三千二百三十六(うた)(モリカケ桜フジ河柳ジャニーズ藪黒敗トリー放債カルト裏安)産経は国語破壊勢力になってはいけない
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
六月十八日(木)
産経新聞のホームページに
「7月8日を再チャレンジの日に」 安倍昭恵さんが浜松で講演、静岡「正論」友の会

が載った。
浜松市中央区のアクトシティ浜松コングレスセンターで開催され、(中略)昭恵さんが「ともに歩んだ時代を未来につなぐ―後来ノ種子未ダ絶ヘズ―」と題して講演した。
(中略)「日本はいい国だけれど、一度失敗すると挑戦が難しくなる。これからは何度でも挑戦できる国にしたい」と話していたという。

見出しは「7月8日を何度でも挑戦できるの日に」がよい。それにしても、アクトシティ浜松コングレスセンターは、醜い命名だ。公共機関が、国語破壊行為をしてはいけない。産経の記事は、このあと
「(安倍氏の命日である)7月8日を『七転び八起き』、再チャレンジの日にしたいとの思いで、昨年から再挑戦をテーマにしたイベントも始めている」

があったとしても、である。もう一つ「―後来ノ種子未ダ絶ヘズ―」は、書き方が悪い。ほとんどの人が、絶えずぅ、と読んでしまふ。会場の写真には、ズと調音記号の間に、空白がある。見出しも、空白を入れるか、活字を小さくするか、工夫が必要だ。
明治維新以降の日本に於いて、保守とは急激な西洋化への補正であった。ところが、産経新聞は拝米西洋化だ。その副作用が、国語軽視に現れた。

六月十九日(金)
日刊ゲンダイのホームページに
シリーズ「占領下の日本社会」(119)不都合な真実には耳を塞ぎ、組織を崩壊させていった東條英機の軽薄さ

が載った。
東條英機やその系列の人脈に嫌われた軍人は、太平洋戦争下では主流にはなれなかった。その多くが、戦地に出されていたのである。
省部にいながら、東條のような戦争観に追随できないという者たちは、時に自ら戦地への異動を申し出ることもあった。

有料記事のため、ここまでしか読めないが、東條は人事に偏りが多いことを、陸相就任前から指摘されてゐた。お友だち依怙贔屓の安倍は、そっくりである。そして昨年辺りから、東條の復権が始まった。背後に岸信介の復権狙ひがあるのだらう。

六月二十日(土)
同じく、ゲンダイのホームページに
東條英機を激怒させた記者が執筆を熱望した「禁断の手記」…特攻の父と「同じ命日」に逝った副官

が載った。前文は
太平洋戦争の体験者が著した本は数多いが、まさに玉石混交。当事者はたいてい自分の周囲のことしか見えていないし、多くはプロの作家の手によるもので(中略)そんななか、太平洋戦争を知るうえで「ほんとうに読むべき本」が、新装解説版として復刊された。
『空と海の涯で』門司親徳著(上、下。光人社NF文庫)がその本である。

本文に入り
海軍報道班員としてフィリピンで知遇を得た毎日新聞社の新名丈夫(しんみょう たけお)(中略)は、昭和19年2月23日の毎日新聞一面で、
「勝利か滅亡か、戦局は茲まで来た」
「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ 海洋航空機だ」
と暗に陸軍の精神主義を批判し海軍航空兵力を増強すべきだと説く記事を掲載。これが当時の東條英機首相兼陸相の逆鱗に触れ、掲載紙は発禁処分となり、記事執筆の8日後、新名は陸軍に37歳にして懲罰召集された。いわゆる「竹槍事件」で知られる硬骨のジャーナリストである。
海軍省の記者クラブ「黒潮会」の主任記者である新名の召集に海軍は強く反発し、3ヵ月で召集は解除される。そして、陸軍による再召集を避けるため、海軍が報道班員としてフィリピンに送り込んだのだ。

