三千三百十九(うた)富山高山大垣旅行記、鉄軌道の話題
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
九月二十六日(土)
貨物の組成駅が廃止される前の国鉄では、客車区が高崎、尾久、上野、品川、富山、宮原、竹下、熊本にあった。全国でこれしかないのは、多くが客貨車区だった為だ。そして、上野は交番検査を行はず、検修庫が無かった。
だから富山の比重は高いが、今となっては、まったく鉄道に関心が無くなった。
国鉄が分割のとき革マルと組むの汚きやり方に その後専ら鉄路過去のみ
反歌
組成駅廃止の後は鉄道に興味半減今へと至る
富山駅で時間があったので、市内線の乗り場を十五分ほど観てゐた。市内線は三方向と降車専用一面を、二線四面で固定化し捌く。ライトレールは、二線四面。市内線とライトレールは直列に繋がり、それぞれの外側に両渡り線がある。
7000型の台車は、横浜市電1500型にそっくりだ。そこで、AIに訊いた。
富山市内線7000型の台車はPCCみたいな外観だが
初期車(7001〜7011号車):N-102形台車モデルとなった東京都交通局(都電)
8000形と同様、車輪の内側に台車枠を配置するインサイドフレーム構造を採用していました。車輪が外側に露出するため、アメリカのPCCカーや日本の高性能路面電車(都電5500形など)に似た軽快な足回りに見えたのが特徴です。しかし、この構造は軌道状態の影響を受けやすく激しい騒音と振動の原因となり、冷冷房化の重荷にも耐えられなかったため、1993年までにすべて廃車されました。
後期車(7012号車〜):N-103・N-105・N-110形台車
振動問題を改善するため、一般的な車輪の外側にフレームがある外側枠(アウトサイドフレーム)の軸ばね式台車へと変更されました。この仕様変更によって強度が確保され、1980年代に冷房化改造を施されて現在も主力として活躍を続けています。
ばねの外側に鉄の枠が見える
頑丈な「鉄の枠が外側に見える台車」になったおかげで車体の強度が保たれ、のちに重い冷房装置を屋根上に載せる改造にも耐えることができました。
普通の台車は、ばねの外に覆いがない。あってもオイルダンパ。しかし7000は鉄製の覆いがついている
鉄の覆いの正体:「ボックスペデスタル」
ばねを箱の中に隠す構造
一般的な台車は、台車枠の下にばねをむき出しで置きます。しかしこの台車は、台車枠から下に向けて四角い鋳物(またはプレス鋼板)のガイド枠(ペデスタル)を突き出させており、その中にコイルばねと軸箱を丸ごと収納しています。
なぜそんな構造にしているのか?
路面電車は交差点のカーブや線路の継ぎ目など、過酷な段差や横揺れに常にさらされます。ばねを鉄の箱(で周囲から固定することで、車軸が前後左右に余計なブレを起こさないよう、強固に位置決めする目的があります。路面電車や一世代前の電気機関車(EF15やEF65の初期など)によく見られた、頑丈さと確実性を最優先した無骨な昭和の設計と言えます。
横浜市電の準PCCと云われた台車にそっくり。
横浜市電の和製PCCカー(準PCC)と呼ばれた1500型が履いていた、日立製作所製の「KL-20形台車」に全体の雰囲気がそっくりです。
横浜市電1500型(KL-20)と富山デ7000形(後期車)の共通点
鉄の覆い(ボックスペデスタル)
横浜市電1500型のKL-20台車も、軸ばね(コイルばね)の周りをがっしりとした鉄の鋳物の枠(ペデスタル)で囲んでいます。
防振・防音
横浜のKL-20は、PCCカーの静粛性に近づけるために台車枠の各所に防振ゴムを挟み込んだ防振台車の先駆けでした。富山デ7000形の後期台車も、初期車で発生した凄まじい騒音と振動を反省し、ボックスペデスタル式の防振設計が採用されました。
時代が生んだ高性能の機能美
アメリカのPCCカーは、車輪の内側にフレームを隠してすっきり見せる足回りでしたが、日本の劣悪な路面環境(道路の舗装の隙間や未整備な軌道)では、強度が足りず保守が追いつきませんでした。その結果、日本がたどり着いたのが、高性能・低騒音を目指しつつ、日本の道路に耐えるために、外側を鉄の覆いで固める構造でした。

1500型
富岩運河環水公園は、鉄道と無関係だった。ところが帰宅後に調べると、次のことが分かった。
想定と完成(1930年代):富岩運河は1930年(昭和5年)に着工し、1934年(昭和9年)に完成しました。富山駅の北側に作られた広大な船溜(約5万㎡)は、将来的な鉄道引き込み線の敷設を想定して強固な荷揚岸壁が築かれていました。その後、1938年(昭和13年)に富山駅〜日曹工業前(後の奥田駅)を結ぶ貨物線として正式に敷設されました。
国有化と奥田駅(1940〜50年代):1943年(昭和18年)に路線が国有化されて国鉄富山港線となると、終点は奥田駅と改称され、車扱貨物の専門駅として機能するようになります。運河周辺の工場へ原材料を搬入し、運河の水運と連携して木材や石炭、製品などを運び出す極めて重要な物流拠点でした。
衰退と廃線(1980年代):高度経済成長期以降、貨物輸送がトラックへと転換したことや、周辺の工場撤退が進んだことで貨物量が激減しました。その結果、1984年(昭和59年)2月の国鉄ダイヤ改正にともない、富山駅〜奥田駅間の貨物支線は廃止(廃線)となりました。
奥田駅は、富山港線のどこから分岐したか
奥田駅(貨物支線)は、富山港線の起点である富山駅から直接分岐していました。現在の「東田地方地下道」が通る道路(県道)の真上付近では、南から順に、地鉄本線、北陸本線上下線、富山港線(本線)、奥田駅への貨物支線、の計5本の線路が横一列に並ぶ形で並走していました。
富山駅の北東側(現在の電留線・駐車場付近)を本線と並んで出発した貨物支線は、東田地方付近(現在の奥田中学校前停留場の南東あたり)に差し掛かると、本線と別れて西(左)方向へ大きく急カーブを描いていきました。
本線はそのまま北へ直進(下奥井・岩瀬浜方面)するのに対し、貨物支線は直角に近い形で西へ進路を変え、いたち川を渡って富岩運河の船溜(奥田駅)へと向かっていました。
この東側エリア(東田地方付近)は、国鉄の主要幹線、貨物線、私鉄(地鉄)が狭いエリアに集中していたため、かつては非常に遮断時間の長い有名な踏切が存在していました。貨物支線が廃止された後の1987年(昭和62年)に道路の立体交差化(東田地方地下道)が完成しました。
違ってゐると思はれる部分を赤色にした。1968年の地図を見ると、支線は富山駅を逆方向の西北に進み、すぐ右折して船溜りの左岸を北上し、日曹製鋼(現、太平洋製鋼)への引き込み線と、興国人絹パルプ(現、アステラス)への引き込み線になる。AIはときどき、出鱈目な情報を辻褄を勝手に作り上げて合はせるから注意が必要だ。
地図を見て、もう一つ貴重な情報がある。富山港線(本線)へは、富山操車場から城川原駅の北までの短絡線があった。(終)
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