99、社会に役立つスポーツに

平成ニ十一年
ニ月十六日(月)(箱根駅伝)
今年の正月は、スポーツが精神状態に大きく影響されることを示した。まず箱根駅伝では、予想を覆して東洋大学が優勝した。不祥事があり監督は辞任、一時は出場が危ぶまれた。それを克服しての優勝であった。連盟から応援を禁止され、地味に出場しての優勝であった。
一方の駒澤大学は投資に失敗して理事長が辞任する騒ぎがあった。そのことが影響したのであろう。前回の優勝校がシード落ちするのは大会史上初めてである。
日体大は偉い。走り終わった選手がコースに一礼する。私は途中から日体大を応援した。
上位校の選手はどこもサングラスはかけていない。一校だけかけているところがあった。暴力団じゃあるまいしこういう学校はシード落ちしないかなあ、しかし上位だから無理だろう、とテレビを見ていたらシード落ちした。国際大会で皆がサングラスを使うなら用いてもいい。上位校がどこも使っていないのになぜ使うのか。
学校スポーツは教育の一環である。否、プロ選手を含めてすべてのスポーツは社会教育の一環とならなくてはならない。

ニ月十八日(水)(精神は重要だが精神主義はよくない)
大相撲では、安馬が大関になった。しこ名も日馬富士と変えた。ところが初日から四連敗し、六日目にも負けた。普段は相撲を見ない人を含めて日本中がどうなるのか心配するくらいだった。すべてのスポーツは精神状態に影響する。
精神は重要だ。しかし精神主義はよくない。無能な上層部にとり精神主義は成果主義に次いで楽だ。自分ではやらないくせに他人には押し付ける。一昨年の元防衛事務次官がいい例である。部下には偉そうに訓示しながら本人は収賄で逮捕された。

ニ月二十日(金)(非欧米地域から競技会の改善を)
体育は健康を増進し精神を鍛錬するものでなければならない。ところが今のオリンピックはそうなってはいない。手術を受けた、古傷をがまんして出場している。そんな選手ばかりである。健康の増進には役立っていない。
科学的に練習しライバルの情報を収集し策を立て薬物違反すれすれの方法を用いる。これでは精神の鍛錬にもならない。
欧米人の考えることは、植民地支配といい、地球温暖化といい、他国への欧米文化の押し付けといい、オリンピックといい、どれもこれも野蛮なものばかりだ(「92、欧米野蛮人」へ)。
国際大会は、体操の採点のように、成績と共に健康の増進と精神の鍛錬にどれだけ役立ったかを採点し競うべきである。まずアジアアフリカから実施したらどうか。

ニ月二十一日(土)(各国の文化に基づいた練習と出場を)
10年ほど前だろうか。水泳日本代表の選考で或る有力候補が落選した。その選手はアメリカで強化をしていたが、そのニュースを聞いて「アンビリーバブル」と答えた。或る新聞にそのように載った。
言うほうも言うほうだが書くほうも書くほうである。まず「アンビリーバブル」なんて答える輩は代表に選ぶべきではない。日本を代表していない。一方でアメリカに滞在していたので咄嗟に答えたのかも知れない。だとすればそのような記事を書くほうが悪い。
選手はその国の文化で育て、その国の文化で出場する。競技はその国の文化に基づいたかで加点する。そうしないとオリンピックは、 冷酷な科学万能主義、違反を隠蔽することが得意な連中、欧米かぶれ、力が強いだけの野蛮人間などの集団になってしまう。

ニ月二十二日(日)(オリンピックの世界貢献)
オリンピックの開会式はフランス語で始まる。オリンピックの公用語はフランス語と英語であり、双方に違いがあった場合はフランス語が優先される。ソ連崩壊の後、英語帝国主義者どもが世界中でさかんに画策している中で、英語が第一言語ではないオリンピックは貴重である。今後はフランス語だけを公用語にして、ロシア語、アラビア語、中国語、日本語、ドイツ語、スペイン語、その他希望する言語をすべて準公用語にしたらいい。希望が殺到しないように費用分担をさせる必要はある。たまには英語抜きでやってみよう。
日本は、「日本人は英語が下手だ」なんていっていないで国際舞台から英語はずしを進めるべきだ。これが国益である。

ニ月二十三日(月)(日本泳法)
昭和40年あたりまでは、伸泳(のし)という立ち泳ぎをできる人が多かった。船が沈んだときにクロールでは長続きしない。第一、他の人とどうやって話をするのか。平泳ぎにも通常のほかに立ち泳ぎの日本式がある。
島国の日本はまずこれらを復活させ、アジア各国の泳法と協力して国際競技に採用させるべきだ。

