三百四十三、柏原選手と富士通


平成25年
一月三日(木)「四年前の一月二日」
四年前の一月二日の朝に偶々テレビを観ると箱根駅伝を放送してゐた。箱根駅伝を見るのは初めてだつた。これは面白いとばかり翌日の復路まですべてを観た。此の年は第五区の山登り区間に柏原竜二といふ選手がゐて八人を抜き東洋大学は優勝した。
次の年も一月二日に箱根駅伝を観た。特定のチームを応援する訳ではないので往路だけ観た。柏原の活躍だけは見逃せないからだ。その翌年も往路だけ観た。しかしこの年柏原はスランプだつた。右膝を痛めて不調だつた。区間一位ではあるが今までの二回よりタイムが悪かつた。そして昨年、柏原は五区で2年前に自身の作つた新記録を大幅に塗り替へ主将として優勝に導いた。
東洋大学と聞いてもどこにあるか知らない人が多いだらう。私はたまたま昭和四十二年頃に当時は小学生だつたが、日比谷公園の都電停留所で待つてゐると東洋大学前行きの電車が来た。普段は来ないのに珍しい電車だといふことで印象に残つた。なぜ珍しいかは2系統三田、東洋大学前間は朝夕2往復しか運転されなかつた。
柏原は昨年春富士通に入社し元日の実業団駅伝に出場した。富士通はどこにあるのかあまり知られてゐない。私のように富士通グループだつた人間でさへ、最初は古河ビル、天井の低い昭和四〇年頃の典型的なビルでこの時代がよかつた。次に丸の内センタービル、この時代はバブルの影響で悪くなつた。その後はどこに移つたか知らない。富士通は東洋大学に次いで二匹目のどぜうを狙つたのか柏原の人気は大変なものがある。柏原の走行区間は観客が普段の3倍に膨れ上がり、声援も桁違ひでテレビ中継のアナウンサーがスタジオからの問い合はせに、声援が多くてスタジオの声が聞こへませんといふくらいだつた。

一月四日(金)「富士通(千葉)」
出場チームの紹介で富士通(千葉)といふ表記には違和感を感じた。富士通は登記上の本店は川崎工場、本社事務所はかつては古河ビル、今はその周辺だからだ。だから富士通(神奈川)または富士通(東京)だとばかり思つてゐた。私がゐた当時は全国に工場が10くらいあつた。工場以外には本社、ファコムビル、御成門分室、蒲田のシステムラボラトリー、全国に営業所があつた。
昭和六十年ころに営業所が支店に格上げになつた。支店でトールダイヤル(社内電話)が引いてあるのは10店くらいだつたがこのころから全支店に拡大した。役職は事業部長、部長などライン職と部長代理、部長付などだけだつたがこのころから担当部長、技師長などが現れ出した。取締役数も増大した。バブル化である。
プラザ合意による急激な円高もあつた。技能職を事技職に吸収させることも行はれた。具体的には製造職をCE(修理技術者)にすることが行はれた。当時の富士通労組は各工場に支部があり、それとは別に本社支部、蒲田支部があつた。つまり完全な製造業である。川崎工場に残つてゐた半導体製造も間もなくなくなり跡地に開発部門の高層ビルを建てる構想が現実化し、労組の組織をどうするか検討が始まつた。
大阪、大分など全国にシステムラボラトリーが建設され私が辞めた後には幕張にも建設された。柏原の所属チームが富士通(千葉)といふのは将にその幕張である。
技能職は仕事内容ごとに等級が決められてゐた。事技職は決められてゐない。技能職の最高位は職長でこれは事技職で言へば一般職一級であり、管理職の下位の更に下位に当つた。工師といふ技師補(または主事補)に当たる等級も作られた。技師(または主事)になると管理職であり、課長、課長代理、または課長付ともいふべき調査役に任じられた。技能職で事技職との相違に不満を持たないのは、事技職も技師補(または主事補)が定年時の等級で、管理職になるのは一部といふ意識がかつてはあつたためであらう。ただしそれは富士通が富士電機製造の子会社の富士通信機製造のなごりであり、此の当時はコンピユータ景気で管理職になるのが一般化してゐた。「二百四十六、エルピーダ倒産(富士通時代の思ひ出)へ

一月五日(土)「実業団駅伝の結果」
柏原は区間第四位だつた。柏原は上り坂には強い。理由は二つ考へられる。(1)心肺機能が優れて持久力がある、(2)重心が前か、足腰の骨格筋肉が上り坂に適してゐる。柏原は典型的な(2)である。だから箱根駅伝のときも上り坂では他の選手をごぼう抜きにしたが、下り坂では抜いた選手に差を縮められた。
柏原は大学時代は周りから特別扱ひされることを嫌ひ卒業後は社会人として見られることに満足してゐた。だから気分を一新して平地でも区間賞は取るだらう。私はさう信じてゐた。しかし四位だつた。
長距離の四区、上り坂の五区ではなく、六区に持つて行つたのは故障、将来のマラソンを見越して平地に慣らすためなどが考へられる。富士通の監督は終盤に勝負するためだと言つてゐた。

