三百四十六(1)、日本共産党中央委員会発行「文化評論」誌七十年七月号(僧X特集)


平成25年
一月六日(日)「文化評論」
かつて「文化評論」といふ雑誌があつた。日本共産党中央委員会を発行元とし昭和三十六年に創刊された。昭和五十一年に発行元が新日本出版社に変更されて機関誌から一般誌となり、平成五年に休刊となつた。
そのうちの第百六号、昭和四五年七月に僧X特集が組まれた。丁度XX会の言論出版妨害問題の最中で共産党が華々しく活躍した時期であつた。
記事を一読すると良心的な記事とさうではないものと混在するので、その内容を紹介したい。なを私自身は僧Xを絶対とは思つてゐない。上座部仏教の瞑想には種々の方法がある。自分の息に集中する、動作に集中する、おなかに水晶があることを想像する等々。その一種として神仏を拝む大乗仏教やヒンドゥー教、道教があるし、更には創造主を拝むXX教、イスラム教がある。つまりすべての宗教の根本は同じだといふ立場である。だから僧Xの教へを短期間に広めるといふ田中智学やXX宗系の主張もそれが可能であるのなら尊重したいが実際には無理だつた。そのような立場から「文化評論」誌を読んでみよう。

一月十三日(日)「中世思想史上における僧X-その国家意識を中心として-」
まづは藤谷俊雄氏の「中世思想史上における僧X-その国家意識を中心として-」を見てみよう。
・インド仏教が一般に古代国家の支配者の保護を受けたという事実以上に、インドにおけるX経思想が国家権力ないし支配者と、とくにつよいむすびつきがあったという証拠はない。
・X経思想が国家および支配権力とむすびつくのは、中国において天台宗の創始者天台大師智(五三八-五九七)が、X経をもって仏教最高の経典とし、その天台宗が宋・元時代を通じて中国仏教界の指導的地位をしめるにいたってからであり、さらにこれを日本の僧最澄(七六七-八二二)が学んで、日本天台宗を開いて以来(八〇二)であった。
延暦寺をはじめとする寺社じたいが荘園領主として成長してゆくのであるが、かれらは自分たちの存立のためには律令国家を維持していかなければならなかった。

ここまでまつたく同感である。現代に生きる我々はともすれば寺院が荘園領主だつたことや江戸時代以降も幕府による農地の寄進の形で地主だつたことを忘れてしまふ。ここに仏教堕落の原因があることを我々は認識すべきだ。次に僧Xについて
X経を国教にしようとする僧Xの熱望はついに実現することができなかった。(中略)その理由は結論からいえば、僧Xが立っていた在地領主層の立場と、鎌倉幕府が立っていた中世封建国家の支配者の立場とのあいだに、へだたりがあったということである。さきにみたように、在地領主層は下層民衆により近く、かれらの生活に密着していた。それゆえに民衆の困苦窮乏を見のがすことができず、その救済を強く主張した。しかし鎌倉政権を構成している大豪族層にとっては、京都朝廷との政治的力関係のなかで、自己の存続のためにつねに妥協と取引きを必要とした。したがって僧Xの主張は過激なものであり、危険なものであるとうけとられた。

これも同感である。藤谷俊雄氏は真宗大谷派の寺院に生まれ、戦前は治安維持法違反で一回検挙された。その後、生家の住職をしながら戦後は部落問題研究所理事長に就任した共産党系の宗教者である。僧Xが国家主義ではない根拠として
・僧Xによれば、蒙古襲来は日本でX経が尊信されていないので、X経守護の神がみが、「隣国の聖人」すなわち蒙古に命じて日本を罰するのである。(中略)「わが国のほろびることは情けないことではあるけれども、蒙古襲来のことがそらごとになるならば、日本国の人々いよいよX経をそしって、万人無間地獄に堕ちるであろう。かの蒙古が攻めてくるならば、国はほろぶとも、正法をそしることは少なくなるであろう」(「異体同心事」-以上日本の名著『僧X』)。

