇所では臨時停車をするさうだ。当初は二往復(うち一往復は下関から途中の滝部まで)だつたが昨年三月から一往復で土日のみの運転になつた。もつとも運転しない日も普通列車として二往復(うち一往復は途中まで)するから実質は減つてはゐないかも知れない。
売店が設置されエプロンに「みすゞ潮彩」と書かれたメイド服の販売員が限定グッズ、弁当などを販売し、指定席車では紙芝居を上演する。車両改造費は八千万円で下関市、長門市が負担した。

三月二十二日(土)「貨物列車を山陰本線に回せるか」
東海道線と山陽本線は貨物列車が満杯に近い。これを山陰線、北陸線、羽越線に回せれば太平洋側の混雑緩和と日本海側の鉄道収益の向上に役立つ。しかし下関以南と青森以北を結ぶ輸送量は極めて少なく、ほとんどが関西、中京、関東を結ぶものだらう。
まづ日本の貨物量を太平洋と日本海に分配できるやう人口や工業地帯を再編しなかつた戦後政治の怠慢である。今後すべきことは九州または山口県から韓国までの鉄道直通またはフェリー、北海道からサハリンを経由してシベリア鉄道への貨物の直通である。これができれば山陰線、北陸線、奥羽線の活性化が一歩近づく。

三月二十三日(日)「地元負担で高速化対策は正しくない、その一」
山陰線は過疎化が激しく一部区間を除いて電化も複線化も為されなかつた。単線を高速化するには駅の線路位置の改良が重要である。そのことに気付いたのは寝台特急「あけぼの」だつた。
九日前に寝台特急「あけぼの」が廃止されたがあれは本物の「あけぼの」ではない。元々は寝台特急「出羽」だつた。「出羽」は羽越線経由だがそれとは別に奥羽線経由で「あけぼの」があつた。
その後、山形新幹線の工事で「あけぼの」が陸羽東線経由になつた。夜中は睡眠中なのだが陸羽東線を走ると眼が覚める。駅を通過するとき分岐の左側を通過するから大きく左に曲がりホームが終ると本線に戻るから大きく右に曲がる。その度に寝台で反対側に引つ張られるからほとんどの人は目が覚める。
JR東日本はずいぶん乗客を馬鹿にしたものだ。だからその後「あけぼの」は廃止になつた。そして「出羽」を「あけぼの」に改称した。これだと「あけぼの」廃止が目立たない。(九日前の「あけぼの」廃止で寝台特急は「北斗星」「カシオペア」だけになつた。これは運転士が下手なのが原因である。運転が下手だと停車したとき連結器のばねが縮んだ状態になる。すると発車するときカックンと大きな前後動がある。あれで乗客は眼が覚める。)

三月二十四日(月)「地元負担で高速化対策は正しくない、その二」
山陰線の高速化のため島根県、鳥取県など地元が多額の経費を負担して線路の改良が行はれた。しかし人口が大都会に集中し、そのため大都市の鉄道は大儲けし、地方の鉄道は経営が苦しい。それなのに大都市の厖大な利益を地方に回すわけでもなく地元自治体が負担するのは道理に合はない。
さうならないためにも人口の大都市集中を止めるべきだ。それには都会の仕事を地方に回すべきだ。今はインターネツトの時代だから大都市や太平洋側に集めなくてもよい。

三月二十五日(火)「青春十八切符で日本海側に行かう」
青春十八切符を使つて山形県から山口県まで日本海側をすべて巡つた。秋田県はその前に一般周遊券を用いて寝台特急「出羽」で秋田まで行きあとは普通列車で横浜まで戻つた。青春十八切符の収入配分は公表されてはゐないが列車キロだと思ふ。これは地方線にとり大きな収入である。
東京の人が新潟に一泊して戻る。これなら容易である。国民生産は一番目が農業であり二番目以降に工業商業輸出入が続くべきだ。ところが輸出入が一番目になりしかもプラザ合意で農業を圧迫する。全国は農業商業工業の地元産業で収入を得るべきなのにさうならなくなつた。
取りあへずは観光で収入を得るべきだが新幹線で行つたのでは大都会意識が改まらない。ここは青春十八切符を使つて地方線を潤はせると同時に地方意識を持たせるべきだ。

三月二十六日(水)「松下村塾はなぜ多数の志士を生んだか」
松下村塾はなぜ多数の志士を生んだか。二十年前はその理由が判らなかつた。今は判る。あれは吉田松陰が処刑されたことへの憤慨である。倒幕が必要だといふ理論だけでは本気の行動が伴はない。赤穂浪士と同じである。幕府は片手落ちだから行動しなくてはいけないと理性的に考えても行動が伴はない。
伊藤博文、山県有朋、井上馨のせいで志士の印象は極めて悪い。蛤御門の変で亡くなつた久坂玄瑞から萩の乱で亡くなつた前原一誠までとは大違ひである。といふことで長州から駄目な政治屋が出やすい理由を次章で探つてみたい。


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