五百三十二、廣松渉氏の著書(その四「今こそマルクスを読み返す」)


平成二十六甲午
二月二十六日(水)「大乗仏教の文化圏に言及」
古代や中世は社会を有機体と見做し
そこでは、家族や諸個人といったものは有機体のたかだか分枝的な存在と見做され、社会有機体なるものが固有の実体的存在と感ぜられます。

それに対して近代は
自我的主体たる諸個人こそが実体的存在であり、社会と呼ばれるものは、たかだか、諸個人によって第二次的に形成される集合体にすぎないとされます。

それに対してマルクスはどちらでもない社会観を提示したと廣松氏は述べる。
識者は、しかし、マルクスが後年『経済学批判要綱』のなかで、「社会は諸個人から成り立っているのではない」と明言し、また、「人間は…社会的動物である。単に社会的な動物というにとどのらず、社会の内においてのみ個別化することのできる動物なのである」と書いているのを持出して、一種の”社会有機体論”の疑いをかけるかもしれません。
だが、同じ『経済学批判要綱』のなかで「社会とは諸個人が相互に関わり合っている諸関連(Beziehungen)、諸関連(Verhaeltnisse)の総体である」と定義されております。


マルクスは社会を実態と視る立場も諸個人から成り立つ集合体に過ぎないといふ立場も斬り棄て
「諸個人が相互に関わり合っている諸関連・所関係」ということで「社会」を定義しているわけです。

私が自民党内のリベラル新自由主義派とシロアリ民主党を有害だとするのはまさに自由、民主主義と叫ぶだけで社会を破壊し諸個人の集合体に過ぎなくするからである。
蛇足めきますが、大乗仏教の文化圏に住んでいる私ども日本人にとっては、「関係の第一次的存在性」を説く「関係主義」的存在感は割合いと馴染み易いのですが、ヨーロッパの伝統的な存在感においては、真に実在するのは「実体」だけであるとされます。そこから(中略)「社会=有機的実体」「社会実在」論と、「個人=単子的実体」「社会唯名」論との対立も生まれるわけです。

私が自民党内のリベラル新自由主義派とシロアリ民主党を有害と決め付ける二番目の理由はここである。欧米のやり方をそのまま日本に持ち込む。菅と野田の消費税増税がその典型である。

三月一日(土)「国家について」
政治的統治機構・機関は、階級的利害その他、社会成員たちの利害的対立抗争から超然としているという建前で、紛争を”調停””抑止”し”共同利害”の保全や秩序の保持にあたります。が、この「共同利害」の保全ということが巧者(くせもの)です。(中略)ここに、国家が体現・保全すると謂う「共同利益」なるものが、自覚的な被支配階級にとっては、支配階級の階級的な利益という「特殊利益」にすぎないという両義性が現出します。

ここまでは私も同意見である。そして
国家機構・機関なるものは、革命期のブルジョア・イデオローグの主張したところによれば、支配階級どもが自分の利害を保全する道具として案出・創設したものとされます。
マルクスとしては、しかし、国家の階級性を鋭く指摘はしますけれど、支配階級が恣意的に国家を創出したというような主意主義的な議論は斥けます。(ついでながら、同じく主意主義的な「国家契約説」を彼が斥けることも勿論です)。


これも同意見である。前史時代の人間も国家が必要だと考へたに違ひない。最初の国家は数百人規模だつたのだらう。しかし国家が大きくなるにつれ、また運営層は一般人より堕落速度が大きいため支配するようになつた。私はさう思ふ。だから国家は利害を保全する道具だとして自由をやたらと叫ぶことは新自由主義を生む。しかし廣松氏は結論として
真の利益共同体ではなく、たかだか「幻想的共同体」にすぎない旨をマルクスは指摘します。

これも支配層が実権を握るのだから賛成である。と同時に国民が幻想とはいへ共同体意識を持つのだからそれを良い方向に誘導する必要がある。帝国主義の時代のように戦争に導くのは反対である。左翼崩れの人たちが今でも帝国主義の時代の感覚で共同体そのものを破壊することは防がなくてはいけない。

三月二日(日)「唯物史観と経済決定論」
エンゲルスの生前から、唯物史観というものは経済決定論であるかのような誤解、つまり、歴史の動因はもっぱら経済的下部構造にあるというのが唯物史観の立場だと解する誤解がありました。

それに対しエンゲルスは
経済的状態は土台ではあっても、上層建築のさまざまな契機、(中略)法の諸形式や当事者たちの頭脳における現実の階級闘争の反射、政治的、法律的・哲学的な諸理論、宗教的直感とそれを教義体系にまとめあげたもの、こういったものが、歴史的闘争の途上、発展に影響を及ぼし、多くの場合、とりわけそれの形態を規定します。

と述べる。廣松氏は結論として
唯物史観がいわゆる経済決定論ではないということはマルクス・エンゲルスがヘーゲルから継承している「因果観」や「法則観」を考え併せると自明