これも全く賛成である。私も日本共産党に入党しようかと思ふくらいである。結論として
・中世の封建国家についていえば、それは近代以後に形成された民族国家とはまったくちがったものであり、また、中世人の国家意識といっても近・現代人の民族意識とは異質のものである。
・だから近代の観念をもって僧Xが国家主義者であったとか、なかったとか評することでは僧Xを歴史的に正しくとらえたことにならないのである。


これも同意見である。強いて相違点を挙げれば現代の国家が正しく近代はそれより劣り中世は更に劣るといふ概念は持つべきではない。藤谷氏はさう述べてはゐないが日本共産党を始め日本のすべての政党はさういふ歴史認識がある。本来は文化保守のはずの自民党も社会党の左右合同に対抗して生まれた政党だからやはり新しいほど正しい、更にはアメリカのやり方が正しいといふ意識が党内に混ざつてゐる。
しかしまづ古代は理想の堕落したものだし、中世も鎌倉幕府の堕落したものだし、近代も関が原の合戦時の連立政権の堕落したものだと考へて、堕落するのは現在も同じなことに気がつくべきだ。現在は資源を浪費し地球を滅ぼさうとする人類史上最悪の時代である。

藤谷氏自身の述べた内容で相違を探せば、今まで紹介した文章以前に次の記述がある。
XX会の運動が多数の大衆を引きつけたのも、初期の学会がしめした反体制的姿勢によるものであることも明らかである。

これは逆である。昭和三十三年までの戸田城聖の時代は国士訓を発表するなど文化保守であつた。だから総本山で行つた最後の式典には岸信介首相も参加することになつた。実際には或る故人の公明党国会議員から聞いたのだが、越すに越されぬ大井川で途中で引き返してしまひ南条農林相の出席に留めた。なを岸首相夫人と子供、娘婿の安倍晋太郎も出席したことが後に学会出版の書物で公表されてゐる。また南条氏は前建設相で農林相になるのは二年後であつた。
XX会に限らずすべての政党が文化保守性を失ふのは昭和三十年代からである。マツカーサの洗脳効果が徐々に効いてきた。戦前は軍国の偏向があるが、戦後はマツカーサの偏向がある。社会党と共産党は安保条約反対運動、ベトナム戦争反対運動で偏向を補ひ、それで国民の支持を受けてきた。しかし米ソ冷戦が終結ののちは社会破壊派に陥り少数派に陥つた。

一月十三日(日)その二「教学的に見たXX会の問題-X寺日寛の教学を通して-」
中濃教篤師はX宗領玄寺といふ東京谷中にある寺の住職であり、X宗現代宗教研究所所長も務めた。その中濃師が「教学的に見たXX会の問題-X寺日寛の教学を通して-」で次のように書いてゐる。
・「X経」は聖徳太子が「法華義疎」(偽書説がある)を書いたといわれているように、日本でも古くからある時期は貴族階級に、またある時期は民衆に影響をもつ経典であったし、「文化大革命」以前の中華人民共和国や、今なおアメリカ帝国主義の侵略と断固たたかっているベトナム民主共和国の北と南の仏教徒にもさまざまな形で影響をもっていたし、もっているのである。

ここで注目すべきは赤字の部分である。私も「文化大革命」といふ名の文化破壊には断固反対だし、ベトナム戦争をアメリカ帝国主義と呼ぶことにも賛成である。X宗の僧侶にもそのように発言する僧侶がゐたことに感激する。
と同時に共産主義者、社会主義者、社会民主主義者が唯物論や進歩主義を自称すると文化大革命と同じように文化破壊になる。ベトナム戦争は終つたがアメリカは世界各地の文化破壊と地球破壊を進めて居り、今なを帝国主義である。
中濃師には次のような記述もある。
・重須の方では、僧△在世中から大坊派と壇所派との争いがあった。大坊派は僧△の正系だといい、壇所派は、興門の教学の正統をつぐものと自負していた。