ニ月二十六日(木)(プロ野球は一旦廃止せよ)
野球は危険なスポーツである。少年野球で球を胸に当てて心臓麻痺で死亡したという事件が5年ほど前にあった。その前には高校野球の応援のブラスバンドの女子部員の目に当たり失明のおそれがあるという新聞記事もあった。
野球はなぜあんなに野蛮なのか。先住民と野生生物の楽園であったアメリカ大陸に白人が入り込み野球が生まれた。野蛮こそ野球のルーツである。世界でも野球が流行っているのはアメリカ大陸と東アジアくらいなものである。オリンピックからも野球は外されることになった。
かつては娯楽が少なく、野球は多くの国民に親しまれていた。「巨人の星」という漫画もあり、青少年育成の一助にもなっていた。今はどうか。高給取り、フリーエージェント、プロ野球選手会。どれもこれもアメリカの猿真似で日本に合わない。野球を観戦したい人は独立リーグを応援しよう。あるいは上野選手が活躍した女子ソフトボールを応援しよう。

ニ月二十七日(金)(大相撲)
大相撲が大麻で揺れている。予想はしていた。五年位前に若い相撲取りが二人、横浜線の確か八王子から町田あたりまで乗った。体が大きいので七人掛けの椅子に五人しか座らなかった。二人はしり取りを始めた。「お、国語の勉強になるから若いのに偉いな」と思って聞いていると途中で下品な言葉を乱発するので呆れた。周りに乗客はたくさん立っているのに。更に失望したのは席を詰めればもう一人座れるのにゆったりと座っていることだった。
翻って昨年は朝青龍がよくなかった。上がしっかりしていると下まできちっとやる。上がああだから下は大麻を吸う。相撲は勝ち負けではなくこれも体操のように採点で決めればいい。そして横綱は廃止したほうがいい。横綱が番付に掲載されるようになったのは明治二十三年、吉田司家と縁を切ったのは戦後である。まだ歴史が浅い。横綱になるとわがままになって師匠と不仲になる、とは30年から言われていた。横綱は引退後に任命するか弓取り式のように代理が勤めたほうがいい。早急に手を打たないと大相撲は国技から押し出される。

三月一日(日)(スポーツ選手は毎日勉強しろ)
30年前は、電車の車内でスポーツ新聞を読んでいる人が多かった。たまに「聖教新聞」や「赤旗」を読んでいる人もいた。最近は経済新聞を読んでいる人が多い。これは現業が海外に出て事務技術職が増えたためであろう。
スポーツ選手も1日1時間は勉強すべきだ。今は書籍がたくさん出版されている。伝統競技の相撲取りは特に古典を勉強してほしい。平家物語が得意な関取や道元の正法眼蔵が得意な関取などを輩出すべきである。全選手が一斉にやればできるし、やらない選手は反則負けにすればいい。

三月五日(木)(二重規範)
今の相撲形態は明治以降に作られた。だから日本文化と欧米文化の悪いところが集合している。まず親方制度はよくない。名跡と財団法人評議員の集合である。名跡の時価を数世代に亘って減額し最後は廃止すべきだ。
相撲協会と一門、部屋の関係もよくない。一門が伝統なら、一門を協会の下部組織とし、一門から一人ずつ理事と監事を出すべきだ。規約では全体で選挙することになっているのに実態は一門ごとに立候補、というのはよくない。
部屋は個人財産ではなく協会が所有し部屋持ち親方に無償で貸し付けるべきだ。親方は背広ではなく着物を着るべきだ。

三月七日(土)(社会人スポーツの苦境は社会の反映)
社会人スポーツが苦境に陥っている。撤退する企業が多い。労働者は社会の最下層だから労働組合が認められるという原則に社会が反したためだ。労働者の下に非正規雇用者がいると、選手を正規労働者として雇用できなくなる。今ではスポーツ選手は契約社員や非常勤嘱託が一般となった。これでは選手と社内の一体感も生まれない。
社会人選手は仕事を4時間以上した上で練習に参加させるべきだ。そうでなければ社会人とは言えない。そしてオリンピックは社会人選手でのみ構成すべきだ。学生も参加させるべきではない。

三月九日(月)(精神の荒廃を救う指導者に)
精神主義はよくない。しかし精神の荒廃はもっとよくない。戦後の日本は精神主義を嫌うあまり精神を荒廃させてきた。
体育選手は国民の精神育成の模範となり、選手引退後は今までのプロ、学生、企業のコーチのほかに、広く国民を指導する職に就くべきだ。 不確実性が高いと給料も高くないと合わない。プロ選手の収入が多いのはそのためだ。しかし引退後の職を増やし確実性を高め、現役時のしかも一部成功者の高額な収入を常識内に抑えることが日本の文化には合っている。
そのためには選手は国民の模範となる必要がある。


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