と述べる。

三月五日(水)「階級闘争史観」
マルクスの歴史観というとき、「従来の歴史は階級闘争の歴史であった」という『共産党宣言』の有名な一句を誰しも思い出すことでしょう。

ところが階級闘争の歴史であつたといふテーゼは『共産党宣言』以前にも以後にも出てこないといふ。一つには
階級分化のない原始共産社会が実存したという知見が学界において『共産党宣言』以後の時代になって確立しました。

しかし単にこのような話ではないといふ。マルクスは「唯物史観の公式」のなかで
アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的」という歴史の段階区分をおこなっております。(中略)その後、ロシアや、東洋などの社会についての認識が(学界で進んだのを学ぶことで)深まったのに応じて、もはや”公式”でのような単純な”単線的”発展史観を採らなくなった(以下略)

原始共産社会があつたことは少し考へればすぐ判る。小島に数家族だけの社会があつたとしよう。そこは原始共産社会になる。数十家族だと村長制度が誕生し、しかしそれほど権力的ではないだらう。数百家族だと貧富の差が大きくなる。そのように考へて行くと原始共産社会があつたことはすぐ判る。
だから新しい社会を造ることを目指してはいけない。それでは99%の確率で失敗する。人間は堕落しやすいし権力を持つ側は堕落の速度が速い。マルクスの資本主義批判は鋭く今でもほとんど適応でき資本主義を少しづつ死滅させてその前に戻す。しかしその前は封建時代でこれは武力政治の堕落したものだからその前に戻す。このように堕落前に戻すことを次々と追求すべきだ。

三月六日(木)「近代的市民社会像の自己欺瞞性」
ここから第二章「『資本論』で言いたかったこと」である。ソ連崩壊後に多くの左翼の人たちが左翼崩れ、別名をサヨクになつてしまつた。シロアリ民主党やゴミ溜め社民党はその典型である。私は左翼ではないがマルクスは捨て難い。それはマルクスの資本主義批判である。廣松氏も同じ考へで
マルクスが『資本論』において開示したかった重要な意想(モチーフ)の一つは、こういう”近代的市民社会像”のイデオローギッシュな自己欺瞞性を、資本制社会の構造を実態分析してみせることで、完膚なきまでに暴露することにありました。

三月十五日(土)「労働力、価値、剰余労働」
資本論でマルクスは労働力、価値、剰余労働について詳しく論じた。このうちの95%は今でも正しいだらう。反マルクスの評論家は5%の誤りについて過大に言ひ立てて、だからマルクスのいふことは間違つてゐると主張することが多い。しかしマルクスは教祖でも宗祖でもないから間違ふ場合もあるしその後の経済学の進歩で今では間違ひだと結論が出たものもあらう。それを補正するのが現代人の正しいやり方である。
廣松氏は第二章で資本論を現代に当てはめようと多大な努力をされ、その内容の95%は今でも正しい。この姿勢を学者や評論家は見習ふべきだ。

三月十五日(土)その二「奢侈品の生産」
ここから第三章「資本主義の命運と共産主義革命」である。廣松氏は
奢侈品というものは、それを清算するのに生産財を消費し(中略)無駄なものを作るのですから、作ること自体が資源・機械設備などの浪費になるわけです。ところが何と資本にとっては、買手がつくかぎり、奢侈材生産は利潤を生む歴(れっき)とした生産です。(中略)そして、何と何と、この奢侈品の生産という浪費が恐慌爆発を防ぐクッションになりうるのです。
廣松氏がこの本を著したのは一四年前だから地球温暖化が問題になる前である。資本主義が地球を破壊する理由もよく判る。そしてアジアにおいて共産主義が社会民主主義より人気のあつた理由も判る。しかし廣松氏は後ろのほうで環境破壊にも触れてゐる。
現代資本主義は、所謂(いわゆる)モータリゼーションのおかげで(中略)破滅の淵から息を吹き返したと言われます。(中略)第三世界の数十億の人口がもしモータリゼーションを遂げたとしたら、一体どうなりますか?石油資源の枯渇、排ガスによる環境汚染、どうにもならなくなるはずです。
廣松氏は引き続き
現在、アメリカは、人口は世界総人口の二十分の一にすぎないのに、世界総生産物価値の四分の一を消費しております。
私が浅沼稲次郎、佐々木幸三の発言を引き継いで「米帝国主義は人類と全生物の敵である」と主張する所以はここにある。

三月十五日(土)その三「私有財産の廃止」
マルクスが私有財産(Privateigentum=私的所有)の廃止、財貨の平等的配分・所有という発想は、それ自身まだ所有にこだわっているもの、これまで歴史的に続いてきた「私有財産制に感染」した心情の埒内にあるものと指摘し、そういう準位を超えるべきだと説いていることです。
本当にそんな世の中が可能なのだらうか。弁証法的唯物論や階級闘争では駄目である。労働価値説なら一旦は可能である。しかし人間は堕落しやすいから分業の廃止を徹底する必要がある。分業の廃止は別の意味で廃止すべきだがそれよりは伝統文化で堕落を防ぐほうがよい。新しいことをやれば99%は失敗する。だから尚更伝統文化を尊重すべきだ。私が宗教、文化を重視する理由もここにある。(完)


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