重須とは北山本門寺のことである。平成三年までXX会が所属してゐたX寺から2Kmの距離であり、どちらの寺院も開山は僧△である。
X寺が自派のみの正統を主張するようになつたのは二十六世日寛からだが、僧X、僧△以降二十五世までの貫首の書写した曼荼羅は、天台大師と伝教大師に南無を付けてきた。ところが日寛は南無を付けない。それ以降の貫首も南無を付けてゐるが江戸時代末期の五十一世日英、昭和初期の六十世日開の一部、XX会の布教隊長X氏が会長に就任する数ケ月前に貫首となつた六十六世妻帯準僧侶Xだけは同じく南無を付けない。
私はこのことは極めて重要だと思ふ。日寛の本質は伝統破壊である。それは文化破壊であり唯物論である。理論上は幾ら正しいと思つても先師を無視してはいけない。

一月十四日(月)「XX会の教義と仏教思想」
次に近江幸正師の「XX会の教義と仏教思想」を見るが、近江幸正師をインターネツトで調べると、池上本門寺の近くの妙雲寺といふ寺の住職であり、「寺社に見る大田の民衆史⑥反核平和活動家、近江日華さんと妙雲寺」と題して多田鉄男さんが次のように書いてゐる。
日華さんは反核平和運動の実践家として知られ、フランスやニュージーランドでも反核平和書道展を開くなど、世界的視野で活動していた人である。宗教家として「NGO世界宗教者会議」、「立正平和の会」の理事長を務めていた。平和運動家としては「大田非核の会」、ヒロシマの火が各家庭を巡るという「火の巡礼」、書道家として「反核平和書道展」、「六雅(りくげの)会」を主宰するなど、多方面で、それも徹底して反核平和を貫き通した。
多田鉄男さんの優れたところは、妙雲寺がかつては広い寺域を持ち、江戸幕府の不受不施派に対する禁圧と、明治維新政府の廃仏政策で境内地の大半を失ひ、跡地に明治初期に創業された料亭「曙楼」が建ち、曙楼は昭和四年に廃業して現在はめぐみ教会と幼稚園になつたことと、明治政府の廃仏政策により一時期妙雲寺は村社堤方神社に併呑されたことを書いてゐる。そして最後に
98年1月17日、妙雲寺で催された「被爆者を励ますつどい」に寄せた日華さんのひとことを、私達に託したメッセージとしてここに紹介しておきたい。
「国会にもかけることなく、アメリカの核戦争に日本全土と全国民を総動員しようとする新ガイドラインの正体を草の根に知らせ、その解消をかちとらなければなりません。(中略)展望は明るい。確信をもってすすみましょう」


かういふ平和運動であれば大賛成である。ところが最近は丸山真男ばりに日本の古いものは何でも悪く欧米は正しいといふ奇妙な平和運動もどきが多い。さつそく「XX会の教義と仏教思想」を見てみよう。
・XX会の折伏は「信仰によって利益を得んとすれば、折伏以外にないことを知るべきである」(折伏教典)
・僧Xが「利益」というときは、仏になる、という宗教的目的達成を指し、現世での果報は「利生」としてこれを区別する。僧Xの「利生」そのものが人々の願いであることは否定しなかったが、信者獲得によって利生が得られるなどということは、僧X遺文に見ることはできない。


XX会が急激に伸びたのは布教がご利益を生むといふやり方が成功したためで、本来は間違ひである。布教は僧Xの度重なる法難を思ひ直し、或いは全体が信仰をしないと諸天善神が戻つてこない、或いは不幸な人を観かねてといふ自発精神によるべきで、ご利益を目的とすべきではない。しかし日本の既成仏教もご利益で信徒を釣つてゐる。それが現世利益の場合もあるし葬儀における死者への回向の場合もある。決してXX会だけを非難してよい訳ではない。次に
・「色(物質)心(精神)不二」とは原始仏教でいわれるばあいは、自己の修行のしかたや環境の心に与える影響をありのままにみつめることによって正しい修行法を確立するためであって、肉体(物質)との関係についての科学的究明や形而上学的追及を目的としたものではない。(中略)ジャイナ教や数論派などではしきりに「色」と「心」の形而上学的議論を行っていたが、仏陀は仏教者がこれについて論ずることを「戯論」(役に立たない論議)としてしりぞけたのである。しかし、仏陀の死後、仏教が他思想との交流もあって(中略)思弁化した教団を一般に小乗仏教といい、これを批判して仏陀の精神への復帰をめざしたのが大乗佛教であるが、大乗仏教は(中略)「色・心」の問題について論ずることを否定した。これが「空」の立場といわれるものである。

