三百二十六(乙)滋賀大学准教授柴山桂太氏「静かなる大恐慌」

平成24年
十二月八日(土)「人気の書籍」
(甲)で紹介した柴山桂太氏「静かなる大恐慌」は大変な人気である。地元の図書館で予約しようとしたところ40人待ちである。都内の図書館でも調べたが17人待ちだつた。
やむを得ず本日、国会図書館まで調べに行つた。今まであちこちの図書館を探したが蔵書がないので国会図書館まで行つたことが二回ある。一回目は京阪電鉄について書かれた本で、京都や滋賀の図書館ならあるかも知れないが東京と神奈川はなかつた。やむを得ず国会図書館まで行つた。行く3日くらい前から楽しみにしたが内容は予想に反ししかも大学の卒論を本にしたといふから、そんなものは本にするなと書いたのが二百三十五(1)消へた路面電車、京阪電鉄京津(けいしん)線である。二回目は或る団体を除名になつた人が書いた本でこれも地元の図書館にはないから国会図書館まで調べに行つたが、わざわざ行くほどてもなかつた。
それに比べて「静かなる大恐慌」は国会図書館まで行く価値が十分にあつた。柴山桂太氏は38歳(誕生日の前や後で1歳異なるかも知れない)と若いので、「何々と思う」と控えめな書き方である。読者はこの控えめな表現に「大したことない」と肝心の内容を見逃すことがあつてはならない。大切なのは内容である。この書籍は特に今、衆議院に立候補中の候補者は読む必要がある。

十二月九日(日)「第一次グローバル化の失敗」
ここ10年来のグローバル化は2回目で、過去にも1回目がありそれが二つの世界大戦の原因となつた。その前提で柴山氏は次のように主張する。
・第一次グローバル化の、このふたつの失敗を踏まえたところに、ブレトンウッズ体制の目的がありました。経常収支の均衡と、国内の完全雇用--あるいは社会防衛のためのさまざまな福祉政策--の両方を達成すること。
・第一次グローバル化の失敗は、短期の資本移動にあるというのが、彼らの一致した意見だったからです。
しかしアメリカの貿易赤字が原因でブレトンウッズ体制は30年で終止符を打つた。

この著書の優れたところは、二つの世界大戦の原因が経済にあると主張するところである。これがまともな見方である。丸山真男のように何でも日本古来のものが原因だといふのでは話にならない。その延長線上に英米仏は何でも正しいといふ読売新聞や朝日新聞がある。

十二月十一日(火)「カール・ポランニー」
保護主義・ブロツク化についてカール・ポランニーは
・グローバルに連動した市場経済が、もともとあった社会を著しく不安定にしたためだ、と説明しています。
・人間は家族やコミュニティのなかで生きていますので、地位や賃金が不安定であることに、耐え難い苦痛を覚えるのです。
同感である。私自身は非正規雇用や有期雇用ではないが、なぜこんなに非正規雇用や有期雇用に反対するかと言へばその不安定にある。
・ここで重要なのは、ポランニーが一九世紀の市場経済を、あくまで人為的に構築されたもの、と捉えていた点です。自由市場は、自然発生的にはできません。例えば「労働市場」や「土地市場」は、人間や土地という、本来は市場交換になじまないものに値段をつける市場であるため、人々から強い抵抗にあいます。だから、どの社会・文化も必ず規制をもっている、むしろ、そちらのほうが自然発生的ともいえるのです。ポランニーの考えは、もともとあるこうした規制を強権的に撤廃することなしに、自由市場は出現しないということでした。

十二月十四日(金)「脱グローバル化」
そして柴山氏は次のように結論付ける。
戦前の場合、それは保護主義とブロツク化の果てに戦争へと向かいました。それと同じ過ちを繰り返すべきではないことはいうまでもないことでしょう。
しかし「脱グローバル化」が必ず戦争へと向うと考えるのは、あまりに悲観的すぎるというべきでしょう。今後世界が保護主義へとゆるやかに舵を切るなかで、国家間の対立をできる限り緩和させていく、そのような働きかけを行う余地は、いくらでも残されているからです。


ここまでは完全に同感である。脱グローバリズムが戦争に向ふのではなく、グローバリズムを進めると国内が混乱し戦争に向ふ。

十二月十五日(土)「資本主義を再定義」
柴山氏はこれから歴史がグローバル化から脱グローバル化へと方向転換することはあっても、資本主義が終わるわけではないのですと述べる。この部分が私と異なる点である。自由経済は昔から続くが資本主義は近代にできた。だから自由経済に戻すといふのが私の意見だが、まづ柴山氏の主張を見てみよう。
あらゆる国家には、何世代にもわたって蓄積された「国民資本(ナショナル・キャピタル)」が存在し、(中略)こうした貨幣を必ずしも媒介としないかたちで増えたり減ったりしている資本に注目して、その蓄積が我々の生活にどんな便益を--あるいは不便益を--もたらしているのかを正統に評価することにある、というのが私の考えです。

これなら資本主義が終はらないとしても賛成である。そしてこれは私が主張する自由経済そのものである。(完)


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