二百四十六、エルピーダ倒産(富士通時代の思ひ出)
平成二十四年
三月五日(月)「エルピーダとルネサス」
エルピーダが倒産した。聞いたことのない会社なので調べると、日立、日電、三菱電機の半導体部門を統合した会社である。それを知つて思わずうなつた。私がかつて勤務した富士通小杉ビルの新幹線、横須賀線の線路をはさんだ背後の日電玉川事業場にあるからである。しかしどうも話が変だ。更に調べると玉川事業場にあるのはルネサスで日電、日立、三菱電機のシステムLSI部門を統合した会社、今回倒産したのはエルピーダで日電、日立、三菱電機のDRAM部門を統合した会社だつた。
三月六日(火)「産業のコメ」
30年前に、半導体は産業のコメと呼ばれた。半導体のなかでもDRAMがその中心だつた。日本は世界のシエアを上り続け80%に達した。しかしプラザ合意でシエアを急速に低下させた。平成11年に日電と日立で合弁会社が設立されたとき両社の世界シェアは11%と6%だつた。平成14年は4%台に落ちたが現社長の坂本幸雄氏が就任し三菱電機のDRAM部門を統合してから世界第3位に復活した。かういふ会社は誰もが応援したくなる。
三月七日(水)「日電と日立の責任」
坂本社長は体育会系である。坂本氏の親戚の紹介でテキサスインスツルメンツ鳩ケ谷工場の倉庫係に採用され持ち前の馬力を発揮して副社長にまで上がつた。その後、神戸製鋼所の半導体本部長、ユーエムシージャパンの社長を歴任し、半導体会社の再建屋と呼ばれた。今回のエルピーダも本来であれば平成14年に消滅したものをここまで回復させたのだから見事である。
取締役は坂本氏以外に、日電出身者が2名、日立出身者が2名、テキサスインスツルメントの元財務部長が1名、台湾の合弁会社社長が1名、社外取締役に野村證券1名である。日電と日立は所有株式こそ低下したが、今回財政支援をすべきだつた。
三月八日(木)「プラザ合意」
世界のシエア80%を占めたときに(1)プラザ合意が起きた。日本の貿易黒字を減らすために(2)韓国にOEM生産させた。有償だつたにせよ技術を手取り足取り教へたから、今では韓国の半導体メーカーが世界のトツプを占める。アメリカとの交渉で日本は(3)CPUから手を引いた。それまで日本は日電やパナフアコムが日本独自のCPUを製造してゐた。しかも当時のCPUはセカンドソースで外国企業にも有償で生産を認めてゐた。例へば富士通はモトローラの6809や68000のセカンドソースだつた。だから私は6809のアセンブラは富士通の6809取扱説明書で覚へた。しかし日本は(4)セカンドソース交渉をこれ以降せずインテルは独自生産に走つた。
貿易黒字の解消は日本の急務である。だから韓国にOEM生産させたことはよかつた。しかし貿易黒字は、下請けの禁止、終身雇用の撤廃など根底を解決しないと解消しない。だからプラザ合意といふ最悪の選択をすることになつた。しかも競争力を弱めるには(2)(3)(4)のうち2つ程度か、或いは(1)のみでよかつた。否(1)は選択してはいけなかつた。もし選択するときも終身雇用の破壊と下請けの禁止ですぐに円安に誘導することが必要だつた。
官僚組織は全体を見ないから(1)から(4)まですべてに合意し、それでゐて貿易黒字が一昨年まで続いた。昨年、貿易赤字になつたのは東北大震災とタイ洪水のためである。
つまり円高による国内産業の圧迫(エルピーダ倒産を含む)と失業率の増大と、それによる非正規雇用といふ経済犯罪行為は、官僚組織の無責任と拝米にせ経済学者どもの詐欺行為が原因と言へる。
三月九日(金)「日本には創造力があつた」
日本がDRAMに強いのは、日本の特性にあつてゐるためだと当時は言はれた。集団主義がCPUではなくDRAMの設計に向いてゐるといふのだ。これは間違ひではないが完全に正しくはない。
当時日本にはTRON計画といふハートウエア、OSからキーボード、ICカード、デジタル家電までを含む膨大な計画があつた。ところが日米貿易摩擦で骨抜きにされた。OSはマイクロソフト、CPUはインテル。これではDRAMも独自性を発揮しようがない。日本が開発したOSやキーボードがあるからそれに適したCPUやDRAMがある。
