四百十六、東京大長谷部恭男氏批判


平成25年
五月十四日(火)「偏向新聞たけくらべ」
我が家は東京新聞を購読してゐる。今回の改憲問題について東京新聞ばかりを読むのはよくないと毎日新聞を図書館で読んでみた。毎日を選んだ理由は、朝日は偏向が巧妙だし国売り(自称読売)は拝米がひどい。毎日新聞を読んで気が付いたことは東京新聞の偏向度のひどさである。その反作用として古くは小林よしのり氏支持、女系天皇反対、偽善護憲運動反対などをこれまで主張してきた。
とはいへ毎日新聞は賛否両論を載せても世論を誘導しようとする意図がある。例へば反対意見を二つ、賛成意見を1つ乗せるやり方である。といふことで二つのうちの長谷部氏の主張を取り上げることにした。

五月十五日(水)「長谷部氏曰くどこを変へなくては困るといふ課題はない」
長谷部氏は
今、どこを変えなくては困るという課題はない

といふが憲法はみにくい文章が多すぎる。前文を削除するだけでも憲法改正の半分は達成できたも同然である。
憲法第九条の
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

も前半が無駄である。
日本国は、世界平和に努力するとともに、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。

がよい。

五月十九日(日)「長谷部氏曰く憲法は押し付けられるものだ」
長谷部氏は
憲法は押しつけられるものだ。アメリカでも南北戦争の結果、南部諸州は北部から押しつけられた

といふが北部は押しつけられてはゐない。そもそもアメリカは先住民と野生生物から奪つた土地である。アメリカの真似をすることは盗賊団の会則を見習ふようなものだ。世界で押しつけられた憲法と押し付けられない憲法の比率を調査したらどうか。また日本はアジアの一員なのだから参考にするなら欧米ではなくアジアの各国を調べるべきだ。欧米の猿真似では戦前の軍部と変はらない。長谷部氏は次に
第二次世界大戦はファシズムと議会制民主主義という、国の根本原理を巡る深刻な対立だった。その戦争に負けた以上、議会制民主主義を受け入れざるを得なかった。

第二次世界大戦は帝国主義どうしの醜い植民地争奪戦争である。長谷部氏は植民地支配を議会制民主主義の名で美化した。

五月二十一日(火)「怪しげな憲法学者は不要だ」
「『新しい人権』を憲法に書き込むべきだ」という意見について考えると、例えばプライバシーや環境権はすでに個人の尊重を規定した憲法13条によって当然守られるべきものと判例などで定着している。
判例で定着するまでにどれだけ時間が掛かると思つてゐるのか。しかも判例は怪しげな憲法学者とその影響下にある裁判官などが決める。それより国会と国民投票で決めるほうがよいとは思はないのか。憲法や法律は文章で書かれてゐるのだから読んだ人の誰もが同じ解釈にならなくてはいけない。憲法学者は不要である。
改めてこれらを書き込みましょうということになると、「『新しい人権』はこれで打ち止めです」ということになりかねない。

そのために国会や国民投票がある。長谷部氏のいふことは「犯罪と刑罰は法律に書かず法律学者と裁判官が判例で決めるべきだ。法律に書き込むと新しい犯罪と刑罰はこれで打ち止めですといふことになり兼ねない」といふことだ。

五月二十三日(木)「9条の乖離をどうするか」
9条と自衛隊の存在が乖離しているため、9条を実態に合わせて改正すべきだという議論も或る。しかし改正は現状追認にとどまらないだろう。
自衛隊が米軍の下請けになることには反対である。だから現状追認にとどまるよう国民運動を盛り上げることが大切である。米軍の下請けに反対なら国民の過半数を集結させることが可能である。しかし長谷部氏は乖離を放置しろといふ。あとは怪しげな憲法学者が無理やり辻褄を合はせるといふ次第であらうがそんなことをしてはいけない。9条を現状に合はせるべきだ。
社会党執行部が自衛隊を違憲合法と称したところ党内から反対があつて違憲だが法的存在と言ひなおしたのは日本がすでに経済大国となつた後でありそれほど昔ではない。あのとき自衛隊を認めるよう憲法を改正すれば社会党は政権を取ることも不可能ではなかつた。しかしその後村山が日米安保条約まで認め、これ以降護憲は偽善になつた。
それと変らないのが長谷部氏である。憲法学者が乖離の放置を主張してよいのか。労働法規には条文に明記されてゐても、罰則がないから無視しろと会社に教示する悪徳社会保険労務士が多いし、民事には適用されないといふことで裁判でも労働側が負けることが多い。諸悪の根源は憲法の乖離である。憲法が乖離してゐるのだから法律も乖離してよいといふ発想になる。

五月二十五日(土)「試しに96条以外を変へよう」
ドイツは憲法を戦後五十八回、イタリアは十五回改正した。長谷部氏の憲法は押し付けられるものだといふ主張がどれだけ珍説なのかが判る。戦後に一回も改正できなかつたのは国会の怠慢である。とはいへ九十六条の改正は将来政治が不安定にならう。ここは九条と九十六条以外を改正してみたらだうか。
この通り憲法を立派に改正できましたといふことになれば多くの国民は納得する。(完)


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