三千二百二十六(うた)短編物語(平安な時代に現れた法華経僧)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
六月二日(火)
第一部 平安時代、平治の乱より前
平安時代は、平治の乱まで三百六十年間、概ね平和な時代だった。概ねと云ったのは、将門や純友の乱、前九年と後三年の役があった。しかし、一部地域に留まった。
このやうに平和な時代に、京都の辻で、法華経こそお釈迦様が説かれた真実だ、他の経や阿弥陀仏を信じると国内に戦が起きたり外国が攻めてくるぞ、と演説をする坊さんが現れた。
最初はだれも取り合はず、この平和な時代に何を寝ぼけたことを、と馬鹿にした。しかし毎日続けるため、耳にたこができるほどになった。やがて、ほかのお経の悪口を云ふな、と旗竿で叩いた人がゐた。それを合図に皆が、殴ったり蹴とばしたりしたため、坊さんは動かなくなり、息をしなくなった。

第二部 死後晒し首の事件、その後
検非違使が到着し、事情を調べた。そして、大勢の人たちが正しいことになった。誰一人として、咎められなかった。そればかりか、坊さんを死後にも関はらず還俗させ、晒し首にした。
この事件は、記録に残らなかった。狂人僧として処理されたからだ。或る役人が、自宅で書いた日記に軽く触れたが、書いたことさへ忘れ、其の人が亡くなると、日記は家の片隅で、子孫から見向きもされなかった。

第三部 鎌倉時代中期
鎌倉時代の中期に、元寇が起きた。或る坊さんが、法華経を信じないと国が亡びる、と鎌倉の辻で演説を始めた。そればかりか、念仏無間禅天魔真言亡国律国賊、とまで悪口を言った。これには、皆が怒った。
焼き討ちに遭ひ、弟子と信者が切り殺され、坊さん自身も額に傷を負った。幕府も放置できず、佐渡へ流罪と決まった。流罪は名ばかりで、途中で殺害する手筈だった。
その少し前に、或る役人が自宅の蔵を整理し、先祖の書いた日記を見つけた。そこには、鎌倉で評判の坊さんと似た僧が平安自体にもゐて、通行人多数に撲殺された話が書いてあった。そして一ヶ月後には、検非違使庁の別当が食中毒で亡くなったことも書いてあった。
坊さんを処刑する時刻が近づいた。そのとき、流星があった。この当時は、方角や時刻、月の満ち欠け、流星の有無を気にする時代だった。現場の責任者は、先祖の日記を思ひ出し、鎌倉の執権に早馬を出した。
翌日、執権から命令書が届いた。処刑は中止し、佐渡へ送ることになった。

第四部 お坊さんの予言
お坊さんの、法華経を広めなければ国が亡びる、の予言は、二回外れた。一つ目は、鎌倉時代だ。お坊さんを信じる人は、或る程度広まった。しかし佐渡へ流され幕府の弾圧も厳しくなった為に、激減した。それなのに、国は亡びなかった。
二回目は、江戸時代の幕末に、黒船が現れた。そればかりか、世界のほとんどを植民地にして行く途中だ。あの清国や天竺でさへ、虫食ひ状態になった。
鎌倉時代の元寇と酷似するので、明治維新前後から、このお坊さんの教へは人気が出て来た。国柱会は上野公園で布教活動を行ひ、霊友会も伸びた。霊友会から分派した孝道教団、大日本立正佼成会も伸びた。
それなのに、国が滅びた。正しく云へば、戦争に負けただけだった。西洋や天竺、清国では、よくある話である。だから日本も、終戦と称して亡びた訳では無かったのに、社会党と総評が解体してから、英語公用語の企み、LGBT法、リベラル、アメリカと組み戦争準備、と属国状態になった。
信者の人口比で見る必要がある。ほぼ壊滅状態となった鎌倉時代は、亡びなかった。各派併せて人口の一割弱に至った昭和平成で、亡国に至った。
信者が今後どう生き延びるかは、方法が無い訳では無い。しかし今回は、他宗派を妨害したり、性格の悪さを改善させることが目的なので、これで終了としたい。
〽丁度時間となりました。あ、これは浪曲の場合だった。短編物語なら、〽丁度字数となりました。
安国が現世利益に変はるなら周りに取りて障りなし 数字合はせの布教には新た憎しみ生まれ渦巻く

反歌  上位下達数字合はせが元となり心は悪く貪瞋痴へと(終)

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