三千二百十九(うた)短編物語(石原莞爾、比較人類学者と再会)
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
五月二十六日(火)
第一部 比較人類学者と再会
(前回)石原莞爾は、ノーベル賞授賞式に出席するため、スウェーデンへ行った。そして、比較人類学者と再会した。思へば、信徒団体と宗派の仲たがひを防ぐ方法の研究をしたいと提案があって以来であった。
比較人類学者はドイツ人、石原はドイツへ留学した経験があるので、メールはほぼ毎日のやうに、ドイツ語で行はれた。しかし、ずいぶん長い年月に思はれた。無理もない。昭和四十年から二十年間を経過した。
四十年世界は米ソ日本には保革無くなり宗派も変はる
第二部 比較人類学者の質問
比較人類学者には、幾つか質問があった。まづ、1970(昭和45)年に布教を停止したのに、なぜ1965年まで戻ったのか。石原の答へは、1963年頃に布教が頂点に達した。あれで慢心を起こしてしまった。
そして早く布教を達成するために、三分の一が信徒になり三分の一が信仰に理解を示すなら布教は完成した、とする新たな教義が生まれた。ところが、それさへ達成できなかった。
石原が昭和四十年と云ったのは、別の意味もあった。宗派と信徒団体が石原の提案を拒否するときは、新本堂建設費用の集金を始める前に、板曼荼羅偽作説を広める選択肢を残した。
次に出た質問は、言論出版妨害事件のときにあのまま布教を進めればよかったが三つの欠点がある、と石原が述べた内容だった。石原は次を挙げた。
一、戒壇曼荼羅根源説は後世に発生
二、管長絶対説の誤り
三、他の宗派を認めないデジタル思考の誤り
まづ一は、脇書きを信じれば戒壇の曼荼羅であり、あの宗派の云ふやうに、すべての曼荼羅は戒壇曼荼羅の写しではない。現に讃文に、仏滅後二千二百二十余年と二千二百三十余年の二種類があり、戒壇曼荼羅は他と異なる。
更に今となっては、戒壇曼荼羅が後世の偽作であることは、河辺メモで明らかになってしまった。放射線鑑定をして、科学の進歩で真実が明らかになったと公表すれば、逆に布教の手助けになるのだが。
管長絶対説は、国柱会の田中智学先生が連携した寺と、あの寺は、兄弟寺の関係だった。どちらが上と云ふことはなく、現に兄弟寺で管長が追ひ出される事件の時に、あの寺は裁定できなかった。そして、あの寺自身後継争ひが数十年続き、疲弊したことがあった。
三番目のデジタル思考は、世の中に良いと悪いの二つに分類できることは、ほとんどない。例へば、ヨーグルトが健康に良い、と云っても、食べ方に工夫すれば更によくなるし、砂糖を入れて食べたら良さが半減する。日露戦争も、日本が勝ったのではなく、ロシアは国内に反皇帝勢力が増えて、戦争を早く止める必要があった。決して、勝った負けたの、二項対立ではない。
それなのにあの宗派は、自分たちは正しく、他は例へ元兄弟寺であっても堕地獄だ、と云ふ。云ふほうはよくても、云はれたほうは恨みが残る。私は昭和二十四年以降、法華信仰とは離れたので、客観的に傍観できるが。
傍観を試してみるは役立つも出来ざる教義カルトか注意
五月二十七日(水)
第三部 布教完成
あのとき、三つを解決し布教を続けてゐたら、完成しただらうか。比較人類学者が尋ねた。したでせう。石原は答へた。彼らが根拠にするのは一期弘法抄の「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」でせう。この文書は真偽未定ですが、今引用したより前の部分に六老僧を定めたことと矛盾することがあるので、おそらく偽書でせう。とは云へ、歴史文書として尊重はすべきです。
今まで自民党と連立を組んできたので、今度は我が党より、と首相を出す機会があったかも知れない。時の首相が新本堂へ参拝し、本日戒壇を参拝しました、と発言すれば国主この法を立てたことになる。今は国民全体が国主と考へられるが、首相が適任でせう。国民の三分の一と、機械的に数へる必要はない。
自民党の首相に「私は信者ではないですが、国交大臣が本日参拝することをうれしく思ひます」と発言してもらひ、国交大臣で済ませる方法もあった。
この宗に布教完成描けぬは宗旨替へせよ既得権避け
他宗へ押しかけるなど無理な布教をしてはいけない。布教完成を描けないのだから。(終)
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