TRON以外でも日本のパソコンは独創性があつた。日電のPC98シリーズは国内のシエアが極めて高く、富士通のFMシリーズは1周遅れの2位と言はれた。当時のパソコンは機種が違ふとソフトが動かない。だからPC98シリーズで動くソフトばかり増へてFMシリーズで動くソフトが少ない。ワープロソフトさへ揃はない。ジヤストシステムの「一太郎」はFMシリーズ用を開発しない。だから東海クリエイトに頼んで「ユーカラ」をFMシリーズで動くようにしてもらふ。富士通はそのように努力した。
ところがDOSVマシンといふIBM互換機がアメリカから入つてきた。周辺機器が安いといふ触れ込み日電以外のすべてのメーカーが飛びついた。最後は日電も移らざるを得なくなつた。そしてすべてのメーカーが価格競争に巻き込まれた。
三月十一日(日)「エルピーダの問題点」
だからといつてエルピーダの経営に100%賛成といふ訳ではない。同社の組織図を見るとCEOの下に「ファイナンス&アカウンティングOffice」「クオリティアシュアランスOffice」「テクノロジーディベロプメントOffice」など5つのOfficeと「DRAMビジネスUnit」と監査室があり、Unitの下には3つのDivisionと1つのDepartmentと広島工場がある。つまり14の組織名のうち監査室と広島工場以外はすべて横文字である。
これで心機一転を狙つたのだらう。しかし内容を伴わず組織名だけ斬新にしたとも考へられる。或いは改名したときはよくても数年で旧風に戻る。英語名を用ゐることによる従業員の不安定感増大も見逃せない。
エルピーダは会社名からしてよくない。私でさへかつて勤務したビルの向ひのルネサスと間違へるくらいだから、一般の人はもつと間違へるだらう。日本総合メモリあたりがよかつたのではないだらうか。大日本記憶素子、帝国電子部品、これだと古すぎる。
日本のすべての会社に言へるが、横文字の意味不明の会社名はやめるべきだ。
三月十二日(月)「マイコンからパソコンへ」
かつてCPUは多数の真空管やトランジスタで構成され、一部屋を占有するくらい大きかつた。それが昭和六十年には面積が2cm×4cmで厚さが5mmの半導体になり、マイクロプロセツサと呼ばれた。マイクロプロセツサにメモリも組み込んだものも作られ、マイクロコンピユータと呼ばれた。
一方でマイクロプロセツサにメモリとキーボードと電源装置を付けてプラスチツクの箱で囲んだ製品が各電機メーカーの半導体部門で開発されて、マイコンと呼ばれた。「マイコン」の「マイ」はマイカーなどと同じ「個人の」といふ意味と「マイクロ」を掛けた。
半導体部門の収益源のDRAMは価格の暴落が早い。64Kバイトのメモリが開発されると価格は高いが、16Kバイトのメモリは暴落する。256Kバイトのメモリが開発されると価格は高いが64Kバイトのメモリは暴落する。そのため富士通では電子デバイス事業本部(旧称、半導体事業本部)が赤字になりマイコンを電算機事業本部に委譲した。そしてこのころから世間ではパソコンと呼ぶようになつた。そしてマイコンは本来の意味のマイクロコンピユータを指すようになつた。
日電のパソコン「PCシリーズ」は日電のドル箱である。田町の日電本社ビルはPCシリーズの利益で建てたと言はれた。日電もたぶんPC88あたりまでは半導体部門、PC98からは電算部門だと思ふ。富士通は全製品を移管した。
三月十三日(火)「日電と富士通」
日電のPCシリーズは日本のパソコンのシエアの8割を占めた。一周遅れで2位の富士通は、日電玉川事業場と線路を隔てた向ひの5階建てビルが開発拠点だつた。ここに富士通(略称FJ)のマイコン事業部と、100%子会社の富士通マイコンシステムズ(略称FMS)があつた。FMSはハートウエア開発、4ビツトマイコンとFMシリーズのOS開発、独立系ソフト会社へのFMシリーズ用アプリ開発の支援、全国のマイコンシヨールームへの技術サポートをこのビルで行つた。私はFMSの所属だつた。
