三百四十六(2)、石原莞爾説(マルクスを僧Xの曼荼羅に載せる)は可能か
平成25年
一月十四日(月)「石原莞爾説」
石原莞爾が戦後に、マルクスを僧Xの曼荼羅に載せることを述べた。それは可能だらうか。その前に、私と石原莞爾で意見が異なるところを最初に述べておかう。
項目 | 石原莞爾 | 私 |
宗教の定義 | 宗教には予言が必要 | 長期間多人数に信仰された結果、宗教になる |
最終戦争 | 日本を中心とする非西洋地域と米国で最終決戦 | 米国は帝国主義なので非西洋地域が止めさせる |
信仰 | 田中智学の指導により僧X | すべての伝統宗教は同一 |
私と石原莞爾の相違は以上の三つである。満州事変はどうするのかといふ質問が出よう。満州事変は石原が板垣と組んで本庄司令官に知らせず独断で起こしたといふ説が、戦後は流布するやうになつた。しかし司令官が知らないといふことはない。本庄の指示で飛行場の占領が加へられたからだ。石原の手帳に、本庄司令官が関東軍は鉄道警備隊だからと語つたといふ記述もある。この理由で鉄道を爆破して戦闘を始めることになつた。この記述は本庄が鉄道警備隊だから事変を起こすのは止めろと言つたとも考へられるがそれはあり得ない。本庄が皇居に参内し退出の後に外で待機した石原に、昭和天皇に「謀略はなかつたのだな」と質問されて冷や汗が出たと語つたからだ。もし勝手に起こしたのなら石原にさう言ふ訳がないし、そもそも参内のときに連れて来ないだらう。
満州事変に賛成なのかと聞かれれば、私は反対である。しかしあの当時、満洲にゐたロシア軍を日露戦争で厖大な犠牲の上で北満洲に追い出した。そして張作霖に南満洲を任せた。ところが日本の制止を無視して蒋介石と戦争を始めて北京を占領しその後、負けて逃げてきた。そこで爆殺した。息子の張学良が父親の側近を殺し蒋介石に寝返つた。
残念なことだが日本は南満洲に親日政権を作るしか方法がなかつた。なぜさうなつたかは対華二十一カ条要求である。戦後はすべてを石原と板垣の責任にした言論が多いが事実は違ふ。石原と板垣に責任があるとすれば日本とは無縁の北満洲まで占領したことだ。本庄が反対したのは北満洲の占領である。
日本が戦争をした相手は張学良であり蒋介石である。勿論被害を受けたのは中国の民衆だがそこをはつきりさせないと、日本は中国に対して卑屈になつたり尊大になつたりでいつまで経つても良好な関係になれない。石原は満洲で善政を行へば蒋介石はなびくと見た。だから日華事変には反対だつた。先のことを考へずに日華事変を拡大した連中こそ戦後も非難されるべきである。だから満州事変は上の表には入れなかつた。
一月十四日(月)その二「全宗教統一原理」
「(1)日本共産党中央委員会発行「文化評論」誌七十年七月号(僧X特集)」でも書いたように、上座部仏教の瞑想にはいろいろな方法がある。大乗仏教が釈尊や阿弥陀仏を拝む瞑想法だと判れば、すべての仏教は統一することができる。そればかりか創造主を拝む瞑想法もあると気が付けば、すべての宗教は統一することができる。
そればかりではない。共産主義も根底は人類救済のためといふ良心に基づいたものだと判れば共産主義も統一することができる。
一月十五日(火)「曼荼羅に載せることの可否」
僧Xの十界曼荼羅には人間界もあるから、ここに南無マルクス、南無キリスト、南無ムハンマド、南無孔子、南無孟子、南無老子と書くことは可能である。しかしそれでは僧Xの書いた曼荼羅とは異なる。
釈尊、キリスト、ムハンマドの言つたことがそのまま現在に伝はつてゐる訳ではない。長い年月を掛けて人類に有害な部分は無害化された。マルクスも例外ではない。ベトナムやカンボジアやラオスであれだけ民族解放戦線が活躍したのはマルクスの理論では説明できない。
資本家の発達とともに、社会に非平衡を生じた。丁度、車の実速度と速度計に差異を生じたようなものである。そこにマルクスが差異をなくすための理論を考へた。しかしマルクスの時代は不均衡を直すといふ考へはなかつたから弁証法を駆使した。文化と道徳の崩壊した時代だつたから唯物論と階級対立理論を駆使した。
現在は不均衡の差異を化石燃料消費と原子力で一時的に解決した。人間が本来持つ世代を超へて繁栄を願ふ心が宗教であり、だとすればマルクスは宗教者の資格がある。
宗教者の言動をそのまま今に伝へてはいけない一つの理由は時代の差異であり、それはマルクスも同一である。今のXX教徒の言動からXX教を判断し、今のイスラム教徒の言動からイスラム教を判断する。我々は日本の共産主義者やベトナムや中国やラオスから共産主義を判断すべきだ。
マルクスを曼荼羅に載せることは何ら問題はない。ただ私は伝統を重視して僧Xの書写した形式以外は採用しないほうがよいと考へるだけである。
一月二十日(日)「田中智学の選定した曼荼羅」
田中智学の選定した曼荼羅は、僧Xの佐渡始顕本尊と伝へられるものを昔の高僧が書写したもので、僧△門流の特徴である僧X在御判の文字が見られる。僧X在御判は身延門流の曼荼羅にも僅かにある。田中智学の書写した本尊もXX会の拝む本尊も僧X在御判といふ共通点がある。
今では座配の形式の経年変化から佐渡始顕本尊は偽作が明らかになつた。田中智学の高弟の山川智応もそれを認めてゐる。しかし偽作であつたとしても、明治年間に田中智学が選定し作家Xや石原莞爾や多くの人たちが拝んだ本尊は、今後も尊重すべきだ。それは冒頭の表で「長期間多人数に信仰された結果、宗教になる」と述べた内容であるが、この表は宗教一般を述べたもので特に曼荼羅問題に焦点を当てたものではない。
多数のXX会員が長年拝んだ僧X作と伝へられたX寺の戒壇の板曼荼羅も日禅授与の本尊から偽作したことが既に明らかになつた。釈尊が説いたと伝へられたX経も、今では後世の作であることが明らかである。だとしても多くの人達によつて長い間信仰されたが故に尊く、今後も長く信仰されるべきだ。
一月二十二日(火)「僧X相対化」
(1)で書いた「僧Xを絶対とは思つてゐない」について述べると、僧Xの主張が正しいなら日本、唐、月氏の三国に僧Xの教へが遙か以前に広まらなくてはいけない。広まらなかつたといふことは、僧Xは嘘つきだつたか、相対化するかどちらかしかない。だから私は相対化した。色々な瞑想法がありすべての仏教はこれに収束が可能だが、そのうちの一つに僧Xといふ幾多の法難を受けた僧がゐた。特に龍ノ口の法難と佐渡流罪では本来は命を落としたはずだから僧Xの戒律と瞑想法は仏教全体の中でも特にご利益がある。僧Xを嘘つきにしないためにはこれしかない。もし別の方法があつたら是非伺いたい。(完)
大乗仏教(僧X系)その八
大乗仏教(僧X系)その十
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