百四十、石原莞爾(その四)敗戦前後

十一月八日(月)「終戦に向けて」
私が石原を嫌いだった三番目の理由は戦争中は何もせず、戦後になってからGHQに戦犯にしろ、と言ったという石原への悪口を信じたからであった。これも全くのでたらめだった。
「永久平和」という小雑誌の五七号に東久邇日記一九、九、二六が載っている。

午前九時、石原莞爾来たる。石原の話、次の如し。

「現在の日本は軍人、官吏の横暴、腐敗その極に達し、中央は勿論、地方の末端に行く程はなはだしく、一般国民は軍人、官吏にあいそをつかし大東亜戦争にまったく無関心で戦争等はどうなってもかまわぬという感じである。(中略)サイパンの玉砕も国民には何らの刺戟もない。国民がかくの如くなったのは軍人官吏の腐敗が原因で、特に陸軍軍人が政治に興味をもち、政治に深入りして権力を振うに至ったからである。国内の革新は陸軍自体の粛正、次で官吏に及ぼさなくてはならぬ。
大東亜戦争解決の第一歩は、重慶との和平にある。これがためには、小磯内閣ではダメである。故に小磯内閣を倒し、東久邇内閣を組織し、三笠宮を支那派遣総軍司令官として、重慶と和平しなければならない。そうしなければ日本は滅亡するだろう。」

それから次のように、私と石原は問答した。
石原「あなたは陛下に、小磯をやめさせて、あなたが内閣を組織するように申し上げなさい。」
「私はそんなヒットラーやムッソリーニみたいなことはことはできない。」
石原「今国家が滅亡するかどうかという時に、皇族は重大責任がある。もしあなたがいやというなら、あなたは日本始って以来の大不忠の臣である。」
「たとえ大不忠の臣となっても、私はヒットラーのようなことはことはできない。」
石原「それでは、私はもう一生あなたのような人にはお目にかからない。」
石原はそういって、十時頃憤然として辞去した。私に向って「不忠の臣」などといったのは石原ぐらいのものである。

十一月九日(火)「東亜の父(一)」
次に高木清寿氏の「東亜の父」を見てみよう。
・(石原が近衛に)「あなたは総理大臣であるから、事変解決のために南京におもむき、蒋介石首席と直接話合って、国交調整をなすべきである。その場合はこの石原も同行する(以下略)」と申入れた。(中略)ようやく内閣書記翰長風見章氏から「南京行は見合せる」旨の返事がきた。将軍は昨十一年十一月の北京会談によって、自分が行って直接話合えば解決がつくという充分な自信を得て居ったから、(中略)「二千年の皇恩を辱けのうして日本を亡ぼす者は近衛である。」と激怒した。
この時浅原健三氏は、時の内務大臣海軍大将末次正信氏を訪れ、「南京へ直接出向いて蒋介石氏と話合って事変解決をしようという人もいるが、あなたはどう思うか」と末次氏の意中を尋ねた。末次大将は「それは大変だ。それこそまた東京事件だ(二・二六事件と同様な事件が発生するの意)」と答えた。
「末次将に非ず。陸軍大将や海軍大将の十人、二十人殺される事ぐらいが何で大変なんだ。(中略)老ぼれて役にもたたない陸海軍の大中将が、二、三十人殺されるだけで、この東亜の大難が救われるなら、それこそ有難いことではないか。」


十一月十日(水)「東亜の父(二)」
「近衛総理大臣が陛下に奏上し、陛下が『よろしい、それなら行ってまいれ』と仰せられれば、日本人の何者にも阻止されない天下の大号令なんだ。それで南京で蒋介石と話合いがつけば、私はただちに南京からラジオで『(前略)このように解決することになった』と放送し、即時処置を講ずる決心だった。(中略)この解決と同時に、一挙に南方豪州まで占領してしまう。そして南方は全部中国軍と日本海軍にまかせる、今の中なら英米は手が出ない。関東軍は満州国軍と共にソ連の警備に当る。同時にわれわれは、東亜連盟の徹底的建設を決行して、(中略)アメリカを一撃でたおす態勢をととのえ、世界の絶対平和建設に入る。日本はこれで天与の好機を失った。」
「日本の中国に有する権益はこれを全部中国に返還する。(中略)かかる問題は権益思想の強い日本人にとっては大問題である。事変中しきりに『聖戦』と称し、『皇道宣布』を口にしながら、『これだけの犠牲をはらって、ただでは済ませられない』という日本人である。」


