五百二十七、山口二郎氏批判、その十八


平成二十六甲午年
一月五日(日)「制度を批判せずグローバルも批判せず」
本日の山口氏のコラムは、友人の多くが中央官庁や有名企業に就職したが
定年五年前の今でも最初に入った役所、会社にいるのは、ほんのわずかである。やはり栄達の道への入り口は狭き門である。

中央官庁には同期で入つたうち一人が事務次官になり残りは順に天下りさせるといふ悪習があるからだ。そしてそのような悪習が成り立つ理由として天下り先が多数あるからだ。そのことを山口氏が過度に応援した民主党はシロアリと称しそれでゐてシロアリを駆除することなく消費税を増税した。だから私はそれ以降シロアリ民主党と呼ぶことにした。組織の長は自分より先輩だらうと後輩だらうと使へなくてはいけない。後輩しか使へないのは組織の長として失格である。山口氏は大学教授なのだからそこまで論評すべきだ。コラムのように低級なことしか言はない連中になぜ税金をつぎ込む必要があるのか。その分で消費税増税を取り消すべきだ。次に
教育の世界ではピラミッドの頂点を目指すグローバル人材を育てろと、世間の要求が強まる一方である。しかし、最後まで頂点を目指す少数の人間ではなく、仕事でも社会でも良心に恥じない行動をする大人を育てることが教育の役割である。

まづグローバルといふ玉虫色の表現を用いてはいけない。グローバルは国際化の意味に見せかけながら実はアメリカ化の意味が隠されてゐるからだ。しかも山口氏のいふグローバル人材とは世界の頂点の人材のことらしい。しかしグローバル人材とは普通は国際的に通用する人材のことだ。幾ら玉虫色の表現でも世界の頂点の人材のことにはならない。
今回は頂点を目指すことは否定的に書くからグローバルだけが残る。もつと判り易くいふとグローバル人材といふ言葉を用いたにも係はらず頂点を目指すことは否定するからグローバルといふ語は悪い印象を残さず語自体の印象は残る。これはグローバル化つまりアメリカ化を進めたい山口氏が無意識のうちに用いた読者誘導工作ではないのか。
山口氏が判らないといけないから更に簡単に説明すると山口氏の文章からグローバルといふ単語を除いても意味はまつたく変らない。

一月五日(日)その二「アエラ」
山口氏のコラムの下の欄に月刊「創」編集長の篠田博之氏の「週刊誌を読む」がある。ここに面白い記事が載つてゐる。「アエラ」は秋元康氏を特別編集長に迎へた。「リリー・フランキー出張人生相談」といふ或る週刊誌の人気連載のパクリで読者から悩みを募つてリリーさんに答へてもらふ形式を編集部は考へた。しかし秋元氏は「編集部員が本当の悩みをぶつけてこそガチだろう!」と一喝した。
『アエラ』編集部といえばプライドの高い女性編集者が多いという印象があるのだがリリーさんは容赦なくそこに斬りこんでいく。
例えば三十代の女性編集者にはこうだ。「欲求不満な女が欲求不満な女に向けて作っていて、解消する努力もなく人のせいにするために理論武装している雑誌だって読者はみんな気づいています」
あるいは三十五歳の男性編集者にはこうだ。「朝日新聞に入ってしまったこともあなたの不幸だと思うんですよね。会社が下手に権威を持ってるから高飛車な感じの人になってるけど、あなたは自分が権威を持っちゃいけないんですよ」


これは当つてゐるだけに面白い記事である。山口氏もコラムを書くときに少しは見習つたらだうか。私が反日(自称朝日)、小型朝日(自称毎日)、ニセ新聞東京パンフレット(自称東京)を嫌ひなのもリリーさん或いは「アエラ」の読者みんなと同じ理由である。そして山口氏の勤務する北海道大学自体がリリーさんの指摘する朝日新聞社になつてはゐないか。実情は判らないが山口氏のコラムからはさう判断せざるを得ない。

一月六日(月)「自由と民主主義が達成された国で叫ぶ自由と民主主義の欺瞞」
十二月二十九日のコラムで山口氏は、沖縄県知事による埋め立て許可、靖国参拝、日経平均株価を挙げて安倍首相が
さまざまな事業に着手し、悦に入っている。彼の個人的な満足を追及することで壊されるのは、日本の自由と民主主義であり、日本人に対する敬意である。

と書いた。安倍氏で心配なのは管や野田と同じで弱肉強食の新自由主義の傾向があることである。給料を上げるように財界に要望したが賃上げできるのは利益を上げてゐる会社だけだ。つまりニセ労組シロアリ連合を背景とした菅や野田と何ら変らない。
或いは厖大な利益を上げる自動車を減税するといふ。これも自動車総連といふニセ労組シロアリ連合の有力単産の言ひなりの管や野田と変らない。
山口氏は学者なのだからこのようなことを精査すべきなのに言つたことは自由と民主主義が壊されるではあまりにお粗末である。日本は既に自由と民主主義が達成されてゐるが自由が行き過ぎて業界団体やニセ労組シロアリ連合による推薦だの政治献金だの選挙運動だのと民主主義の破壊が多い。山口氏はなぜそのことを指摘しないのか。
日本人に対する敬意といふが西洋の猿真似をして経済大国になつてもアジア各国から敬意は得られない。西洋の猿真似をせず経済で成功する見本を示せてこそアジア各国は敬意を持ちしいては西洋も敬意を示す。今の日本は西洋から猿真似にしては上出来だと上からの視線で見られてゐる。

一月十三日(月)「西洋列強の帝国主義を擁護」
昨日のコラムで山口氏はまづ
英霊とは、最近話題の映画『永遠の0』で描かれているような、祖国防衛のために命を捨てて敵にぶつかって、死んだ兵士のことだろう。

と定義した上で、先の戦争で亡くなつた日本軍人二百三十万人のうち百四十万人が餓死もしくは飢餓による病死だつたといふ藤原彰氏の調査を紹介し
非業の死を遂げた兵士を等し並みに英霊扱いすることは、むしろ死者を冒涜する所業である。
今の私たちがなすべきは、無念の死を強いられた人々に申し訳ないという気持ちを声低く伝えること、そして、無能な指導者の跋扈を絶対に繰り返させないことである。


山口氏は英霊と餓死飢餓による病死者を分けるが、羽柴秀吉による鳥取城の兵糧攻めで亡くなつた兵士は戦死者なのか違ふのか。次に英霊とは角川漢和中辞典(昭和四十四年111版)では
すぐれた人の霊魂
(国)死んだ人の霊の敬称。

とある。つまり英霊とは死者の尊称である。その後昭和五十年前後から戦死者のことを英霊と呼ぶ言ひ方も出てきた。つまり餓死または飢餓による病死者を英霊と呼ぶことに何の問題もないし戦死者つまり山口氏が云ふところの英霊と呼ぶことに何ら問題もない。
私は戦争には絶対に反対の立場だが、最近は拝米の一環として日本永久属領化のため護憲だの平和だのを唱へる輩が出現した。さういふ連中の特徴は日本の欠点を喧伝して西洋列強特に米英仏の欠点には口を閉ざすことだ。かういふ輩が出ると国民間の協同意識や互助意識が破壊され新自由主義を生み文化を破壊し社会を不安定にする。だから心ある国民はかういふ輩には重大な決意で対処する必要がある。
先の戦争は総力戦だから米英仏側にも局所的には餓死者や飢餓による病死者が出たはずだ。山口氏はそれらを米英仏政府が英霊として扱つたことを批判したのかだうか。(完)


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