柏原はこのままでは、そこそこの成績は残してもオリンピツクは無理かも知れない。今後すべきは、まづ日本の陸連は駅伝を世界に広め将来はオリンピツクに採用させるべきだ。コースも国際ルールの42キロではなく100キロにすべきだ。箱根のような上り坂も入れるべきだ。まづ日本の駅伝すべてに箱根程度の坂を入れるべきだ。2日間は大変だから東京を出発し箱根を上がつて降りたところでゴールにすればよい。

一月五日(土)その二「実業団駅伝の問題点」
今回の柏原問題とは別に実業団駅伝には三つの問題点がある。まづニユーイヤー駅伝といふ下品な名称である。新しい耳の駅伝かと勘違ひする。なぜ新年実業団駅伝では駄目なのか。
二番目に二区は外国人も出場できるが、それ自体は構はない。しかし区間賞インタビユーで英語で質問し英語で答へるのは止めるべきだ。これは大会関係者ではなくテレビ局の責任ではあるが。建前として実業団は普段は仕事をして合間に練習をする人達の集まりだ。日本で仕事をする人がなぜ日本語を話せないのか。テレビ局は視聴者をバカにし過ぎてゐる。
三番目に普段の仕事の量である。実業団なのだから最低一日6時間は仕事をすべきだ。かつてオリンピツクはアマチユア主義を厳しく追求し違反者はメダル剥奪の厳しい処分を化した。今はアマもプロも一体で、それでは動物の競技会と変らない。力の強い動物、足の速い動物が優勝する。実業団はアマチユアを貫くべきだ。
重川材木店は実業団の模範である。大工の仕事はきちんと行ひ、練習は仕事以外の時間に行ふ。観客からも「大工さん、がんばれ」と声援が起きた。

一月六日(日)「瀬古利彦氏とヱスビー食品と転職権」
瀬古利彦氏は駅伝解説者として毎年テレビに出演する。陸連理事や東京都教育委員も兼ねる。今まで気が付かなかつたが今年のテレビで瀬古利彦(エスビー食品)といふ表記に驚いた。あれだけ世間で活躍してもヱスビー食品の従業員だつた。日本には転職権ともいふべきものがなくなつた。私が富士通グループだつたときは優秀な人ほど早く転職するといふジンクスがあつた。富士通グループに転職して来る人も、例へば公立小学校の教師だつた女性が退職してマイコンスカイラブ(パソコンのシヨールーム)のインストラクターになり、その後秋葉原スカイラブに転勤になりさうになり、あそこは難しい質問が多くガリ勉をしなくてはいけないといふので技術部門を希望して武蔵小杉のシステム部に来たといふような人ばかりだつた。その後失業者の増大とともに日本から転職権は消滅した。
ヱスビー食品について調べると更に複雑な事情が判つた。今年三月末で陸上部を廃止することが昨年八月に発表されてゐた。選手6人、スタツフ6人の転属先を探し個別ではなく一緒が希望だといふ。瀬古はスポーツ推進局局長なのだからヱスビー食品に残ればよいではないかと思ふが、この役職自体がコーチの上の監督の上の部長の上の組織であつた。
日本の実業団は従業員とセミプロの中間で揺れ動き複雑な地位にある。解決策として一日6時間以上従業員として働き残りの時間でスポーツ活動を行ふ人と、他のチームのスタツフやテレビ出演や陸連の理事を兼ねる契約者の二分化を実業団が規定すべきだ。

一月七日(月)「一般国民から大手を見る眼」
今朝のニユースでDeNAがヱスビー食品の瀬古局長以下全員を引き取ることが報道された。これで瀬古氏も一安心であらう。ここ十数年ほどは実業団から撤退する大手が相次いだ。私の家から歩いて30分ほどのところにもかつては東芝女子バレーボールの寮があつた。ある時、高校の女子バレーボール部のバスが近くに駐車してあつた。女子高生が見学か練習試合に来たのだらう。そのバレーボール部が十四年前に廃部になつた。選手やスタツフはその後、岡山で多数の企業が出資し地元の支援金やフアンクラブの会費で運営するクラブチームとして活躍してゐる。
中小企業から大手を見る眼は複雑である。かつて大手は新製品開発力や製造力で利益を上げ、それが労働者や下請けに利益のお裾分けを与へた。しかしプラザ合意以降は現業の労働者は激減し、大企業は下請けと非正規雇用搾取で利益を上げるようになつた。実業団が開発型の大企業からの利益分配で運営されるのはよいことだが、搾取型の大企業からの利益分配で運営されるのには反対である。
監督やコーチの出向はよくない。雇用が身分になつてしまふ。昨日、選手やスタツフは六時間以上働く従業員型と、それ以外の契約型に分けるべきだと述べたのはこの延長線上にある。中小企業関係者だけではなく個人商店もパートも一般国民はさう思つてゐよう。個人商店とは商店のほかに職人などを含む個人事業主のことだが、ソフトウエア産業で個人事業主といふと偽装請負、偽装契約社員で極めて語感が悪い。だから個人商店と呼ぶようにしてゐる。

