三千二百二十二(うた)短編物語(血脈信仰がなぜ入り込んだが)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
五月二十六日(火)
第一部 三つの欠点
前回石原莞爾の挙げた三つの欠点について、永禅和尚、良寛和尚が話し合った。あの宗祖は、焼き討ちにあひ、首を刎ねられさうになり、佐渡に流された。不自由な事は嫌はれた筈なのに、なぜ管長に従はないといけないと、窮屈な宗旨になってしまったのか。
次回までに、古文書を調べることにした。話を聞いた石原も、次回は参加することにした。

第二部 此れまで既に出た疑問
宗祖が六老僧を定めたのに、あの宗派は六人のうち一人に血脈があると主張する。そしてそれが、今の管長へ続くとする。この時代にお寺を二つ建てて、最初に住持を努めた寺があの宗派、二番目に住持を努めた寺は、国柱会が連携し、講演を聴いた牧口さんも一回訪ねた。しかし、牧口さんの価値論は仏法とは異なるとして、この寺では断られた。そして、一つ目の寺に所属することになった。二つの寺は同格で、片方にだけ血脈があるとすることは不自然だ。
二番目の寺で、後継者が追ひ出される事件があった。一番目の寺は、裁定しなかった。つまり一番目の寺の管長が絶対と云ふことはない。そして二番目の寺でも、後継者争ひが起きた。このことから当時は、血脈が無かった。
貪瞋痴非常時故に考慮せずひと段落後貪りが出る


第三部 今回新たに出た疑問
二回目の集まりで、まづ出たのは次のことだった。最高位の僧が曼荼羅を書写することは、礼儀だ。仏法の教義ではない。ところが、管長の書写のみ花押を入れることから、管長のみが書写できることになった。とは云へ、そのほかの僧も、従来の形式で棟札を書くことは出来た。出来なくなったのは、何と昭和三十年代である。
管長のみが書写するとなると、管長には宝力があるのではないか。そんな迷信が生まれた。
日号は時経るにより重なれば管長のみが日号を書く


第四部 今回新たに出た疑問、その二
二番目の寺で起きた後継者争ひは、追ひ出された住持が別の本山を作り、今でも続く。元の本山は北寺、新たな本山は西寺と呼ばれた。
それに対し、一番目の寺で起きた後継争ひは長引き、隣に別の坊を建てる騒ぎになり、解決が長引いた。そして本山は疲弊したまま、江戸時代を迎へた。
分流した京都の本山の僧が、各本山の融和に尽力し、一つ目の本山は京都の本山から優秀な僧を何代か迎へ入れることにした。その間に、仏像を作るやうになった。二十六代目の管長が、仏像を廃絶するため無理な論法を用ゐた。京都の本山でさへ、影響を受けて仏像を廃止し、幕府から異流義、切支丹の法として弾圧された。
一番目の本山にも幕府から問ひ合はせがあった。しかし、京都の本山を開山した僧が上洛後のことは不明、と逃げた。これ以降、一番目の本山と、京都の本山は、不仲になった。
ここで、二十六代管長の無理な論法を使ふと、幕府の弾圧を招く。そこで、無理な論法は公開せず、奥儀は管長しか分からない、の神話が発生したのではないか。
二十六或る本山の魔の数に 此の時からは他の山と交流絶へて 仏法は管長のみが分かると奇説

反歌  血脈を否定の制度六老僧六か九にて出現したか
河辺メモに、六代目または九代目とある。

五月三十日(土)
第五部 中古天台
あの本山の血脈感は、中古天台の影響を受けた。恵心流の影響を受けたとする意見と、恵心流檀那流の両方の影響を受けたとする意見がある。これ以上は立ち入らないが、中古天台の影響を受けた事は間違ひない。

第六部 板曼荼羅偽作の余韻
歴代の管長は、板曼荼羅こそすべての曼荼羅の根源と述べて来た。このこと自体が、板曼荼羅に書かれた「本門戒壇也」を大きく離脱する。そして板曼荼羅は偽作が、明らかになった。そもそも、布教完成の時は、曼荼羅の図のやうに造像することが、古文書にあるのだが。
ここで重要な点は、歴代管長の云ったことが正しいとは限らないことだ。

第七部 写真鑑定と放射線鑑定
新本堂建設の時に、まづ一回目の板曼荼羅偽作説が出て来た。あのときに写真鑑定をすればよかった。二回目の河辺メモで、既に日禅授与を写したことは分ってしまったが。
放射線鑑定すれば、更に分かる。そんなことできないと反論があるだらうが、新本堂建設の時に、板曼荼羅お化粧直しが行はれた。奉安殿の堂内に小屋を建てて、その中で作業を行った。屋上屋を架すに似て、部屋内部屋を作る、だった。よほど見られたくなかったのだらう。
お化粧直しではなく、木が朽ちるから頭蓋骨前面修復作業だったのだらう。その時の破片を分析すればよかった。糊料で本体に戻すなら、分析後に可能だ。

第八部 火災と白蟻と鼠
鎌倉時代は、戦乱が絶えなかった。火災に遭ふ危険性は高い。木製のものが、すべての曼荼羅の根源で、それ以外は写しとするのは、無理がある。白蟻の害もある。鼠にかじられる惧れもある。
戦乱と火災白蟻鼠あり木で作りしは朽ちて消え去る


以上、次々に調査結果が現れた。永禅和尚、良寛和尚、石原莞爾が揃へば、ほとんどの事が解決した。将に、三人寄れば文殊の知恵であった。(終)

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