今でこそ日電玉川にはルネサスがゐるが、当時は向かひに同業の半導体がゐるといふ印象はなかつた。おそらく日電玉川は通信機器製造工場だつたと思はれる。広大な敷地で、向川原駅から武蔵小杉駅に向かふ道路と、新幹線品鶴線の線路で、三つの地区に分かれてゐた。
三月二十日(火)「工場のある街」
日電以外も周りは工場ばかりだつた。富士通小杉ビルも組織上は川崎工場小杉分室である。その川崎工場は製造部門がまだ残つてゐた。食堂ではカフェテリアもあつたが、毎日再使用のプラスチツク箱に入つた定食もかなりの比率で食べる人がゐた。富士通がバスケツトボールの実業団チームを創つた。歌詞は既にあり曲を募集したので私も応募した。採用されたのは別の人の作曲だつたが、川崎工場合唱団の女性から定期演奏会の招待券を頂き品川公会堂に聴きに行つたことがあつた。閉幕のあとに出演者が観客席に来て、同じ職場の人たちと談笑し、あちこちで小コーラスも起きた。招待券を私に送つてくれた女性が半導体製造に所属だつたこともあり合唱団の人たちはほとんど技能職だと思ふ。企業は多数の製造部門があつてこそ人間関係が成り立つと感じた。
日電玉川ではたぶん共産党の人だろう。仲間とともに解雇反対のビラを出勤時に配つてゐた。日電の人はほとんど受け取らなかつた。解雇は2年後に撤回され解決した。
三月二十三日(金)「プラザ合意とバブル経済とバブルがはじけた後」
その後、プラザ合意とバブル経済が日本列島を襲つた。プラザ合意の影響はその後のバブル経済がありすぐには現れなかつたが、工場を少しづつ海外に移転させた。バブル経済では、それまで富士通は全国に多数の営業所があつた。それを支店と改称した。各支店にはトールダイヤル(社内電話)はなかつたが、ほとんどすべての支店にトールダイヤルが通つた。部長代理、部長付、課長代理、調査役はゐても担当部長はゐなかつた。担当部長、副技師長といふ役職が富士通全体でそれぞれ1人くらいづつ現れた。その後は富士通グループを辞めたのでわからないがたぶん担当部長だらけになつたと思ふ。
富士通は登記上の本店が川崎工場、本社は東京駅丸の内口近くの古河総合ビルで、本社に一回行つたことがあるが天井が低く古いビルだつたと記憶してゐる。その後本社はバブルで古河総合から近くの丸の内センタービルに引つ越した。私の所属したFMSは登記上の本店が川崎工場、本社が小杉ビル、経理が古河総合ビル、CEが川崎工場裏の宮内出荷センター、営業は全国の支店のうち半導体の営業のゐる八店くらいに同居してゐた。電子デバイス事業本部は営業も本部内にあり全国の支店のうち8箇所くらいにしか居なかつた。あと全国6箇所くらいのシヨールーム「マイコンスカイラブ」もFMSが運営してゐた。
2年前に武蔵小杉を訪れると工場は半分なくなつてゐた。日電玉川は道路を挟み三つの地区から構成されてゐたが、駅に一番近い地区は撤収中だつた。もう一つの地区は面積を半分に縮小し跡地に2棟の高層ビルが建ち日電のオフイスになつてゐた。
三月二十四日(土)「DRAMの暴落で富士通グループを退職」
エルピーダの倒産は他人事とは思へない。私が富士通グループを退職したのもDRAM暴落が原因だからである。DRAMは容量の大きいものが出ると従来のものが暴落する。そのため半導体の採算が悪化し赤字のFMシリーズを電算部門に移管することになつた。私の所属するFMSはそれまでも富士通VLSI設計(略称FVD)を分割したが、それは半導体内部の話だ。しかし今回は電算部門への分割である。
電算部門は電算機事業本部、営業推進本部、営業本部、システム本部の4つに分かれてゐるから会社の再分割は免れない。私はさう主張した。他にも反対する人がゐて説明会も持たれた。そして分割された。ここまではよい。しかしすぐ直後に私が言つたように3つに再分割された。会社は製造、営業、事務技術の三つがそろつて成り立つ。人員が一部に偏ると社内の雰囲気が悪化する。
