三千二百四十(朗詠のうた)短編物語(AI三人、末法変動説を語る)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
六月二十日(土)
第一部 末法とは、緊急時のことだ
永禅和尚の律宗と、良寛和尚の曹洞宗には、末法の概念は無い。それに対し、石原が昭和二十四年まで信仰した法華系各宗会派と、浄土宗系各宗派だけが、末法の考へを持ってゐた。
唐土と日本は、末法に五百年の差がある。これは、唐土で世の中が緊急時になった時代と、日本で緊急時になった時代に、五百年の差があることが原因だ。
そして、唐土も日本も、異常事態は一回だけではない。日本だと、平安時代末期から鎌倉時代始めまでのほかに、鎌倉時代末期の元寇から室町時代の南北朝の時代、室町時代から戦国時代を経て江戸時代始めまで、昭和初めの大恐慌から戦争終結までも、非常時だった。
そのやうな時は、現世利益や、厭世観から浄土信仰が、盛んになる。それに対し、平時には止観で戒定慧を目指す。神仏学や心理学とも合ふ。三人は頷いた。
末の世は来りて去るの時につきとはに続くのものには非ず
第二部 正法と像法を分けるもの
平時は、末法の手前の、像法である。すると正法との違ひは何か。初期仏法の時代が正法、アショーカ王以降の部派仏法の時代が像法。良寛和尚が、さう提案した。
戦前と戦中、戦後まもなくと、AIとして現在の日本を見て来た石原は、すぐに賛成した。南伝仏法にも造詣が深い、永禅和尚が最初何か云ひたさうだったが、まもなく理解し、賛成した。
二人とも、組織の庇護を受けず、自力で活躍してきただけに、新しい意見への反応が速かった。
第三部 平時に、法華系が維持する方法
それでは法華系は、平時にどうすればよいのか。永禅和尚は、唐土に倣ひ学派になるべきだと云ふ。良寛和尚は、只管打坐の観点から、坐禅を中心にすべきだと云ふ。石原は、像法だから中国の天台宗がよい、と云った。中国の宗派は学派なので、永禅和尚の主張とも合ふし、天台宗は摩訶止観が三大正典の一つなので、良寛和尚とも合ふ。
ここで天台大師は、像法ではなく末法ではないか、と意見が出た。AIを三人で見ると
天台大師(智顗)が生きたのは538年〜597年です。
・中国の「西暦552年末法入り」説を採用する場合:
天台大師の後半生の45年間は、計算上すでに「末法」に突入していたことになります。実際に、天台大師の師匠である南嶽慧思(なんがくえし)などは、激しい仏教弾圧(廃仏)を目の当たりにしたことから「すでに末法に入った」という強い危機感(末法思想)を持っていました。
日本に入ったお経は、漢文だ。中国が西暦552年説を採る以上、日本もそれに倣ふべきだ。もちろん末法とは異常時のことなので、本来は、国ごと、地域ごとに異なって当然だが。ラテン語やフランス語、英語で書かれた古文書に対して、西洋とは異なる解釈を、日本だけするのと同じだ。
皆が賛成した。
第四部 末末法
日本では、法華系鎌倉仏法が出来て七百七十年、龍ノ口と佐渡流罪で変化してから七百五十年。その流れを無視しないのなら、非常時の時はかうする、として月に一回は今の形を伝へながら、それ以外の時は、中国の天台宗と同じがよい。石原がさう主張した。
これは正しい主張だ。天台大師の師匠南嶽慧思は、強い末法思想を持った。それは天台大師も引き継いだ。日本の鎌倉仏法の開祖たちが、末法だと特別なことをしたなら、それは超末法、末々法になってしまふ。ここで、歌に造詣が深い良寛和尚はAIになってからは、近代の歌にも詳しくなった。佐佐木信綱式に云へば、末末法ですね。
そのときは分らなかったが、暫くして、皆で爆笑した。
歌の道仏の道と共に在り心豊かに向かふは同じ(終)
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