小乗仏教といふ言ひ方は卑称だから使用せず上座部仏教と呼ぶことが国際会議で決まつたが、当時はその前だから小乗仏教と呼んだこと自体は問題はない。また上座部仏教が戯論に陥り多数の部派に別れ、その混乱の中から大乗仏教が起きたことは事実である。しかしだからといつて大乗仏教が仏陀の精神の復活を目指し上座部仏教はさうではないと断言することには反対である。X経への天台大師の解釈を読むと、X経は長い年月人々に信仰されたが故に尊いのであり、或いは僧X信者にあつては僧Xが選定したから尊いのであり、解釈の精巧さで尊いのではないのではないかと感じる。この違ひは天台大師の時代にはX経は一字一句に至るまで釈尊の説いたものだと信じられたことによる相違であらう。つまり大乗仏教と言へども戯論に陥る。
・XX会の「生命論」は色、心と別に「生命」という実在的要素を持ち出し、宇宙そのものが「生命」であると主張している。これは事実上、万物の根元に「我」(アートマン)という固定的な主体があって、それが「輪廻」の主体であり、また「宇宙我」(ブラマン=梵)と個人我とは同質であるというバラモン教の根本学説「梵我一如」説と同じである。

これは同感である。X経を信じないと諸天善神が国を捨て去る。この素朴な感覚でよいではないか。なぜ宇宙を生命だとか言はなくてはならないのか。私も30年前から不審に感じてゐた。私はこれを教義の唯物論化といふ呼び方をした。しかしこれはXX会だけが悪いのではなく日本の仏教全体が葬儀と賽銭以外の活動をしないため、世の中が唯物論化したためだと考へた。近江師も私とは別の切り口から
・XX会の教義、思想は、いずれも仏教の本筋からはなはだはずれたものばかりである。(中略)仏教者として反省したとき、私は、私ども仏教者の間でも、実際には、XX会と大同小異の低俗化した布教を行なっていること思い当たらざるを得ない。そして、これは、すぐれた教義、思想の高さに大衆がたえられない、という、大衆の側の問題としてみるべきものではなく、教えをひろめる側の問題であるだろう。

と書かれてゐる。大衆の側にあるのではないといふ問題提起は共産党的なので、X宗の僧侶でも先日の中濃教篤師とともにここまで共産党的な人がゐるのかと、感激した。共産党的な文章としては
・今年十月にホーマー・ジャックが中心となり、バチカンからソ連宗教界まで動員して開こうとしている「世界宗教者会議」の問題があるが、これは米日の国家権力や独占資本によってアジアにおけるアメリカの侵略に対する諸国民のたたかいのほこ先をにぶらせ、さらにインドシナ人民への「同情心」をとらえて、これを救恤や「開発」に対する支持の方向にそらしてゆく危険性をたぶんにもっている。

一月十四日(月)その二「日本の右翼と「僧X主義」」
以上紹介した三人は多少の意見の相違はあつても賛成である。共産党の機関誌にここまで載るのなら私も共産党員にならうかと思ふくらいである。しかし梶一平氏の「日本の右翼と「僧X」」には絶対に反対である。丸山真男を誉めて日本のものを遅れて駄目なものと決め付けた。梶一平をインターネツトで調べても「日本の右翼と「僧X」」以外は出てこない。共産党の幹部が一回限りの筆名で投稿したのだらう。
左翼系の各政党はその後、米ソ冷戦の終結とともに、日本のものを遅れて駄目だと決め付ける路線になつた。共産党だけではなく社民党も同じである。これは反国民であり、広範な支持は得られない。その萌芽が昭和四十五年の梶一平氏の論文に既に見られ、それはベトナムなど民族解放戦線で唯物論の誤りを実質的には補正しても、理論的には補正仕切れなかつたためであらう。


大乗仏教(僧X系)その七
大乗仏教(僧X系)その九

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