東條とは、この程度の男である。

六月二十一日(日)
昨日に続き、ゲンダイの
シリーズ「占領下の日本社会」(118)戦時下の東條人事の酷さ、上司に逆らう軍人は意図的に激戦地に送られていった

を紹介したい。
東條英機の「二枚舌」による戦時指導は、その人事異動に徹底して表れたのだ(以下略)。
「東條さんは、人事をいじるのが大好きで、よく机の上に軍事機構の人脈図を広げて、こいつをこっちに持ってきて、こいつをあそこに移し、という具合に鉛筆で書き込んでいました。(中略)あの人を飛ばそうとしているな、彼はお気に入りだから省部に戻すんだな、といったことはわかりますよ。私たちも東條さんに嫌われたら大変だというので、必死に戦争政策に取り組みました」
こう語ったのは、東條の最も忠実な側近だった赤松貞雄であった。(中略)
能力に基づいて人事の「適材適所」を語るのであれば、それは組織として相応の意味を持つことはありうる。だが、東條人事は、「自分の言うことを聞くか」「逆らうことはないか」の2点のみがはかりの基準に据えられていたからである。
もし「逆らう」と判断されれば、どうなるか。(中略)精神病者として軍を追われたり、休職扱いに追い込まれたりするのだ。
「さもなければ、意図的に激戦地に送られて、死への道をたどることになるんだよ」
ある軍人は、声を落としてそう証言した。実際に昭和18年ごろのある時期から、軍内では上司に気に入られない言動をとった場合、「○○にやるぞ」という言葉が公然とささやかれるようになった。「○○」というのは、激戦地か、いずれ玉砕が予見される島々などである。この事実を証言した軍官僚は、「戦場で実際に戦っている将校や下士官、兵士に対し、なんと失礼な脅かしの言葉だったことか」と、涙ぐんだ(以下略)

こんな東條を、美化しようとする動きがあるのだから驚く。背後にあるのは、岸信介の復権だ。

六月二十二日(月)
ゲンダイは、メルマガ会員に登録すると、有料会員では無くても月に3つまで記事を読めることが分かった。昨日の記事は、それで読んだ。本日は、十九日の記事の続きを最後まで読むと
東條に代表される戦争観とは、「戦争は勝つまで戦う。講和などは平和主義者の逃げ口上だ」「私の命令は天皇陛下の命令である。私に背くことは陛下に弓を引くことである」「戦争は畢竟、負けたと思った時が負けである」という点に尽きた。
もし軍内で、「この戦争は負けだな」などと呟こうものなら、それが東條や東條人脈の耳に入った途端、敗戦主義者として、たちまちのうちに激戦地に飛ばされただろう。あるいは憲兵の耳に入れば、即座に逮捕、刑務所送りという事態もあり得たのだ。
(中略)昭和17(1942)年8月、英米で駐在武官をし、情報分析に携わっていた軍人が、交換船で帰国した。ワシントンで駐在武官を務めていた磯田三郎やイギリスで駐在武官をしていた辰巳栄一らである。本来なら彼らこそ、参謀本部の枢要で英米の国内事情を分析して、戦争指導の第一線に立つべき人材であった。有能な人材を適材適所で使いこなすことこそ、組織の要諦であるはずだ。しかし現実は違った。
(中略)磯田は交換船で東京に戻ってきた時に、東條のもとへ挨拶に赴いた。首相の部屋に入る直前、磯田は「1分で出てくるから、入り口で待っているように」と副官に告げた。実際に磯田はその言葉通り、すぐに出てきたという。
「つまり東條さんは、磯田さんがやっていた戦争前の対米交渉や、アメリカの国内事情などについて何一つ聞かなかったのですよ。磯田さんも『ワシントンから戦争回避の電報を打っていたが、全く相手にされていなかった』と言っていましたから。磯田さんが、『アメリカから帰ってきました』と言い、東條さんが『ご苦労さん』の一言で終わったのでしょうね。磯田さんはその足で、ビルマ方面軍の参謀としてラングーンへ向かうことになりました」
(中略)アメリカ世論が抗日戦の炎で燃えたぎっているというのに、東條らは「真珠湾に一撃食らって、敵はしゅんとしている」と思い込んでいたのである。
自分たちに都合の悪いことは耳に入れない。(中略)いかにも軽薄な戦争指導であった。

そんな軽薄な男と、その下で商工相や、国務相兼軍需次官(軍需相は東條)を努めた岸信介を、許してはならない。(終)

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