だから後日の話だが、或る独立系ソフト会社は商品販売部門を持ちハードウエアなども販売し、その理由を開発(昔なら下請け開発、今なら偽装請負)だけだと社内が暗くなる、と言つてゐた。まつたくそのとおりである。私の2回目分割後に所属したのは電算機事業本部の関係会社で同本部から雰囲気の暗い連中が親会社意識丸出しで傲慢に大挙して出向して来た。丁度総評解体の時期であり、総評が解体されると日本は大変なことになるからそれに連動して大いに労働運動を行つた。私が左派系の組合と人脈で繋がつたのはこのときである。
三月二十五日(日)「エルピーダ倒産に見る無能マスコミ」
エルピーダが倒産したときに、ほとんど(或いは全部)のマスコミと評論家は「DRAMは日本で作り続ける必要はなかつた」と書いた。しかしそんなことは中学生でも思ひつく。それでも作り続けたには何か理由があり、その理由は正しい筈だ。私は半導体会社に所属はしたが業務はパソコンだから半導体に詳しくはない。しかしそう確信した。
そしてそれは正しかつた。東京大学准教授竹内健氏の「エルピーダ倒産の理由が『過剰品質で高価格』とか『DRAMは誰でも作れる』などと、LSIを開発している私達からすると、首をかしげざるを得ない論評が新聞などで書かれていた」を読んで納得した。容量の小さいDRAMを作れても大きなものはなかなか作れない。足し算はできても積分ができるとは限らないのと同じである。日本の大手マスコミと評論家は足し算しかできないような連中ばかりである。今回のエルピーダ倒産で明らかになつた。
三月二十七日(火)「新製品開発と同じ」
新製品の開発も同じである。ラジオの時代に白黒テレビを製造し、白黒テレビの時代にカラーテレビを製造する。そして薄型テレビや大型テレビに至つた。これらはDRAMの容量大型化と同じである。新製品で利益を得てもすぐ追ひつかれる。それは海運といふ石油大量消費と引き換へである。石油大量消費を止めれば各国や各地域で生産と消費が行はれる。そのような世の中にすべきだ。
三月二十八日(水)「社会も人員構成が大切」
プラザ合意までの日本社会は、すべての人に仕事があつた。その後は急激な円高で人員構成がいびつなものになつた。そして今では収支の数字合わせのため非正規雇用がかなりの比率を占めるに至つた。
労働者は社会の最下層だから労働組合が認められる。正規雇用の下に非正規雇用を作つたら、労働組合は談合組織、既得権組織となる。海外では職能別組合とすることでそれを防いだ。
日本のすべきは、まづ非正規雇用の禁止である。これで貿易収支は赤字になりそして円安になり、プラザ合意の前の元気な日本に戻すことができる。
三月二十九日(木)「二年後の武蔵小杉」
先日二年ぶりに武蔵小杉に行つてみた。工場は更に少なくなつた。武蔵小杉駅前の東京機械の工場は解体を待つばかりとなつた。日電玉川は二地区になつた。富士通小杉ビルの向かひの工場も消滅し高層ビルが2つ建ち、そこにも富士通が入つた。富士通は儲け過ぎである。
駅から離れた変な場所にバスターミナルができた。よく考へると横須賀線の新駅だつた。あの辺は南武線の向河原駅からも歩いて近い。私は武蔵小杉までの定期券だつたが朝は向川原で降りて日電専用出口から一旦日電に入り、すぐ一般道路に出た。日電玉川は三つの地区に分かれるので他の地区に行く人も多くそれが可能だつた。しかし或るとき社員証を調べるようになつた。富士通小杉ビルでも「日電を通れなくなつた」と話す人がゐたから私以外にもやる人はゐた。その後日電玉川の一部が高層ビルになつた。そのため日電専用出口は直接駅前広場につながるようになつた。
会社は製造、営業、事務技術の人員構成がそろわないといびつになると述べたが、社会も農林水産業、製造業、第3次産業の三つがそろつて成り立つ。だからプラザ合意以降の日本は、日本の長い歴史の中でも南北朝時代と並び異常状態だつたと後世言はれよう。地球が滅びなければの話だが。(完)
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