一月十二日(土)「会社の適正規模」
私が富士通の関係会社に入社したのは昭和五十九年で、この年は半導体は高収益を上げた。だから富士通はタモリを広告に使ふとともに、当時の国鉄の12系客車を1編成借り切り社内を改造してマイコンFMシリーズの宣伝のため、全国に走らせた。私は不確実だが新宿駅のホームに停車して展示するところを見た。あと確実なところでは川口駅の貨物線からビール工場への引込み線、保土ヶ谷駅の貨車用の側線で展示したこと憶へてゐる。新宿駅に展示したときはまだ入社前で、いい会社に入社できたと喜んだものだつた。
半導体時代は、FMシリーズのハード、ソフトの開発、第三者アプリケーシヨン会社への開発支援、技術サポートはすべて川崎工場小杉分室で行つてゐた。営業は全国の富士通支店のうち主な支店8箇所くらいに集結してゐた。その翌年、半導体不況となりFMシリーズは電算部門に移管された。移管の前に私が指摘したのだが、電算部門で会社は事業本部、システム本部、営業推進本部、営業本部に分割された。
半導体事業本部は人手不足だつたから例へばマイコン事業部長は事業部長、部長、課長の三つを兼任した。電算部門は年齢が上がつても技師になれない連中が技師補のまま関係会社に出向し課長になつた。彼らは頭が悪く、それでゐて子会社に出向したからやる気がないし、そもそもFMシリーズのことをまつたく知らなかつた。
富士通は半導体事業本部くらいが適正規模で電算部門は大きすぎる。こんなところに柏原が入つても平凡なままで一生を終わるだらう。

一月十三日(日)「輸出攻勢とバブル」
昭和五十九年は、川崎工場の研修室の冷暖房器は床置き式で富士電機製造株式会社と書かれてゐた。富士電機製造が会社名を富士電機に変へたのはその後である。富士通は富士電機製造の関連会社なので元の社名は富士通信機製造株式会社だつた。川崎工場には半導体製造部門がまだあつた。本館といふ二階建て木造の建物もあつて、廊下が馬蹄形に左右対称で一番下の頂点の部分の入口が川崎工場の正門に面してゐた。その周辺は赤いじゅうたんが敷いてあつたので、来賓はここから入るのかと思つた。役員室や工場長室もあるに違ひないが、この当時の富士通は事業本部制だつたから工場長の権限は少なかつた。立ち入り禁止だとかの表示はないから私は富士通病院に行つたついでに馬蹄形の廊下を一周した。まだセキユリテイだとかがうるさくない社会の信頼が崩壊してゐない時代の話であつた。
富士通ニユースといふ20ページくらいのA4くらいの冊子が毎月全員に配布されたが、サウジアラビアに電話交換機を輸出しただとかどこの国からコンピユータ輸出の契約を取つただとかが毎月のように載つた。そんなに輸出ばかりしてよいのかと思つた。この当時の日本人の意識は戦前と変らない。出兵を拡大することはできても撤兵ができなかつた。そしてプラザ合意が起きて製造業は大変なことになつたが、その後のバブル経済で深刻さが先送りされた。
今日の日本経済の低迷は、このときの後遺症で大企業の役職が水ぶくれしただけである。当時は大企業の取締役といへば一応は社会的に上層といふ感覚があつた。しかしバブルで取締役の人数がやたらと増へて、常務取締役ではないと上層とは社会全体が思はなくなつた。大企業がバブル以前の昭和六十年ころ、或いは輸出攻勢の前の昭和五十年ころに帰れば日本はまた元気になるのに既得権だけ手放さないから、派遣だの非正規雇用だのと社会が二分化する。
柏原が入つたのはさういふ状態の富士通である。昭和五十年の製造業の富士通ではない。社会が二分化したからこのまま富士通で一生と思ふかもしれない。しかしこれだけ箱根駅伝で人気を得たのだから埋もれさせるには惜しい。まづ箱根駅伝を改革し関東以外の大学にも門戸を開くべきだ。或いは東京から箱根を目指す東日本と、静岡から箱根を目指す西日本がゴールを共通にしてもよい。これは人気が出さうである。
実業団も大学の一日前に箱根を目指したらだうか。西日本は別にして駅伝といへば箱根である。駅伝を山型駅伝と平地駅伝に分けてもよい。少なくとも千葉駅伝は廃止したほうがよい。国際陸上競技連盟公認とはいふものの参加国が少なく、走行距離も日本の駅伝とは異なり中途半端である。(完)


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