四百八十六、アジアから構造主義の復活を(その二、アジアの構造主義)
平成25年
十月十四日(月)「アジアの構造主義」
構造主義は西洋文明を相対するものだから、構造主義の後継者を西洋人に任せたのではまともな主張は出てこない。アジアの構造主義を考へ出さうではないか。
構造主義の構造とは何か。アジアに於いてそれは、長い歴史を持つものは今後も永続する可能性が高いといふことだ。だから本来はあらゆる人類に当てはまる。人類だけではない。すべての動植物に当てはまる。ところが西洋は宗教改革、産業革命、フランス革命、帝国主義を経て世の中が大きく変はつてしまつた。いや今でも変はつてゐる。
だから西洋では構造が壊れたままである。アジアから構造主義を復活させなくてはいけない理由はここにある。
十月十六日(水)「オクタビオ・パス著『クロード・レヴィ=ストロース』その二」
(その1)でも取り上げたオクタビオ・パスの『クロード・レヴィ=ストロース』には次のように書かれてゐる。
レヴィ=ストロースは、解読の解読の鍵(コード、もしくは暗号)と作品そのものとを区別していないが、わたしにはこれがたいへん重要なことのように思われる。音楽のコードは、詩のコードよりもゆるやかなものだが、絵画のそれよりは限定されている。ヨーロッパ音楽の体系は音階に依存しており、その言語特有の音韻論的構造に基づいたフランス語詩の体系より広がりのあるものである。しかし、いったん国境を越えてインド、あるいは中国に行けば、西欧の音楽はたちまち理解しがたいものになるだろう。
これは同感である。我々非西洋人は西洋音楽の音階を一旦破壊しないと音楽の堕落からは逃れられないと予て考へてゐた。
われわれの芸術は、エジプト人や中国人のそれに優り、われわれの哲学者はプラトンあるいはナーガールジュナ〔150~250? インド仏教で空の思想を基礎づけた人〕よりもすぐれていると、果たして言えるだろうか? われわれは確かに未開人よりも長命だが、われわれの戦争は中世のペスト以上の犠牲者を出している。
これも同感である。ナーガールジュナは日本では竜樹と呼ばれる。丸山真男は日本の古いものが戦争を引き起こしたといふが、これは間違つてゐる。西洋思想そのものが戦争を引き起こした。或いは西洋思想を学んだ日本人の優越感や支配欲、金銭欲が戦争を引き起こした。どちらにせよ西洋が根底にある。
進歩はわれわれに課せられた歴史的宿命である。われわれの批判の矢が進歩に向けられるのも当然のことだ。プラトンとアリストファネスがアテネの民主主義を批判し、仏教がバラモン教の不動の存在を、老子が孔子の説く美徳と知恵を批判せざるをえなかったように、われわれも進歩を批判すべく定められているのだ。進歩に対する批判は、民族学と呼ばれる。
これも同感である。オクタビオ・パスこそストロースの後継者、構造主義の後継者である。
十月十八日(金)「構造とは永続のことだ」
動植物で永続可能な本能を持つたものだけが現在残つてゐる。例へば今年の夏に我が家で栽培した苦瓜はつるがひげを出しひげが他の植物に巻きついて上に伸びる。もしひげがなければ地面を這ふしかない。さうすると他の植物に覆はれて太陽光が届かず成長できない。
人間も同じで永続可能な本能と文化を持つた集団だけが生き延びた。だから西洋文明だけが優れてゐるのではなく、アジアもアフリカも未開の部族も現存するものはみな優れてゐる。ストロースのいふ構造とは永続できる文化のことである。
西洋文明は地球温暖化で全生物を滅ぼさうとしてゐる。今こそ西洋人でも良心的な人を含めて全人類は西洋近代文明を終結させようではないか。これこそ真の構造主義である。地球の永続のためなのだから。
十一月十三日(水)「橋爪大三郎著『はじめての構造主義』その一」
橋爪大三郎氏の『はじめての構造主義』を見てみよう。一人ひとりの生きる意味は何なのだらうといふことについて
サルトルの実存主義は、これにこう答える。彼は言う、われわれ人間の存在なんて、もともと理由のないこと(不条理)だったはずだ。どうせ理由がない(つまり、無駄死にする)のなら、いっそ、歴史に身を投ずることに掛けてみようではないか。そのほうが、はるかに値打ちのある生だと言えるはずだ、と。
私はサルトルのこの主張には反対である。人間は前の世代から生命と文化を引き継いで後世に引き渡す。生物とはさういふ価値がある。
サルトルは、人間存在を、サイコロのようにこの世界に投げ出されたものとみた(被投性)。そして、それを悟れば、自分を歴史のなかに投げ入れること(参加)ができる、とした。この考えは、倫理的で、魅力的でもあるけれど、その前提として、(マルクス主義の主張するような)歴史の存在を信じなければならない。
歴史はある。しかしそれは長期で見た場合である。例へば或る国で社会主義になつたとする。歴史が進んだと見ることもできるが、ロシアみたいに社会主義ではなくなるかも知れないからこれは数値の変動に過ぎない。さう見るのが正しい。構造主義も同じで、
ところがこの点に対して、構造主義ははっきりとノーと言ったのだ。(中略)マルクス主義の謂うな歴史など、錯覚(ヨーロッパ人の偏見)に過ぎないことになる。
それでは社会主義やマルクスの存在価値はどこにあるのかといふと、資本主義による変位を補正するところにある。資本主義でも社会主義でも変らない根底に流れるものこそ「構造」である。
十一月十四日(木)「橋爪大三郎著『はじめての構造主義』その二」
ストロースが神話を分解し解析したのは、各部族にそれぞれ神話があるから共通項を探すためで、橋爪氏が聖書やマルクスについて言ふように勝手にテキストを組み換え、ついには、最高のテキスト(聖書)の権威を否定してしまうことになるや、マルクス主義だって、安泰じゃない。マルクス主義は聖書に換えて、『資本論』や『共産党宣言』『国家と革命』を権威或るテキストとした。は正しくない。神話は長い年月を掛けて変化し淘汰され永続性のある部族のものが残つたから、一人または少数の人たちで作られた著作とは異なる。
マルクスについて言へばマルクスの時代と今は異なるのだから著作を分解し解析するのではなく、今の時代に役立つところを選択し採用しなかつた部分は増補すべきだ。聖書について言へばビッグバン以降の粒子の生成や生物の生成を考へると天主が六日掛けて創造したのは相対性理論で時の進み方を変へれば今でも当てはまるといふ言ひ方もある。しかしそれよりは西洋人が長年掛けて信仰したのだから長期による堕落は改善しなくてはならないが西洋人永続の知恵と考へるべきでこれこそ構造主義である。(完)
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