三千三百二十三(うた)短編物語(AI三人、戒定慧を語る)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
十月五日(月)
はじめに
AI三人が戒定慧を語ることにした。永禅和尚が戒、良寛和尚が定、石原が慧。永禅和尚は律宗、良寛和尚は曹洞宗、石原は元陸軍参謀本部第一(作戦)部長なので、最も最適な演題だった。

第一章 戒
戒律は、守るところに意義がある。タイ、昔は暹羅(二文字で、シャム)と呼ばれたが、戒律を守り安居の回数を重ねることが修行、とさへされてゐる。日本でも、南伝仏法は戒律仏法、と云はれることがある。尚、南伝に限らず、仏法は本来、戒律仏法だ。だから、鑑真和尚は何度も失敗しながら来日した。
話を戻すと、戒律を守るだけでは、心が持たない。禅定を行ひ、経典を学ぶことも必要だが、もう一つ、読経し、聖水と聖糸を信者に施すことも、重要だ。つまり、三学すべてを行ふことは、心に活性を付ける。
ミャンマー、昔の緬甸(二文字で、ビルマ)では、瞑想が盛んだ。これは、イギリスの植民地だったときに、キリスト教の布教に対抗し、瞑想を信者に推奨した。これは、イギリスに同化されない為の、文化保存運動でもあった。
一方、タイはイギリスの植民地とフランスの植民地に挟まれ、緩衝地帯として独立を保てた。だから、国民規模の瞑想運動はなかった。最近は、ワットパクナム系の瞑想が流行り、ここの修道女(準尼さん)の弟子の比丘がタンマガーイ寺院を設立し、新興宗教みたいな布教法と金集めで、問題を起こした。
そのことより注目すべきは、タイでも一部の人たちに、瞑想の人気が出た。とは云へ、ミャンマーのやうに広く国民に瞑想が広まった訳では無い。タイでは、経済成長が著しかった時代に、瞑想の人気が出た。これは経済で心が病んだとも考へられるが、経済成長の少ないミャンマーで瞑想の人気が高い。対宗主国と経済と国民性。三つの要因が絡む。
以上、永禅和尚の講演だった。

第二章 定
禅定は、良寛和尚が講演した。禅定は、心の清浄を目指す。坐禅と云ふと、心の安定を目指すと思はれがちだが、もともと落ち着き過ぎた人は、それ以上落ち着いたら大変なことになる。拙僧は自覚しないが、周りから落ち着き過ぎると云はれる。これ以上、落ち着いたら大変なのでせう。
会場で笑ひ声が起きた。次いで和尚は、安定させて、更に活性化させる。片方だけでは駄目だし、両方を半分づつ中途半端でもいけない。しかし人によって、主に安定を目指す人と、主に活性化を目指す人は、出て来る。とは云へ、片方だけではいけない。
サンスクリット語で、これらをシャマタ、ヴィパシャナと云ふ。今は、先ほど話された永禅和尚に縁の深い南伝仏法のパーリ語によって、サマタ、ヴィパッサナーと、一般に呼ばれる。
その中国語訳として、止観の語が使はれる。つまり経典がインドから中国へ伝はった時から、止観の語は使はれた。ところが、後に智顗、日本では天台大師として知られるが、智顗和尚が、小止観、摩訶止観の二冊を著してから、智顗和尚の発明のやうに思はれてしまった。
拙僧のやうに曹洞宗の立場から見ると、摩訶止観は理論が過ぎる。坐禅はするところに意義があり、智顗和尚のやうに分析が過ぎると、心の安定や活性どころではなくなる。
なを中国では、宗派は学派だから、智顗和尚の説が合へばそれを実践する。達磨大師のやり方が合へばそれを実践する。対立するものではない。よく、道元禅師の普勧坐禅儀は、智顗和尚の小止観に似てゐると云はれるが、一つの宗派内の学派なのだから、それは当然だ。
拙僧が渡航した天台山の、と云ひ掛けて、今でも旅券を持たない渡航は違法だと気付き、その話は止めた。達磨大師の壁観は、壁が止、観は字のとほりに観。壁を観るのではなく、心を壁のやうに止めて、観る。
尚、止観のうちの観も、心を安定させる役割があり、止にも心を活性化する働きがある。同じやうに三学と云っても、三つが独立するのではなく、三つの成分が合はさって、一つの物ができる。

