三千二百三十一(うた)岩淵水門訪問記
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
六月十四日(日)
本日は妻が一日中家にゐるので、急遽出掛けてよいことになった。今まで、都営一日乗車券が多かったので、今回はお金を掛けないことにした。まづは、先日作った北区立図書館のカードで一冊借りて、近くの公園で読んだあと、返却した。図書館内で読めばいいではないか、と思ふ人もゐることでせう。館内が寒いのと、カードを一回も使ってゐないので、試運転でもあった。
次に、岩淵水門と荒川治水展示館へ行った。中学生のときに、家から自転車で西日暮里、尾久橋、荒川右岸の堤防を走り、旧岩淵水門から北本通りで帰宅した。当時は、自動車が少なく、快適な自転車の旅だった。十回くらい走った。
水門の先に都電の終点あり 車少なくまばらにて北本通りのどかなり 後に東北自動車道開通により周囲激変
反歌
案内図小山酒造がまだ残り廃業と云ふ書き込みもあり
-------------------------ここから(見沼代用水と地元の話題、百二十四)--------------------------
三階には図書室があり、昭和三十三年出版の見沼代用水沿革史もあった。前に読んだことがあり、懐かしかった。見沼代用水土地改良区の所在地が浦和市仲町で、隔世の感がする。村単位では解決できないことが多く、郡と町村の間に領がかつてはあり、村どほしも顔見知りなので領で解決した話が載ってゐた。
浦和へ引っ越してからは、国道十七号を南下し、戸田橋を渡り、荒川右岸の堤防を浮間公園辺りまで走った。浮間公園と岩淵水門の間は、空白地帯になった。しかしおそらく走ったことはあると思ふ。3.5Kmしか離れてゐないのだから。
十七号 池袋へと浦和から 赤羽までは蕨から 戸田橋越えのバスもなつかし
反歌
十七号戸田橋までものどかにてかつて自転車走行天国
荒川治水資料館を観たあと、なつかしい赤色の旧水門を渡り、中之島へ行った。戻り青色の新水門を渡り、途中で昼食を食べた。治水資料館の説明係はよくない。ボランティアらしいが、大声で知り合ひの老夫婦と入口廊下の真ん中で話をする。脇を避けて中へ入り、展示を観てゐると今度は展示物の前で大声で話す。あれは説明ではなく、雑談または知ったかぶりだった。
二階と三階を観たあと、一階へ降りると、老夫婦はゐなくなったが、説明係らしい三人がアメリカのトランプについて大声で雑談をしてゐた。来館者は、いろいろな考へを持つので、さう云ふ話をしてはいけないが、その前に、来館者の前で雑談をしてはいけない。先日の草津宿街道交流館に続いて一週間に二回目なので、注意を促したい。
荒川治水資料館は「知水」の字を使ふ。受付の雑談を目にしたので、この語を使はず、一般に流通する治水を用ゐた。日本堤と隅田堤は、江戸の街を水害から守るためのものだった。しかし足立郡や豊島郡の農地にとっては、迷惑な話だらう。明治時代に大洪水があり、東京市内に甚大な被害が出た。それから荒川放水路が造られた。
旧岩淵水門は、船が航行するための高い門は、かつて電気機関車で開閉した。その後、横移動ではなく、上下移動の門に替へられた。あと、放水路建設時に、線路を敷き人力トロッコで土を移動した。
土手では、自転車マナー向上のためのアンケートを行ってゐた。そのボランティアと少し話をしたが、かつては土手が低かった。なるほど中学生の時に走行したのは、土手が低い時代だった。
流域の都市化と気候の温暖化 有り難く無き現象が二つも起きて地球大変
反歌
洪水の惧れがあると浸水の地図の配布と土手をかさ上げ

堤防の下に、地元の立てた地蔵 公園から対岸の川口市 (終)
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