十一月十一日(木)「西洋帝国主義と地球温暖化」
事変解決と同時に一挙に豪州まで占領してしまうとはずいぶん乱暴な計画だ。多くの人がそう思うであろう。しかしこの時代は世界のほとんどが西洋の植民地だった。石原の主張は当然である。それより石原の言うようにまず豪州まで占領し、アメリカとの最終戦にも勝ったとしよう。それで永久平和が訪れただろうか。満州で判ったように日本人が世界で特権意識を持ち、世界で反乱が起きたであろう。日本は日露戦争以降、西洋帝国主義の一員となった。もはや世界をまとめるなんて不可能だった。何しろ日華事変を止めるだけでも国内のクーデターを心配しなければならない。

戦後はほとんどの植民地が独立した。しかし豪州、カナダ、アメリカが残った。このうち前の二つは良性腫瘍、後ろの一つは悪性腫瘍である。アメリカは人口一人当たりの石油浪費量が最も多く、人口増加率も先進国で異常に高く、世界で最も戦争を起こす。地球温暖化阻止とアメリカの最終抗争に、いかに平和的に勝つかが人類の課題である。

十一月十二日(金)「悪魔の手先トルーマン」
「『永久平和への道』いま、なぜ石原莞爾か」に投稿した門垣次郎氏の「戦後の石原莞爾」を見てみよう。

東京の逓信病院に入院した。(中略、連合軍の)検事が来て、「戦犯の中で一体誰が第一級か」と訊ねたが、石原は「トルーマン」と答え、さらに大統領就任の時ばらまいたビラを見せ、「もし日本国民諸君が軍人と共に戦争に協力するならば老人、子供、婦女子を問わず全部爆殺する(以下略)」と書いてある点を示し(以下略)

次に曹寧柱氏の投稿「石原莞爾の人と思想」を見てみよう。曹氏は戦後、在日大韓民国民団の理事長を勤めた。
・右翼とりわけ極右は、石原をあしざまに罵倒した。平和主義・反戦論・非国民・アカ・反国体、果ては朝鮮独立で明治大帝に弓を引く国賊だ、と口の限りをつくして罵った。
朝日など一流新聞までが手先となって、「天皇盟主論」を持ち出し、東亜連盟は態度が曖昧だと詰った。
・そもそも愛国には二種類がある。他民族国家の犠牲の上に自国の繁栄を期する愛国主義、(中略)もう一つは、自国を愛する気持ちが強ければ強いほど、並行して他国も大事にするという愛国主義、(中略)石原がこれだ。
・東條に媚びる右翼や新聞は「盟主」をかかげて、東亜連盟の国家観に難癖をつけた。(中略)石原は、執拗な当時の世論をただすため、「盟主」の見解をのべた。「東亜民族は、日露戦争までは明治大帝に好感を以て仰ぐ気持ちがあった。それが今は尊敬されない日本人によって、天皇を拒む気持ちにかわった。」


十一月十四日(日)「戦後の記者会見」
戦後に石原が重慶中央通信の記者に答えているのでそれを紹介しよう。今回の記事は戦後のものであり、しかも「たまいらぼ」の全集なので必ずしも信頼はできない。例えば満州国の独立を取消すと言っても溥儀はどうするのか。また、中国、日華、日支という用語が混在されているが本当に石原がそう言ったのか。
「たまいらぼ」の全集は玉井禮一郎その他が解説と称して勝手なことを書いていて価値を大きく損ねている。戦後に石原へ悪い評判が流され出版社が手を付けない空白地帯に「たまいらぼ」が進出したと言える。
玉井は東京谷中の僧X宗の寺の石塔が、寺自身が否定しているのに僧Xの本懐だと言ったり、僧侶でもないのに勝手に玉井日禮と名乗ったりしている。


・満州を中国本部と切離すことは日支間の紛争を少なくし、更に日支提携を促進すると共に同地をソ連に対する防衛力としての基礎を固めることが出来ると考へたからだ。この私の見解は在満中国人の同意の上で実行に着手されたわけである。断ってくが自分の考へとしては、それが実現すれば在満諸民族は全く平等として満鉄、旅順大連は即時満州国に返還し、中国にある日本のあらゆる政治的権益は無条件で中国に返還する意向であった。(中略)しかし私のこの主張は実現しなかった。
・私も私達の当初の約束が実行されなかった以上その後東亜のためには満州の独立を取消すべきであることがわかれば取消してもよいと思つてゐる。たしか一年前であつたと思ふ。東久邇宮殿下から日華問題解決について御下問があつたが、その時にも「私を全権にして戴きたい、私が蒋介石氏と話して日華双方の意見として満州国は当分独立国としたほうがよいといふなら独立を継続するし、さうでないなら取消して来ませう」とお答へしたほどである。


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