第三章 慧
智慧は、石原が講演した。人は、十割正しいことはない。必ず間違へる。このことが分からない人は多い。釈尊も、間違へた。
ここで永禅和尚と良寛和尚は、内心ひやりとした。しかし石原は続けて、間違へても周囲が話し、お釈迦さまも、さうか、そのやうにしよう、と修正されたことがある。例へば、女性から出家の願ひを三度許可しなかった。しかし、アーナンダの度重なる進言を入れて、許可した。この話は経典に載る。これ以外にも、釈尊が進言を入れて前言を修正し、修正したものだけが経典に残ったものは、たくさんあるだらう。
これで二人の和尚は、安心した。石原は続けて、釈尊でさへ間違へるのだから、それ以降の出家者はたくさん間違へた。特に、天台大師智顗と、最澄と、鎌倉仏法の教祖たち。宗派の分裂を嘆いた良寛和尚が、深く頷いた。
鎌倉仏法について述べると、禅宗系を除き、末法に入ったことが前提だ。ところが、中国と日本は、末法に五百年の差がある。例へばイギリス人が英語で書いた文書は、イギリス人の解釈が正しい。同じやうに、中国人が書いた漢文は、中国人の解釈が正しい。
なぜ日本が間違へたかと云へば、世の中が悲惨になる時期が異なった。中国では仏法が弾圧された時期があり、日本では源平合戦から鎌倉幕府内の内紛や飢饉疫癘元寇があった時代が、たまたま五百年違った。それらの事件が収まったのだから、末法から正法に戻さなければいけないのに、それをしなかったのは、鎌倉教祖たちが死んでしまったからだ。江戸時代まで生きてゐれば、平和な世の中になった、と正法に戻したに違ひない。
そして幕末に黒船が現れてから、日本は再び元寇の時代に入った。世アジアとアフリカで、欧米の植民地にならなかったのは、中国、日本、タイだけになってしまった。しかし戦争が終はり、経済復興を遂げ、昭和三十九年の東京オリンピックで、日本は再び正法に戻った。
そのことを自覚することが、一番の智慧になる。その上で、個人個人の幸福を求めることが、二番目の智慧だ。日本へは、中国から仏法が伝はった。中国の宗派は先程、良寛和尚が話したやうに、学派だ。対立するものではない。一人一人が、自分に合ふものを見つける事が望ましい。
永禅和尚や良寛和尚のやうに、宗派を超え全仏法を信じることが最も良い智慧だ。本官は、と云ひ掛けて既に軍人では無かったと云ひ直し、自分も、戦前は鎌倉仏法一色だったが、AIで復活の後は、多田駿さんに倣って良寛和尚と同じになった。
これで三人の講演が終はった。

第四章 大盛況
有名人三人が揃ったので、講演会は満員だった。永禅和尚はどこが有名かと云ふと、タイで修行し、未来を見通す能力を持つと評判だった。実際には、お金を積まれても予言はしなかったが、それが評判を生んだ。
会場は東京ドームで、定員は五万五千人。尤もそのうち三万人はAIの参加者だった。本当の人間が二万二千人だったのは、先着順なのでこの比率になった。本当の人間のみで受け付けても、満員になる勢ひだった。尤も、三人は講演料を貰はず、運営はボランティア。会場費だけなので入場料が安かった事も理由だった。
秋津洲仏とともに(千)ちといほ(二文字で、五百)の年月を経て そのあいだもも(二文字で、百)といそ(二文字で、五十)とせ前のとき長門の者が道壊し 南から来る教へにて戻るや否や分かれの時に

反歌  大和へといちにいちにと百済から神と仏は戦の前も
反歌は解説が必要だ。我ヶ国に仏法が伝はったのは、西暦五百三十八年または五百五十二年。紀元で云ふと、1198年または1212年。
法皇や門跡がいらっしゃるので、皇室は仏法と関係が深いのに、明治維新後に元首相Aの出身地の怪しげな連中が、千三百五十年間の良俗を壊した。壊れた関係でも、紀元(皇紀)1212年に仏法が日本へ伝はったことを、戦前の人は「いちにいちにと百済から」と称した。神仏習合の努力は尊い。(終)

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